ぬいぐるみ
居酒屋の裏手にあるポリバケツの上に、野良猫が三匹じゃれ合っている。たった今、私が食べ残した焼き魚のカスに在り付くために。
好きな仲間と好きなときに会って、好きなところに行って、好きなときに寝て、野良猫とはなんと自由なものなのだろう。
さらに、それが飼い猫ときたら!食事の心配も、身の危険もほとんどない。病気になれば病院に連れていってもらい、必要なものは全てと言っていいほど買い揃えてもらえる。おまけに飼い主からは、何よりも深い愛情が注がれる。
わかっている。私が言ったことは全て、野良猫、飼い猫の良いトコだけだ。それも最大級に幸せな猫の場合だ。けれど、私は我慢ならない。そんな幸福な猫が私の目の前にいるのだ。我が物顔で四十二型ワイドテレビの真正面に座り・・・見ているならまだしも、寝ている!妻や娘からは「タマコ、タマコ」と溺愛され、我が家は奴を中心に回っている。もし私と奴が廊下で鉢合わせたら、私が横に退くのだ!断っておくが、私が我慢できないのは飼い猫、特に家のタマコだ。
「ただいま・・・」
そっと鍵を開け、泥棒でもないのに抜き足差し足で我が家に忍びこむ。今日は妻の部屋で寝ているのか、タマコは居間にはいなかった。
「ニャー、ミャー」
窓の外で声がする。私は、飼っているこの猫様は嫌いだが、野良猫なら話が別だ。いや、本当は私は無類の猫好きだ。タマコも元はといえば、私が飼おうと決めたのだった。それなのに・・・。
「ミャー、ミャー」
「待っててくれたのか」
窓を開けると、黄色く目を光らせた黒猫が一匹、電信柱の脇に蹲っていた。首を伸ばして私を見ている。この声の主、クロ丸は私が半月ほど前から餌付けしている野良猫だ。こっそりと彼と過ごす時間が私にとって何よりの楽しみだったのだが、それでも癒されないモヤモヤを酒で晴らすしかない日もある。そして、それが今日であったのだ。
「そうだ。私の晩飯があるかもしれない・・・」
そっと台所に行って、冷蔵庫を見ると・・・やはり当ては外れた。まだ外でクロ丸の鳴き声が聞こえる。
「そうだ」
私は台所下の収納から高級キャットフードの缶詰を取り出した。いうまでもなくこれはタマコのものだ。
「遅くなって悪かったな」
狭い庭にクロ丸と二人。私は縁側に腰を下ろし、皿に移したキャットフードをクロ丸の前に差し出した。クロ丸はそれを直ぐには食べない。私が「食べなさい」というまで待っているのだ。なんて愛らしいのだろう。
「ミャー」
「よし、食べな」
明日は四クラスも授業があるのだが、今日は遅くまで相手してもらおう。
朝起きるとテーブルの上に置手紙があった。
『今日から三日間、タマコと温泉旅行に行ってきます。奈月も友達の家に泊まりに行くみたいだから、家の戸締りお願いします。それからタマコの御飯、二度と勝手に開けないで下さいね。』
娘は学校に出かけたようで、家の中はがらんとしていた。昨日、いつもなら小遣いをあげる日だったのだが忘れてしまった。彼女はそれが気に障ったのか、毎朝、遣っ付けであっても必ず置いてある朝食が、どこにも置いてなかった。
私にとって家族とは、所詮こんなものなのだ。
人生をやり直せるとしたら、私は家族など持たないだろう。人の温もりが恋しくなったら?そうだな、好きな、あの・・・タイトルは忘れてしまったが、映画を見て気が済むまで泣いたらいいだろう。その他の欲求なら、金と酒で全て満たすことができる。
大根、カボチャを相手に授業を進める。
「・・・といったように様々な説があり、鎌倉幕府の正確な成立年号は、はっきりしていません・・・」
