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1:鈍色の獄

おかしな格好の女が俺を人殺しだって言いやがった。

でも俺にはもちろんそんな覚えなんてない。

なあ音唯、お前はどう思う?

1.鈍色の獄/磨弥依生(まやいお)


 例えば灰色のフィルムに『今日は晴れでした』と描き出す。

 それだけで今日は晴れの日になる。

 実際はひどい曇天だったかもしれないし雨だったかもしれない。けれどそこに書いたものはあなたにとって晴れだったという事実。

 からからと乾いた音をたてて回っているのは映写機によって映し出された鈍色の映像。晴れの一日にあなたは両親と共にどこかに出かけている。動物園に連れて行ってもらい、ソフトクリームを買ってくれと駄々をこねて泣いている。そう、きっと季節は夏。ひどく熱い日。あなたは暑さでぐったりとしているライオンやオオカミを見るよりも、涼しげに泳ぎ回るペンギンを見てはしゃいでいる。両親があなたに向かって笑いかけているのがわかる。だけど、笑っているのを知っているのに顔が見えない。手に持ったソフトクリームが溶け出して手につく。だけど、冷たくない。

 そこは音も色もないあなただけの世界。ある部分は擦り切れて不鮮明となってしまっており、ある部分はあなたの手によって編集されているかもしれない。魚が空を飛んでしまうかもしれない。シャム猫が可愛らしい声で話しかけてくるかもしれない。

 けれどもそのモノクロームの世界であなたは主人公であり、脚本家であり監督である。

 パステルカラーに彩られた晩秋のとある一日よりも、延々と繰り返される恣意的な世界を選択したとしてもそれは間違いではない、そうわたしは思う。

 モノクロームだったはずのフィルムが着色されていく。消耗して千切れてしまうまでフィルムは回転し続ける。それまでフィルムは補強が繰り返され、歪に変形していく。蚊が羽を休めるほどの些細な衝撃で千切れてしまうというのに。

 創り出されたものはあなた以外の人には見えない。時計の針が何千回回転し、あらゆる植物が腐って土に還っても絶対にわからない。立てた人差し指の先から炎が出ていると思っても誰にも見えないのと同じこと。元来、灰色のフィルムが溶けてどろどろになった下に眠るはずであったものに色をつけているのだから、見えないほうが当然なのだ。

 でも、わたしには見えるかもしれない。

 からからから。一定の調子で続く乾いた音が聞こえる。

 求められないものを求め続けた証。


■■■


 黒いローブ姿の人間が俺の前に立っている。頭には黒いヴェールがついた黒い帽子をかぶっており、こちらから表情を窺うことができない。幾何学模様があしらわれた、銀の首飾りや金の指輪を身につけている。

「おはよう」

 そいつが口にした。中年の女性であることを想像させる響きだった。

「おはよう」

「この部屋はどうかな?」

 女は俺と向かい合う木製の椅子に腰かけた。机の上に腕を乗せると机がぐらついた。脚が不安定なようだった。

 俺は女に言われるまま室内の様子を見た。手を伸ばせば届きそうな場所に無機質なコンクリートの壁が剥き出しになっていた。俺と女を隔てている暗い色調のテーブルには花瓶が置かれ、なぜか木の枝が添え置かれていた。枝には薄い桃色の花が咲いていた。花は八重桜だったが、季節を鑑みれば造花であることは一目瞭然だった。窓一つなく、ほの暗い明かりがついているだけだった。

 一言で表すならば、牢獄。

「気に入らないかな?」

 俺の怪訝そうな表情を読み取ったらしい女が言った。あまりに自然すぎる調子であったため、不気味さを感じるほどだった。

「気にいらない。話すなら俺の家にしようぜ」

「それは出来ない。依生君、君は自分がどうしてここにいるかわかってる?」

 俺は顔も見せない女に名前を呼ばれたことに対し、表情を曇らせながら首をひねった。

 実に困ったことに、どうしてここに連れてこられたかはおろか、どうやって連れてこられたか、ここがどこなのか、全てがわかっていなかった。

 冗談みたいな言い方だが、今朝起きたらこの家屋にいた、そして先程ここに連れてこられた、としか言いようがなかった。

「わからない。っていうか、どこだよここ?」

「依生君なら知っているはずよ」

 眉間に目一杯しわを寄せて疑問を示した。

 そのままの表情でもう一度部屋の様子を見回した。

 やはり、どこだよここ、としか言いようがなかった。

「ここは悪いことをした子を反省するまで閉じ込めておくそれは怖い怖いお家、よ」

「悪いこと?」

 友達をからかうのは大好きだが、節度はわきまえているはず。多分。万引きやケンカに明け暮れるほど心は荒んでいない。校則に反することくらいはやったことがあるけど、それが悪いことならばここは水面ケ百合高校の全生徒の半数以上でごった返しているだろう。

