旦那様は胸が苦しいようです
今週二話目。
最近、よく胸が苦しくなる。この十年後の世界に来てから、家族を想うといつも胸が詰まって苦しかったが、それとは別のものだった。原因は分かり切っている。息が詰まって、胸の奥が疼くのは決まってヴィヴィアナのことを考えている時だからだ。こうなったのは、あの日からだろう――……
先日、一人の料理人によってヴィヴィアナに命の危険が迫った。幸い早期発見により犯人は捕まり、ひと悶着はあったがそれ以上は何事もなく、事件は終わった。犯人の男はヴィヴィアナと話した末に結局故郷に帰ることになったらしい。だからそれで終わりのはずだった。
だが、その事件から、嫌な夢を見た。ヴィヴィアナが、死んでしまう夢だ。
いつも通り向かい合って食事をしていると、ヴィヴィアナが急に口元を押さえる。そして強く咳き込むと、口を覆っている手の隙間から血が滲んでくるのだ。驚いて手を伸ばすが、そのまま力なく倒れてしまう。慌てて駆け寄って抱き上げるが、彼女はもう、二度と目を開けることはなかった。何度もその夢を見る。手を伸ばして止めようとするのに、喉の奥がなぜか詰まって声が出なくて、ヴィヴィアナが持つスプーンは必ず口へと運ばれ、そのあと彼女は血を吐く。口の端から真っ赤なそれが伝い落ちて綺麗なドレスにシミを作る。それが、何度も何度も。決まってヴィヴィアナは息を引き取ってしまう。自分の血を見て驚く表情。大きな翡翠の瞳をさらに見開いて、血の混ざった咳をまた零す。そしてもう自分はダメだと悟ったのか、一度辛そうに表情を歪めると、必ず彼女はこちらを見て笑うのだ。辛いのは、苦しいのは、ヴィヴィアナ自身だろうに、大丈夫ですよ、と安心させるように口の端が震えた下手な笑顔を作る。何度も、そして最後には、彼女は呼吸を止めてしまうのだ。
いつだって目覚めるのはヴィヴィアナの体温がなくなった後だ。勢いよく起き上がり、苦しさに胸を押さえる。彼女が死んでしまった悲しみと、なにもできなかった自分への行き場のない怒り、それが夢であった喜びと、これから起きてしまうかもしれないという不安。感情が入り混じって、どうすればいいのか分からなかった。すぐにでも近くの部屋で眠っているはずのヴィヴィアナの部屋に飛び込み、その存在を確かめたかった。頬を触って、その顔色を。手を握って、その感触を。抱きしめて、その体温を。どうにかして夢が夢であるという事実が欲しかった。だから、何日も続く悪夢に耐え切れず本当に彼女の部屋へと駆け込んだ。
寝ぼけた彼女は驚いてはいたが、眠そうな目を擦って落ち着かせてくれた。大丈夫ですよ、ここにいます、と。一番欲しい言葉が聞けて、安心して泣きそうになってしまった。よかった。本当によかったときつく抱き締める。伝わる体温が、本物で、彼女が生きていると実感できてうれしかった。思えば、あれが初めての抱擁だった。――悪夢は、もう見なくなった。
だが、あれ以来悪夢は去ったというのに、なぜかまだ胸が痛くなることある。原因はまた、彼女――ヴィヴィアナだった。
「おはようございます。旦那様」
朝、いつも通りヴィヴィアナは食堂で出迎えてくれた。ギルバートは寝起きがいいほうではなく、いつも朝食ギリギリに来る。時間に遅れているわけではないが待たせてしまっているので申し訳なくはあるが、毎朝こうしておはようと言って食堂で迎えてもらえるのが嬉しい。
「ああ、おはよう」
席に着くと、温かいスープが運ばれてくる。それを合図に会話が始まった。お互いの今日の予定を確認する。
「僕は今日、街の視察に行く予定だ。町長たちを集めて会合を開く予定だから遅くなると思う」