時計の針が二十時を回った。次々に教科書を閉じ、席を立つ生徒は、いつものように私に挨拶すらしない。気になることを質問してくる熱心な生徒はほんの僅かだ。
教員室に戻ると、私のデスクに塾長がいた。私よりも二十歳ほど若いが、かなりオデコの陰険な男だ。
「日高先生、ご苦労様です。ちょっと話がありまして」
「なんでしょう」
この彼の引きつった笑いと、普段聞かれない労いの言葉から良い話でないことは想像できる。そもそも彼から良い話などあった覚えはないが。
「実は一部の保護者の方から先生の授業に苦情があるんです。教え方が良くないと・・・」
「そうですか」
「私は日高先生のことを評価しているんですよ。実際この間の模試も、先生の受け持つクラスは皆、全国平均点を超えていました。しかし、一部の生徒が平均点を大きく下回っています。この苦情はその子達の保護者からだったんです。ですから・・・」
困ったものだ。全てのとは言わないが、最近の親は自分の子供がどうかということを考えるべきであるのに、まず他人のせいにしてみる。してみるのだ。
この場合、問題がどこにあるのかは、模試の結果を見れば一目瞭然のはず。私を非難することは簡単な逃げ道といえる。だがそうは思えども、口が裂けてもそんなことは言えない。
「わかりました。努力します」
「お願いしますね」
去り際に私の方をちらりと見た彼の顔がこう言っていた。
(お前の代わりはいくらでもいる)
さっきの塾長の顔の話ではないのだが、私は今の時代、代わりのいない人間などいないと思っている。全てが同じ人間がいないことは確かだ。だが、どんなに素晴らしい人間でもその代わりはいる。いや、本音を吐けば、私はそう思っていないと毎日がやりきれないのだ・・・。
今日はプリントの添削や作成で残業したため、昨日のように帰りが遅くなってしまった。
「聞こえないな・・・」
クロ丸に会えることを期待して家の裏手を覗いたが、今日はいなかった。そんな猫の気紛れさも羨ましい。
「ただいま」
クロ丸がいなかったのは残念だったが、今日明日は家に誰もいない。しかも明日は仕事が休みときた。なんて幸せなのだろう!これから一晩中飲むぞ。私はこっそり隠しておいたウイスキーのボトルを机の引出しの奥から取り出すと、氷とグラス、飲みながら見る映画のビデオを用意した。高い酒を飲むとき、つまみはいらない。
「さてと、再生ボタンを・・・」
準備が整い、ビデオを再生する瞬間、私が生きる喜びを見出せる数少ない一時・・・。
「ザザザザ、ザッザザ、本日ご紹介する商品はこちら!『ニャン子と話そう!』です。このドリンクを毎日適量飲めば、あなたはたちまち可愛い猫ちゃんと話をすることができるのです!この商品をお求めの方は、二十四時間受付中のフリーダイヤル・・・」
普段は何も映らないはずのチャンネルに、突如として映し出されたTVショッピング。
「猫と話せる?」
今は何でも売っている時代だが、こんなものもあるのか。私は電話機の横に常備してあるメモ帳に、電話番号を走り書きしていた。至福の時は中断された。これから、もしかするとそれ以上の幸福を手に入れられるかもしれない。私は受話器を手に取ると、プッシュボタンを押した。
「はい、お電話有難う御座います。有限会社○○ですが、どちらの商品をお求めで」
「あ、あの今TVショッピングで紹介していた『ニャン子と話そう!』なんですが」
私は胸の高鳴りを必死に抑えながらも、自分の声が震えていることに気づいていた。
「はい、『ニャン子と話そう!』ですね。有難う御座います。こちら、即発送できますが、いかがなさいますか?」
「直ぐ、お願いします」