 思い当たるフシがなかった。

「自分が何をしたか、覚えていないの?」

「俺が聞きたいくらいなんスけど」

 何をしたかは皆目見当がつかなかったが、別のことが思い当たった。

 コイツ、俺の家の近所に住んでいるインチキ宗教家のババアじゃねえか。

 孤児院に住む友達に聞いたことがある。コイツは悪魔が憑いているから祓うと言って心の弱みにつけこんで高価な金品を買わせようとし、断ると悪魔の仕業だ、化身だだと喚き出すそうな。

 アブねえ世の中だよなあ。

 すぐに否定するとこういうタイプは何をしでかすかわかったもんじゃない。うまく機嫌をとりながらはぐらかすことにしよう。

「き、君は……」

 インチキ女は発声を失敗した。思わず見やると、机の上に置いていた指が細かく震えていた。

「君は……人を殺した」

 尻切れトンボで述べた。腕をテーブルの下におさめた。

 はて、この女は今、何て言ったんだ。

「は? 今何て言ったんだ?」

 俺は心の声をそのまま発言した。微かな花の香りが鼻腔をくすぐったような気がした。

 女は嘆息した。そして先程よりはしっかりとした口調で、

「依生君、君は自分の親を殺した」

 と、言った。


■■■


 牢獄から戻った俺は、目覚めた時にいた部屋のベッドの上でごろごろしていた。天井部位が全面ガラス張りとなっており、深まりつつある秋の陽光が室内に燦々と降り注いでいた。室内は暖房をかけたように暖かく、心地良い温度だった。

 気持ちよさと反して俺を苦しめているものがあった。部屋を眺望した際、知らないものを知らないように見回したはずが、小石につまずいてしまったみたいにすっきりしない心持ちが残された。ババアの一言が源となり根付いていった漠然とした不安だった。

 感情の答えも知らないまま感情を抱える。こんな気持ち悪いことがあるのか。

 誰かがドアを開けて室内に入ってきた。

 俺はわざと気づかないフリをしてドアに背を向けた姿勢をとった。ぺちぺちと足音が近づいて俺の傍らで停止したがそれでも俺は知らんぷりをした。

 紙をめくる音が聞こえた。続いて紙の上をペンが流れる音が耳を障った。

『おはよう』

 そう書かれた画用紙が俺の顔の上に落ちてきた。

「おはよう」

 俺は面倒臭そうに返答しながら顔に落ちた画用紙を退けた。

 俺の目に映り込んできたのはスケッチブックとマジックを持った女だった。セミショートの真っ黒い髪、まん丸で柔らかい円形だが、臓物のような色を宿した大きな双眸。身長は寝転がっている俺から見てもそれほど高くない。水面ヶ百合高校指定のねずみ色のスカートと、袖をまくりあげた長袖ブラウスを着ていた。

 コイツは真島音唯(まじまねい)、近所の小学生……もとい、同級生だ。

 元々は県外の高校に通っていたそうだが、親の仕事の都合によりこっちに引っ越してきたらしい。出会った時は俺の親友と同じ新聞部の一員だった。かなりマイナーな部だし、人数も準レギュラーの俺を入れて四人しかいないが、それ故に内輪の溜まり場的な親しみやすい雰囲気があった。自然とうち解けて親しい間柄の友人の一人となるのにそれほど時間はかからなかった。

 真島は歯を剥き出しにして笑顔を作ると再びブックに何かを描き出した。

 このチビは言葉を話すことができず、こうして文字や絵を描くことで他人と会話している。けれども、声が出せないというハンディキャップを蹴り飛ばして遥か彼方に追いやってしまうほど堂々としている。というか実に無遠慮で根性が悪くてドSだ。ハンディキャップだと思っているのは俺たちだけで、本人はハナから何とも思っていないのだろう。