「そうですのね」
残念そうにヴィヴィアナは視線を下げた。最近は仕事にも少しずつ慣れてきて、最終決定に判を押すだけではなくなった。資料に目を通し、判断を行う。前はなかったが、今はなんとなくこうすべきだろうということが頭に浮かぶ。それはもしかしたら十年後の自分の記憶から来るものかもしれない。自分の知識以上のことがふと分かってしまうのは少し怖いが、ヴィヴィアナが仕事に関わることが減り、負担が軽くなったようでなによりだ。
「旦那様は以前から人をまとめるのが得意でいらっしゃいましたから、きっと早く終わりますわ。帰りをお待ちしております」
夕飯が一緒に食べられないからだろうか、ヴィヴィアナは少し寂しそうに笑った。また、胸が苦しくなった。それと同時に、モヤッとした。旦那様のことを語られて。ヴィヴィアナの呼ぶ旦那様は、時折ギルバートではない。記憶を失う前であり、氷の伯爵と呼ばれていたギルバートだ。自分のことでは、ない。旦那様のことがヴィヴィアナの口から出ると、なぜか言葉にできない息の詰まる感情が心を占める。彼女はギルバートに旦那様を投影しているのだろうか。
「それは恋では?」
朝食が終わり、視察のために馬車に乗り込み心中をアルバストに語ると、意味の分からない答えが返ってきた。恋? すでに結婚している妻に? なにを言っているのかわからなくて眉をひそめる。
「以前も、こうして戸惑っておられましたね」
「以前? 僕はアリアンに恋をしたのか?」
「アリアン様、ですか? ……いえ、なんでもありません。記憶を失くされたのですから、これは紛れもない初恋ですね。二十七にもなって初恋とは、朴念仁のギルバート様らしいです」
「僕の感覚ではまだ十七だ」
「ふふっ、そうでしたね。十七だとしても随分と遅い初恋ですよ」
アルバストはなぜかとても嬉しそうだった。目を細めて静かに笑う。そんな様子を横目で流し、外を見た。伯爵領は農業の土地なので、どこまでも畑が続いている。空を見上げると、鳥が大きく羽ばたいていた。
恋、か。それも初恋。ヴィヴィアナに? 確かに彼女は家族のような、いや、妻であるから家族だが、その気持ちは姉や妹に向けるような穏やかな感情だ。ギルバートは恋をしたことがないが、聞くところによるとそれはなににも代えがたい焦がれる気持ちだというじゃないか。そんな風にヴィヴィアナを想っているのだろうか?
「なぜ、そう思ったんだ?」
アルバストを見つめる。すると、今度は意地悪そうに笑った。それは幼馴染の表情だった。
「教えません」
「はぁ? なぜだ?」
「だって、俺は忙しすぎて結婚する余裕がなかったのに、ヴィヴィアナ様みたいに美人の奥さんがいて悔しいですから」
「だったらお前も結婚すればいいだろう?」
「相手がいません」
「そんなの自分で見つけろ」
「俺にそんな時間があると思うのですか?」
「ぐっ……!」
確かにアルバストの時間の大部分を奪っている自覚があるのでちっとも言い返せない。だが、ギルバートがヴィヴィアナに抱いている感情を恋だと思った理由は聞きたい。
「しょ、紹介くらいはする。僕ができる範囲内でだが」
「本当ですか!」
アルバストは嬉しそうに手を合わせた。なんだかヴィヴィアナの仕草に似ていてイラっとする。
「では、ヴィヴィアナ様の侍女であるカルリトヴァをお願いします!」
「ヴィヴィアナの侍女? それは僕の管轄外だ」
「いえ、口添えしていただけるだけでいいのです」
わかった、と返事をした。すると、アルバストは拳を振り上げて喜んだ。