それから商品の購入方法を決め、電話を切った。到着予定の明日の八時が待ち遠しい。
私は寝ずに朝を迎えた。あの後、酒を飲まずに映画を見てから、今後の授業方針について少し考えていたのだ。オデコの塾長に言われたからではないのだが、私の教師としてのプライドがそうさせた。
「八時か・・・」
年代ものの柱時計の鐘が鳴る。一人でいると、こんなにもこの鐘の音が厳かに聞こえるなんて気づきもしなかった。
「宅急便です!」
チャイムとともに、元気の良い配達人の声が聞こえた。私は予め用意していた印鑑を手に、玄関へ向かった。
「ご苦労様です」
ドアを開くと、赤い帽子を深くかぶった男がダンボール箱を差し出した。
「こちらに印鑑かサインをお願いします」
配達人が帰ると、私は直ぐに居間のソファに座り、ダンボール箱を開けにかかった。
ガムテープを剥し蓋を開けると、衝撃吸収用のポリウレタンに挟まれて、一リットル瓶が四本と、用法についての小冊子が入っていた。瓶を手にすると、横にメモリのような刻みが上から下まで一列に入っていた。
小冊子を開いてみる。お決まりの挨拶は読み飛ばし、肝心の用法を見ると『一日一瓶お飲みください。始めのうちは、まだ理解できな猫語もあるかと思いますが、三本が空いた暁には、あなたは生涯どんな猫とも話をすることができるでしょう。』と書いてある。
注意事項をさっと読んで、早速このドリンクを飲むことにした。瓶の横のメモリはおそらく滑り止めだろう。なにせ一リットルも飲まないといけない。面倒くさくてコップに移さずラッパ飲みする人の為にそうしているのだろう。
「ゴクン、ゴクン・・・」
私も面倒なのでラッパ飲みすることにした。味は特にないが、だからといって水分を取っているといった感じでもない。アルコール以上に水分が腹に貯まらないのでどんどん飲める。その時だった。
「ニャー、ミャー」
「クロ丸だ!」
私はいったん飲むのを止めた。まだクロ丸の鳴き声は「ミャ―」としか聞こえない。彼は何と言っているのだろう!私はまた飲み始めた。
「ミャー、ミャー」
「ゴクゴクゴクゴク・・・」
「ニャー、ミャー、日高さ~ん」
「ゴ、ブヘッ」
思わず吐きそうになってしまった。今、確かに「日高さ~ん」と聞こえた。クロ丸の優しい鳴き声と同じ声がそう呼んだのだ!私は残りを飲み干すと、直ぐにリビングの窓を開け、叫んだ。
「クロ丸!クロ丸!」
「あ、日高さん」
紫陽花の垣根の後ろから、クロ丸が顔を出した。クロ丸は私のことをじっと見つめている。
「クロ丸、ああ驚いた。本当に君と話せるなんて、夢みたいだ」
きっと、今までの人生で最高だった瞬間は?と尋ねられたら、間違いなく「今だ」と答えるだろう。
「ひ、日高さん?」
私の言葉にクロ丸も驚いている。きょとんとした目が可愛らしい。
「クロ丸、朝御飯はまだじゃないかい?よかったら、ちょっと遅い朝御飯を一緒に食べないかい?」
「は、はい。喜んで」
クロ丸が初めて私の家にあがった。いつもはタマコが占拠しているこの空間も、今日は開放されている。私は何年ぶりかの鼻歌交じりに、朝食の準備に取りかかった。
「ところで日高さん。恐れ多いのですがオイラは言いたいことがあるのです」
タマコの餌の缶詰と煮干を食べた後、クロ丸は私にこう言った。クロ丸がオイラと自称するのが意外だった。
「なんだい?」
「オイラの名前のことなのです。実は・・・可愛がってもらっているので言いにくいのですが、オイラ、チチュウカイと申します」
チチュウカイ?チチュウカイとはヨーロッパのイタリアやアフリカのエジプトなどに面するあの地中海のことなのだろうか?