『暇だから散歩でもしようよ』

 と、文字で示す真島。外見だけを見ればもっと丸々とした癖字を書きそうなのだが、古きゆかしき大和撫子が書いたような美しい字を書く。大和撫子が油性マジックを使うかどうかは知らないが、仮にマジックで文字を書いたらこんな感じだろう、という文字だ。

「散歩って……相変わらず脳みそお花畑だな」

『ちょっとだけ、いいじゃん!』

 その後ろには青筋が描かれていた。

「危険かもしれないだろバカ」

 軽率な行動を、語気を強めて子供を叱りつけるように言う。てかてかと輝いていた表情が一瞬のうちに曇天になった。

『しゅん』

 B6サイズの画用紙のど真ん中に、とても小さな文字でそう書いて見せてきた。

『別にいいじゃん暇なんだもん……暇ヒマひま×3……』

 小さな文字の下にはさらに小さな文字があった。

「よくねーよ。あの真っ黒い服のババアに勝手に歩き回るなって言われてるじゃねえか。ああいうのはヘタに刺激すると何するかわからないぞ」

 真島は口を尖らせて、力説する俺を見ていた。暇だから相手しろと可愛らしい表情全体が物語っていた。

「おとなしく部屋で独り言でも言ってろ」

 やだやだやだ、と首を振る真島。こうなるとこの小さいのはなかなか頑固だ。

『きっと出口があるからそう言ってるんだよ』

 真島はそう記すが、その可能性はなかった。

 出口は確かにある。だがその大きな鉄の扉はあの女にも開くことができない。外からでないと開閉不可能な鍵がかけられている、ということを俺はどこかで聞いて知っていた。

『育ち盛りだから運動もしたいの!』

 出会った時から一センチたりとも伸びた痕跡のない身体を振り回しながら反抗した。

「廊下の壁でも殴ってりゃいいだろ。そのうち穴が開いて外出れるかもしれねえぞ」

『イオクン、ほんとは怖いんでしょ!』

「馬っ鹿、ふざけんな、ガキじゃあるまいし」

 真島は膨れっ面のままスケッチブックに殴り書きする。

『一人で行くからいいもんねー! ヘタレイオ! ヘコキムシー!』

 あっかんべーのポーズをとる小さな女。

 俺はわざとらしく溜め息を吐き出しながら立ち上がった。俺の首もとまでしか身長のないちびっ子の頭の上に手を置いて髪の毛をくしゃくしゃにした。

 彼女は抗うでもなくなすがままに髪を弄ばれていた。絹の糸に触れているようになめらかで気持ち良い感触だった。彼女の髪はほのかに甘い花のような香りがした。

「もうわかったよ! 散歩行くぞチビ!」

 半分ヤケクソで喚く。

 真島が髪を目茶苦茶にしている俺の手を両手で掴んだ。

 両手で強く握り締めたままじっと見つめていた。

「な、何だよ」

 俺は上ずった声で返した。彼女の手はふかふかのクッションみたいに柔らかく、なぞれば擦り減りそうなほどきめ細かった。

 真島は何も言わずただただ俺の手を握っていた。

 部屋には当然俺と真島の二人だけ。見つめ合う男女。

 これで誤解しなけりゃ男じゃない。そう言わんばかりのシチュエーションだ。

 そうだ。前々からこのチビは俺によく懐いていた。蹴っては蹴られ、殴っては殴られるバイオレンスな関係だったので、わがままな妹みたいに認識していたけど、思えば俺にかまってほしいからそういう風に振る舞っていたんじゃ――そう、ちょっと歪んだ愛情表現っていうやつ――。

 妄想をたくましく育んでいたら手に噛み付かれた。飼い犬に手を噛まれるというのはこんな心境なんだろうかと思った。ぎゃー、と情けないくらい典型的な叫び声をあげて振りほどこうとしたが離れず、俺は室内を走り回った。同時に妄想もできない現実の冷たさを呪った。