確かにヴィヴィアナの侍女たちは全員見目麗しいので求婚は激戦だろう。聞いたところによると、屋敷の使用人たちで誰が一番好みか派閥があるようだ。それにしてもアルバストの好みがカルリトヴァとは、初めて知った。彼女はギルバートとは趣味が違うが、万人に好かれそうな見目の可愛らしさをしている。きっとモテるだろう。幼馴染を応援したくはあるので、なるべく叶えられるようにヴィヴィアナに話を持ち掛けてみるつもりだ。今はそれよりも――……
「なぜ、僕の気持ちが恋だと思ったんだ?」
もう一度聞く。喜んでいたアルバストは拳を膝の上に戻して、にこりと笑った。そして一言簡潔にこう言ったのだ。
「それは嫉妬ですよ」
「嫉妬?」
「ええ、ギルバート様はかつてのご自分に嫉妬していらっしゃるのです。身に覚えがありますでしょう? ヴィヴィアナ様が記憶を失くす前のギルバート様を懐かしまれるとき、そして褒められるとき、いつも少し顔を顰めていらっしゃたではないですか」
「確かに――」
身に覚えがないわけじゃなかった。ヴィヴィアナにギルバートではない旦那様の話をされると、彼に関連付けて褒められると、気持ちが沈んだ。
「そうか……」
ギルバートはヴィヴィアナが呼ぶ旦那様に嫉妬していたのか。声とともに視線も落ちた。
最近、胸が苦しい理由も分かった気がする。自分を見てもらえていない気がしたからだ。だって彼女が求めているのは、互いに恋に落ち、二年間ずっと過ごしてきた旦那様だ。十七に戻ってしまったギルバートではない。兄のように仕事ができて、彼女に頼られ、性格は冷静沈着と今の自分とはまるで違う、氷の伯爵と呼ばれたその人を愛しているのだ。きっと彼女が求めているのは、ギルバートではない。
――――ああ、こんな気持ち、気づかない方がよかった。
十年後の世界に突然現れた妻。かつて添い遂げると思っていた人とは違う彼女は、ギルバートを支え、家族のようになった。そして今、ギルバートは妻に恋をした。愛してしまった。妻を愛することになんの障害もないはずなのに、妻は自分であり自分でない人を愛していると気付いてしまった。
胸が苦しい。こういうとき、自分はどうすればいいのだろう。彼女の優しさに甘えても、ギルバートを通して旦那様を見ていると知って辛いだけだ。
なぜ彼女に会った記憶がないのだろう。いや、なぜ自分が彼女と出会わなかったのだろう。なぜ、こんなにも胸が苦しいのだろう。
「ギルバート様?」
アルバストが顔を覗き込んでくる。ぼーっとしているようにでも見えたのだろうか。
「なんでもない」
窓から見える空は相も変わらず青々と澄み渡っている。
――――この気持ちは消してしまおう。
初めて芽生えた恋という気持ちを、遠い向こうの山にそっと投げ捨てる思いでそう心に決めた。きっとヴィヴィアナはこれからも今と変わらず接してくれる。それでいいじゃないか。辛いのはもう、こりごりだ。だから家族としての愛で、彼女と一緒にいよう。そうすれば、きっとこの胸の苦しみもなくなるはず。ギルバートが旦那様になることなどできないのだから。彼女が幸せならば、それで、いい。いいはずだ。
息苦しさに、胸元にある母の形見のロケットを握る。彼女の幸せを願ったはずなのに、胸が苦しくなってしまう自分が、この上なく恨めしかった。
口滑らせ大臣アルバスト。
めんどくせぇ旦那様ですが、優秀な兄を見てきたせいで、実は自分に自信はない青年です。兄のように領地経営ができたかつての自分である旦那様にも敵わないと思っています。
純情でいてくれボーイ。
どこかで跡継ぎの兄が優秀だったと入れようと思ったのにその機会をいつの間にか逃していたので補足をば。