「それは知らなかった。でもまた、どうしてチチュウカイと名付けられたんだい?」
私が食器などを片付けている横で、チチュウカイは話し始めた。
「オイラの遠い祖先はヨーロッパのフランスに住んでおりました。高貴なるその名はマリ・オブジェ。勇敢な船乗りだったそうです。オイラの母はとても彼のことを尊敬していて、彼の冒険話をオイラに沢山聞かせてくれました。そして母は言いました。「私の母も祖母も日本で生まれ、日本の猫と結婚したの。けれどね、私たちには偉大なるフランスのマリ・オブジェの血が流れているの。私はそのことを忘れないために、彼が最初に名を轟かせた地中海をあなたの名前にしたのよ」と。オイラは今でもその時の誇りと愛情に満ち溢れた母の顔が、はっきりと目に浮かんできます」
私の皿を洗う手は止まっていた。
「それは、凄いね。ごめんよ。勝手に名付けたりして。つい黒猫だったから・・・」
私が言いかけた途端、チチュウカイはその言葉を遮った。
「お言葉ですが日高さん。オイラは黒猫ではありません。シャルトリューの、つまりマリ・オブジェのブルーグレーの毛色が受け継がれているのです」
シャルトリューのブルーグレー?洋菓子屋の名前のようなことをチチュウカイは言うと、頭を下げた。言われてみれば、チチュウカイの毛色は真っ黒というほどではないが、グレーブルーかどうかは・・・やはり素人には黒猫と思えるだろう。
「それは重ね重ね失礼した。ところで・・・」
また私が言いかけたとき、その言葉を遮る者がいた。今度はチチュウカイではない。なんと娘の奈月が帰ってきたのだ。
「あっ、あの野良猫!」
娘の声を聞くや否やチチュウカイは僅かに空いていた窓から去っていった。
「ごめんな、チチュウカイ」
後ろ姿に声をかけると「いいえ、ではまた」と返事がしたのでほっとした。
「何言ってんの?」
娘の冷たい声と視線が鼓膜に突き刺さった。
「タマコのトイレと爪とぎ器使ってないでしょうね」「あータマコの餌また食べさした。あとで買っといてよ」「もう二度とあの野良猫家にいれないでよ。もしタマコに何か病気が移ったら大変じゃない」以上が娘の主な小言だった。彼女は言いながら消臭スプレーをソファやカーテン、カーペットにせっせと吹きかけていた。
翌朝、鏡を見ると、口元に白く長い髭が数十本も生えていた。
「猫じゃあるまいし」
私はそれを剃刀でそると家を出た。
今日はやけに人に顔をじろじろと見られた。塾の同僚の教師も、生徒も、道で擦れ違う人たちも。夜帰る途中には、私の顔を見て「キャッ」と悲鳴をあげた女性もいた。一体何のつもりだろう。そんなに私の顔がおかしいというのか。私はこんなことで腹を立てる年でもないし、人間でもないのだが、こんなことは初めてだ。
「ただいま・・・」
ドアを開けた瞬間・・・。
「ちょっと!昨日チチュウカイ家に入れたでしょ。もうやめてよ。あの子しつこいのよ!」
「ちょっと!奈月から聞きましたよ。昨日あの野良猫を家に入れてたって。もうどういうつもりなんですか!」
二人、いや二匹・・・一人と一匹が一緒に捲し立てるので、煩くて堪らない。
「わかった、わかった。もう二度としないよ」
私は早々と自分の部屋に逃げ込もうとしたが、妻が目の前に立ちはだかる。
「わかったって、わかってないじゃないですか。昨日もタマコの餌空けたし。どういうつもりなんですか?あなたがあの猫を餌付けするのは勝手ですが、私達の迷惑にならないようにしてください!」
「そうよそうよ。それからチチュウカイに言っておいて。私はあなたと付き合わないって!」
彼女達の怒りの嵐が通り過ぎ、やっと私は自分の六畳の要塞に辿り着けた。部屋の電気をつけようとしたとき、窓の外でチチュウカイの声が聞こえた。
「日高さーん、お帰りなさい」
そのまま窓を開け、闇夜を覗く。
「わっ!」