「依生君に触れるんじゃない!」

 部屋の入り口から突然割り込んできた凍り付いた罵声に俺は石化した。

 立っていたのは頭の先から足の先まで黒一色で統一し、不必要なほど光り輝く装飾品を身につけた顔のない女。

 俺たちをこの牢獄に閉じ込めたインチキ宗教家のババア。

「音唯ちゃん、勝手に部屋を出て歩かないでって言ったよね。あなたは特に、危険なんだから、ね?」

 女は比較的優しげな口調で真島に語りかけた。

 何を言わんとしているかはわからないが、少なくとも真島よりこのババアのほうが危険であることは間違いなかった。

 ようやく俺の手をかじることに飽きた真島が立ち上がった。女を見つめていた。

 不思議な感覚の表情だった。ついさっきまで俺の前で見せていた喜怒哀楽が一斉に引き上げたみたいに無色透明の情念が表れていた。大半は笑っているか、口を尖らせている面ばかりを拝んできた俺にとってそれは多少の驚きですらあった。

「こっちに来なさい。話をしましょう」

 真島は表情を一寸も動かさずに小さく点頭した。


■■■


 俺の家から徒歩で十五分程度の距離の場所に教会が建てられていた。地元の人間ならば誰でも知っている建造物だった。西洋の教義をとりいれた新興宗教らしく、数年前は首から十字架をぶら下げた信者がぞろぞろと教会に集合して讃美歌を歌っていた。俺の両親も熱心な信者の一人だった。同時に敷地内で孤児院を経営しており、チビスケが走り回るのを俺たちくらいの年頃の奴らが叱っている光景をよく目にした。

 その頃はわりかたまともだった印象がある。

 半年ほど前から突然おかしくなった。両親が言うには、教団の代表者がある日いきなり、外側の世界は悪魔に蝕まれ、穢れに満ちているとのたまうようになり、珍妙な宝石類を高値で売り出すようになったとか。買わない者は神の啓示を受ける資格なしと喚き、実際に購入を拒んだ者を指差して悪魔に取り憑かれているとか、要するにイカれたらしい。

 ソイツは、全身を黒いローブで包み込み、目映い装飾品をいくつも身につけた女だった。パーマをかけたロングヘアーに年齢不詳の厚化粧を施した、魔女みたいな女だった。恐らく俺の両親と大して変わらない年齢なのだろうが。

 変なウワサは枚挙に暇がなかった。孤児院にいる孤児の半数は乳飲み子の折に誘拐して育てているだとか、夜中になると離れの部屋でいたずらをした孤児に対する虐待が行われているだとか。他のはどうだか知らないが、実際に孤児専用の『お仕置き部屋』である閂がかけられた家屋があるので間違いではなかった。

 両親が信者であり、孤児院に親しい友達が住んでいたので教会や孤児院にはよく行った。その度に女と話した。

 外見の奇抜さとは裏腹に優しい調子で挨拶されたのをよく覚えている。子供が異様に好きなようで、ウワサ通り誘拐されて孤児として育てられるのではなかろうか、と思うほどべたべた引っ付いてきた。

 水面ヶ百合高校にもこの教団の信者を親に持つ生徒は少なからずいる、とは思う。彼らにしろ、孤児院に住む奴らにしろ、落ち度があるわけではないけど、今となってはそれを公言することは恥でしかない。評価を上げるのは困難だが、下げるのは簡単だと偉い人が言っていた。

 最近、両親が教団を脱退する、と言っていたのを聞いた気がする。

 秋の夜風が肌寒い時間帯。惰眠を貪った後でリビングの前を通りかかった時、両親が私語を行っていた。

 そういえばその時――。

 入り口のドアに何かが勢いよくぶつかる音が聞こえた。

 思考の世界に迷い込んでいた俺は急激に現実に戻されたことに慌てふためき、卒倒しそうな勢いでドアの方向を見た。

 ドアをわずかばかり開き、その隙間から半分ほど顔を覗かせている真島がいた。大きな赤い眼を見開き、口を横に広げて笑っていた。

 落ち着きかけた心臓が再びひっくり返るほど怖かった。

『……散歩……いこう』

 それ以上ドアを開こうともせず、ガツガツとぶつけながらスケッチブックを部屋内に突っ込んできた。片方の手をドアの内側に引っかけて般若も裸足で逃げそうな笑顔を浮かべていた。

「散歩はわかったけど、とりあえず出て行ったら斧で頭かち割られそうな笑顔やめろ」

 真島がブックを一枚めくった。

『……ここを出ても死、出ずとも死。君はこのメビウスリングの上で永遠にもがき苦しみ、苦痛の死を味わって無様な最期を迎えるしかないのよ』

 わざと利き手ではない手で書いたような崩れた文字。

「どこのC級オカルト映画だそれ」

 ベッドから起き上がって入り口に足を運んでいく。ドアの隙間からちょうど半分見えている真島の頭の上にチョップを落とす。発泡スチロールの容器を地面に落下させたような音が鳴った。

 真島が口を尖らせた。

 突然、勢いよくドアを閉めた。真島の頭に乗せていた俺の腕に痺れが駆け抜けていった。だが、同時にスケッチブックを持っていた方の彼女の腕もドアに挟まり、痛そうに動かしていた。ドアを開けようとしたのだろうが、混乱して一層強くドアを閉めつけたため腕が青紫色に変色してきた。

「痛いよバカチビ! 逆だ、逆!」


 日の当たらない廊下は冷たかった。

 俺のいる部屋を出ると左側はコンクリートの壁に阻まれ行き止まりとなっていた。二人分ほどの広さの廊下を挟んですぐ正面に真島の部屋があった。入ったことはないが俺のいる部屋と同じ構造だろう。

 不慮の事故により青アザができた右腕をさすりながら右方向に進んでいくと途中に部屋があるわけでもなく木床とコンクリート壁に囲まれた廊下が続いていた。

 俺は首を捻った。

 廊下が無駄に長かったせいもあった。が、また心の血流が滞ったのだった。先ほどよりも大きなつかえが内側を圧迫していた。俺はそれをひた隠しにするしかなかった。

 数分間歩くとようやく視界が開けて広間と思しき場所に出た。広間の中央には赤ん坊を抱いている女性の銅像があったが、顔面にひびが入っておりそれが血の涙を流しているような醜悪さを感じさせた。右隅にババアと話した小部屋があったが今は施錠されていて中に入れなかった。

 立ち止まったまま左右を眺めていると真島に腕を突っつかれた。

『ここって悪い人を閉じこめておくお家だとか言ってた、よね?』

 赤く強い瞳で俺を見上げていた。あまりに真っ直ぐすぎて心の内が透けるような気がして目を逸らした。

「言ってたな」

『イオクン、何したのさ』

 俺は苦笑を浮かべた。

「ババアが言うには俺が両親を殺したんだってさ。全くおかしな話だよなぁ」

 さらさらとマジックペンが紙をなでている。

『おかしな話だねェ。そういえば見たことないけどイオクンの両親ってどんな人?』

 俺の顔が見える位置に移動してきた。いつもの微笑みを湛えながらスケッチブックをこちらに向ける真島。

「どんな人? どんな人だろ……」

 俺はしばらく熟考した。両親がどんな人間かということについて深く考えた経験がなかったので咄嗟に返答ができなかった。

 改めて考えると、どんな人間なのだろう。

 ごく一般的な家庭の親と比較して厳しい両親だったと思う。年甲斐もなく躾や門限にも口うるさかった。しかしそれは暖かい家庭の一部分に過ぎなかった。食卓を囲む団らんの一時や重ねた会話の数を考えると俺は恵まれていた。