下のほうからチチュウカイの驚く声がした。今日は電柱ではなく、家の塀の直ぐ下に彼はいたのだ。
「どうしたんだい?」
「日高さん、オイラみたいに目が光っています。白い髭も生えてるし・・・」
「え?」
どういうことだろう。
「チチュウカイ、ちょっと待っててくれ」
私は急いで部屋を出ると真暗な洗面所に立った。その瞬間、私は今日の謎の全てを理解した。私の目は猫のように白光して、口元には朝剃ったはずの髭がもう茫々に伸びていたのだ。
「そういえばこれ、届いてましたよ」
洗面上で立ちすくむ私に、妻は一通の封書を渡した。『ニャン子と話そう!』お詫び、と書いてあった。今度は急いで部屋に戻る。
『先日お届けした小冊子にミスプリントが御座いました。一日一瓶、ではなく一日一メモリ、です。本当に申し訳ございません。なお、お詫びとして、半額口座にお返しいたしました。ご了承ください。ではさようなら。』
封書を持つ手が震えた。
「日高さん、何かあったのですか?」
「すまない、チチュウカイ。ちょっと急用があって。また明日来てくれないかい?」
「わかりました。では明日」
チチュウカイは残念そうな顔をしたが、素直に去ってくれた。これから私は有限会社○○に苦情を言って、この事態をどうにかしてもらわなければならない。
受話器を取り、番号を押す。
「お掛けになった電話番号は、現在使われておりません」
『ニャン子と話そう!』を一瓶飲んで二日目。私の体毛が白色に変化し、全身を覆うようになった。髪の毛は綺麗に白髪になった。顔や首はまだ産毛程度なので、なんとか人目は誤魔化せることができた。口元の髭はどうにもできなかったが。夜になると光る目の為に似合わないサングラスが手放せなくなった。
三日目。尾骨から一メートルほどの尻尾が生えてきた。最初の慌てようといったら我ながら酷いものだったが、大昔に見たマンガをヒントに腰にベルトのように巻いて、なんとか隠すことができた。
四日目。この日は皮肉だが、良い変化がみられた。渡ろうとした瞬間、点滅し始めた信号機。道幅から言って普段なら諦める距離だったがこの日は違った。前を走る若者を追い越すほどの驚異的なスピード。何人かの人が驚いた様子でこちらを見ていた。
そして五日目の今日。私は一日中、四つん這いになりたい衝動と戦っている。その方が素早く移動できそうなのだ。家に帰ったら妻と娘に話さなければならない。今後のことをゆっくりと。
家に帰る途中、チチュウカイに会った。
「日高さん。日高さんは今、何歳ですか?」
「五十四だけど、それは猫社会に何か関係あるのかい?」
この三日間、私は将来を考えチチュウカイから野良猫の生活について勉強していた。なんとも自由に映っていた野良猫だが、その実情は想像以上に厳しいものだった。例えばよく居酒屋の裏手で見かけた、じゃれ合っている猫達はとんでもない、残飯を食べる順番を争っていたのだ。
力あるものが生き残る。これは人間社会でも同じだが、人間社会よりも野良猫社会の方が、それが露骨であると言えよう。そんな彼らの平均寿命は一般に、三年前後と言われているそうだ。
「いえ、ちょっと気になったもので。日高さんは猫の年齢に換算すると、九歳半、老齢の一歩手前に当たります」
「というと?」
五十四の自分が、猫社会では九歳、そして老齢。これには驚いた。自分はとうに野良猫の平均寿命を過ぎている。私は猫が好きだったが、猫についてはほとんど何も知らなかった。飼っているタマコも、もはや妻と娘のものであるし・・・。
「大分お年ですが、健康そうですし大丈夫でしょう。オイラ達は環境さえ整っていれば、十五歳前後までは生きられます。それに世界には三十を超えた猫もいるくらいなのです。実は・・・オイラは、自分で言うのもなんですが、猫社会ではかなり高度な教養を持つ部類に入ります。我が家に代々伝わる長生きの秘訣も知っています。近いうち、オイラと一緒に旅に出ませんか?」