「自慢じゃねーけど、良い家庭だったぞ」

『だったって、もういなくなっちゃったみたい』

 口元を押さえながら肩を震わせて笑っている。声が出ないために吐息だけが漏れて妙に艶めかしい声色になっている。

 下らない揚げ足取りに俺は真島を睚眥した。ともすればあのインチキ女の言葉が事実であるかの如きたちの悪い冗談に苛立ちを感じた。

 真島は俺の視線に気づいたようだったが、笑い続けたままペンを走らせていた。

『怒っちゃった? でもイオクンが褒めるのって珍しいなと思ってね』

「わざとこう言ってるってか?」

『そういうことじゃないけどぉー』

 くすりくすり。真島は笑う。露骨な興味本位だけでここまで慇懃無礼に突っ込んでくるのが不愉快だった。

 自分が好きな人を殺すなんて考えられない。

「殺したなら、こんな平然と親の話できねえだろ」

『あはー、そうだね』

 くすりくすり。

「からかってんじゃねえよこのバカチビ!」

 真島の頭を掴んで髪をかき回した。胃の辺りにへばりついているムカムカを指先に込めて寝起きの幽霊みたいに爆発させてやった。

 相変わらず無抵抗の真島は片目をつむったまま俺のイタズラが終わるのを待っていた。髪の合間から流れ出す花の香りが以前より強く、鼻腔にしっかりと伝わった。

 ひとしきりムカつきが収まって手を退けると真島は泣きそうな表情をしながら手ぐしで髪を整えた。

「そういうお前はどんな悪いことしたんだよ。無銭飲食か? 万引きか?」

 左右に首を振る。髪を整えた後でのんびりとスケッチブックに書き始める。

『わたしは悪魔が憑いているからお祓いが済むまでここにいてもらうんだって。バカバカしい話だよねェ』

「それはあながち間違いじゃないと思うぞ」

 俺は鼻を鳴らしながら揶揄する。

 蹴られた。パンツは白だった。

『悪魔を祓うためには神に祝福された装飾品を身につけて祈りなさい、だって』

 真島はブラウスの胸ポケットから金銀たわわに実った指輪やイヤリングを取りだした。大して明るくないはずの照明を完全に凌駕する目映さを放っており、何というか、成金の不動産業者が身につけている、親指サイズ程の宝石がついた貴金属並にいかがわしかった。

『早くお祓いするためにもっと強い神力が宿ったものを身につけなさい、だって。パンフレットもらっちゃった』

「……おもっきりカモにされてないかそれ」

 にへらにへらとした笑顔を見せつつ装飾品を身につけていく。

『あはー、大丈夫だよ。あの人は騙そうとして言ってるんじゃないしね』

「騙される人は皆そう言うんだよ」

『違うよ、あの人は心から神様を信仰しているんだよ、バカみたいに、ね』

「最後の一言がなきゃ可愛いのにな」

『うっせーよバカイオ!』

 グーで殴りかかってくるが腕を掴んでつねった。

 引き分け。

 さて、会話も一段落ついたところで俺たちは再び散歩を続ける。

 広間を通過しようかという地点に両開きの大きな鉄の扉があった。これが出入り口だった。真島がぴょこぴょこ駆け寄り、取っ手を持って押し引きするが微動だにしなかった。

『手伝ってよー』

 真島に袖を引っ張られた。

「無駄無駄。どうせ外から鍵かけられて開かないよ」

 丸っこい瞳を一段と丸くした。

『外から? へーーーーーそうなんだ。どんな鍵だろ?』

「閂とか?」

『難しいの知ってるねえ。わたしは外からかけるのってナンキンジョウしか思い浮かばないや』

 にっこり。

 変な奴。

 再び廊下へと足を踏み入れた。思うに、広間を中心とした左右対称の造りなのだろう。アルファベットのUだといえば想像しやすいかもしれない。俺たちの部屋はU字の左端部分にあり、今いる場所は右側の真ん中辺りだと思う。

 俺は真島を置き去りにするくらいの速さでどんどん先を歩いていく。どうせこの先には俺たちの部屋がある場所と左右対称の造りがなされているだけなのだから、とっとと確認して帰ればいい。

 こつん、と後頭部に何かがぶつけられた。

 振り返って足下を見ると丸められた紙が落ちていた。『速いよ』と書かれていた。正面を向き直ると真島が野球のアウト宣告のポージングをしながら、

『危ないって言ったのにどうしてそんなに急ぐの?』

 と、怪訝そうな表情を浮かべていた。

「だって、見れば建物の造りが左右対称だってわかるだろ。この先には部屋が施錠された三つあるだけだ」

『どうして×2?』

「何がだよ」

 真島が続きを書いていることを知りながら問いかけた。眼にたゆたう血漿が徐々に熱を帯びていくのが嫌というほど理解できた。

『わたしたちがいたほうは部屋は二つだよ。なんでこっちは三つなの?』

 俺は今、確かに三つと言った。

 左側には俺と真島の部屋しかないのは理解していた。どう考察しても存在する部屋数は二つで、どう考察しても三という数字が突拍子もなく生み出される余地は存在していなかった。勘違いから口をついて出たのではなく、確信を持って右側には三つの部屋があると言った。

 言い間違いではない、と自分の理性が何よりも絶大な確信を持っていた。なぜ確信を持っているかがわからなかった。

 だが、今の発言は俺の言い間違いだ。

 言い間違いでなければならない。そうでないと――

『ここに来たこと、あるんじゃない?』

 俺はこの場所を既に知っていることになる。

「言い間違いくらいあるだろ。いちいちつまらないこと揚げ足とってんじゃねえ」

 水泡の浮き立つ内面をひた隠しながら、なるべく感情を殺した声色で返答した。髪の毛の間から冷ややかな汗が流れだし、額を通り過ぎていった。

 真島は赤黒い輝きを内包した眼の焦点を俺の表情に合わせた。普段と同じく接しているようで、時折覗かせる普段には見せない眼差し。

『そうかな? そんな間違えるようなものでもない気がするけど』

 真島は明らかに俺にゆさぶりをかけている。

 あのババアに何か吹き込まれているのかもしれない。

 何か? そんなの俺が両親を殺したっていう嘘に決まっている。

 だから部屋に入ってきた時から俺が両親を殺した殺人鬼であるかのように、また俺が彼女を閉じこめた犯人の一人であるかのようにカマをかけて俺の返答を引き出し、矛盾点が存在していないかを探っているのではないか。

『ねえ、黙っているけどどうなの?』

 次々にスケッチブックをめくっていく真島。言葉がない上に無表情を作り込んでおり、どのような心境でその文字を描いているかがわからなかった。俺の顔面の微細な動き一つを見逃さんとする彼女の二つの眼球が俺に緊張感を与えた。

 俺は取り繕ったように愛想の良い笑顔を浮かべてみせた。

「なあ、真島。ババアに何か言われた?」

 真島は曖昧に首を回した。

『言われたか? 言われた気がするわけでなく、言われてないかもしれなくもない。by ねい』

 用紙いっぱいに筆で文字を描く詩人のように書いていた。

「俺は何もやってない。お前に疑われるようなこともしてない」

 小首を傾げ、頭の上にクエスチョンマークを浮かべていた。傾げすぎて横によろけ、廊下の壁に手をついた。

『何を疑うんだろう』

 そう文字を記すと真島は俺に近づいてきた。

『わたしはただ、ね』

 眼前でそう見せると、有無も言わさぬ速度で俺の手首を掴みとった。泣き叫ぶ子供を引っ張る母親のような調子で歩き出した。

 振りほどく暇もなく前進していく。

 いや、振りほどこうとしても振りほどけなかった。このチビの華奢な腕のどこにこんな力が隠されているのだろう。

 俺たちはあっという間に廊下の行き止まりに到達した。

 左端と同じような配置で、左右にドアが見えた。

 だが、ちょうど俺たちから見て正面、廊下の行き止まりにあたる場所にもう一枚、ドアがあった。そこは俺たちの部屋がある場所では単なるコンクリート壁だった。

 真島が俺の腕を離した。先ほどまでの急激な前進が幻であるかのようなゆったりとした足取りで行き止まりのドアの前まで足を運んでいった。ドアノブを掴み、左右に数度回転させた。施錠されているのを確認するよりも大きな意味を含んでいるように思えた。

 真島が首から上だけを俺のほうに向けた。太陽が燦々と降り注いだような笑顔を浮かべた。

 本当に部屋が三つあったね、と言っているようだった。

 足が震えていた。武者震いではなかった。

 正面に見えるドアを見た瞬間から急激に震えだした。ドア自体に対する不気味さではない、その向こう側から漏れ出している『何か』が俺を立ち竦ませていた。

 真島がドアの木枠から、ドアノブにかけて指先でなぞった。

『君たちが何をしたのか、君たちが何をしようとしているのかを見ていたいだけ』

 俺はスケッチブックに書かれている文字の一語一句を心の内で咀嚼して読み上げた。

「何、言ってんだお前……?」

 絞り出すように喚声をあげた。喉がからからだった。

 真島は何ら返答を示さなかった。崩した表情もそのままに俺の後方を指差した。

 背後にはババアが仁王立ちしていた。手には肉切りに使うような、大きな出刃包丁を持っていた。

「へ……部屋、部屋に、戻りましょう、ね。良い子だから……ね」

 ひどく昂奮した調子で言った。気だるく首を回し、柄で後頭部を何度も殴った。

「早く戻れ。悪魔め、悪魔め、悪魔め」

『こわひこわひ。胸辺りをぶすっとやられちゃう前に戻ろうっと』

 小さな女はひょいひょいと俺の脇をすり抜けた。低いうなり声をあげている女を一瞥した。

 女が真島を見た。彼女の肩を掴み、引きずるように歩いていった。コンクリートの壁に反響する靴音が渦を描きながらおもむろに遠ざかっていった。

 俺は動けなかった。周囲を見渡すほどに震え出していくのは足ではなく心だった。

 薄暗い蛍光灯に照らされたコンクリート。年月を経て焦げ茶色に変色した木床。大人が二人ほどしか通れない廊下。朽ちかけた木枠のドア。錆びたノブ。先刻まで何でもなかった景色が不気味な蠢動を開始していた。