チチュウカイからの誘いは、願ってもないものだった。私が野良猫になっても一人・・・一匹では生きていけないだろう。彼は現在三歳。人間に換算して二十台の半ばだそうだ。これまで、一緒に旅に出る仲間を探していたのだが、なかなか上手くいっていなかったらしい。
私はこの申し出を受け入れた。だがその前に、家族と話さなければならない。
「ニャニャ今」
とうとう言葉も猫化が始まったようだ。急がなくては。
「みんニャ。集ミャって欲しい。ニャき子、ニャ月・・・見ての通りニャのだが、もう僕は君ニャニをやしニャっていけない。亭主失格ニャン。私は家を出て行くニャン」
妻と娘は顔を見合わせた。
「あなた猫になるのね。あまり付き合いはなかったけれど、元気でね」
奈月の側に座っていたタマコが初めて、私に優しい言葉をかけた。お別れの言葉を。
「そうね、もう私の名前も奈月の名前もちゃんと呼べないんですもの。仕方ありませんね。さようなら。健康には気をつけてくださいね」
「お父さん、さようなら。猫になっちゃうのね。今まで、ありがと。どっかで私を見かけたら声かけて。何でも必要なもの買ってあげる」
妻と娘の別れの言葉は想像よりも温かかった。
「ねえ、小さいバッグあるからそれに食べ物詰めてあげる」
娘は立ち上がると部屋へ戻っていった。
「塾には私から話しておきましょうか?」
「いや、私からはニャすよ」
最後の妻の親切を断り、眠くなった私はその場で眠りに入った。
翌朝、チチュウカイと共に四つん這いになって、街を駆け抜ける私がいた。リュックサックには娘からの餞別の品々が入っている。
「あの人、猫になるのよ」
通り過ぎる人達が何を言っても、じろじろ見られても気にならない。むしろ、早く完全に猫になるのが待ち遠しい。チチュウカイと談笑している間に、これまでの人生の大半を捧げた鉄筋コンクリートに到着した。
「じゃあ、オイラはここで待っています」
「うん。すぐ戻ると思うから」
私は退職届を持ち、教員室へ向かった。
「そうですか・・・わかりました。本当に残念ですが日高先生のお気持ちを尊重します」
オデコは心にもないことを言って、私の退職届を受け取った。
「さようニャニャン」
「あっ、待ってください」
去ろうとした私をオデコは引き止めた。
「最後に、最後に三Aのクラスの授業を今からお願いできませんか」
「・・・わかりミャンした」
心残りがないのにも関わらず、なぜか引き受けてしまった。チチュウカイを六十分も待たせておくのは悪い気がしたが、私は教室へ向かった。
「ニャンニャニャニャン(こんにちは)、ニャミャミャミャニャミャミャ(私は今日で)、ミミャミャンミャ(皆さんと)ニャニャニャニャニャンッ(お別れです)。ニャニャミニャ(これから)、ミャミャミャミャニャニャニャニャ(最後の授業を)始めるニャン」
「先生、始めること以外、何と言っているのかわかりません」
「それに先生、猫ですよ」
私の最後の授業は三分で終わった。塾を出ると、チチュウカイが駆け寄ってきた。
「では、行きましょう。オイラもタマコちゃんを諦めるのは辛いけど、旅に出ればもっと楽しいことが待っていますよ」
「うん。そうだね。私も今日から野良猫か・・・」
私は空を見上げた。大きな、大きなビルに囲まれた四角い空を見上げたとき、私はこれまでのちっぽけな人生から解き放たれる喜びと不安で胸がいっぱいになった。
「チチュウカイ。私は空のドームが見えるところに行きたいな」
「いいですね。でもヒダカさん。オイラ達は野良猫になるのじゃありませんよ。旅猫になるんです」
「ハハハ!そうだね。旅猫だ。よし、行こう!」
昨日まではただ生きていた。意義を名目と置き換えて付けることならできよう。
私はカゾクのためだけに生きてきた。
でも今日からは、これからは違う。私はチチュウカイと共に、希望の旅に出るのだ。
終わり