 俺は間違いなくこの場所を知っていた。


■■■


「考えていることを当ててあげましょうか?」

 女が言った。数時間前の尋常ではない様子は影を潜め、冷製な様子だった。

 俺は無機質な灰色の壁に視線を転じていた。壁には拳大のサイズの蜘蛛が張り付いていた。黒い背中のまだら模様が目みたいだった。毛むくじゃらの太い足でゆっくりと壁を上っていた。

「そろそろここを出たい。違う?」

 眼球の向きだけを女に向けた。貴金属を纏った漆黒の塊がいた。手前には八重桜の造花が暇そうに微睡んでいた。

 午前中にインチキ女と話した時には気づかなかった花の微香が嗅覚をついた。甘くてとろけてしまいそうな匂いだった。

「正解。友達と約束があるのに行けないな」

 小学生からずっと同じ学校に通っている聖と遊ぶ約束がこのお陰で台無しだ。

 俺と聖と真島と、聖の彼女の神津と一緒に遊ぶ予定だった。コイツらは全員、新聞部のメンバーだ。神津ってのは双子で、コイツは眼鏡に三つ編みのおとなしい妹の方。やかましくて性根が歪んでいるのが姉の方で両方とも部員だが、歪んだ方は蒸発してしまったらしく随分前から見かけていない。眼鏡の方も勉強に忙しいのか、毎日はやってこない。

 聖、今頃俺に電話して繋がらないって怒っているのかな。

 楽しみにしていたのに。

 遊びたかったな……マジでゴメン。

 と、嘲笑するかのような吐息が聞こえた。

「知っていると思うけど内側から扉は開けられないわ。私が指定した時間になれば外から様子を見に来る手はずになっているけど、その時に私が応対しない場合は君が真っ先に取り押さえられるわよ」

「それは、俺が人殺しだからか?」

 自虐的な響きを多分に含ませ、口の端を歪に吊り上げた。色々な笑顔を見せる真島にもけして出来ないであろう淀んだ微笑だった。

 女は机の上に添えていた腕を立てて顔の辺りを押さえた。脚がぐらついた。息を大きく吸い込み、時間をかけて吐き出した。疲労感が窺える溜め息だった。

「そういうことね」

 インチキ宗教家の言葉尻を待たず、俺は机を両手で叩きつけて立ち上がった。傾いた脚が一人で大暴れした。花瓶が転倒し、地面に落下して割れた。床に水が広がった。

「いい加減にしろコラ」

 女は驚いたように立ち上がった。

「殺すなんて絶対にあり得ねえんだよ! そんなに死が好きならテメーが死ぬか?」

 気色ばんだ様子がトリガーとなり、女がローブの内ポケットより包丁を取りだした。有無を言わさぬ様子で刃先が俺に向いた。

 俺の表面上の怒りが恐怖に引っ張られて身を潜めた。

「おとなしくして頂戴。君は悪魔に惑わされ、反省の心を忘れているだけ。本当は誰よりも優しいことを私は知っているわ」

 諭すような調子。

「依生君は二人を殺した。罪を認め、反省し、悔い改めるしか君に赦しの道は存在していないの。君に自主的な反省を行ってほしいの、だからここにあなたを閉じ込めているのよ」

「そこで神様を信じろ、か。ふざけんな」

 強い苛立ちを感じていた。刃物の恐ろしさすら忘れかけるほど、頭に血が上りだしていた。

「頭のどこにも記憶がないのにどうやって反省しろっていうんだ」

「記憶がない? 嘘おっしゃい」

 宗教家というものは不安や怒りというものが大好物なのだ。それらを煽りたてて心の隙間をこじ開け、いとも簡単に中へ入り込んでくる。人を軟禁して自分の最も大切なものを殺した等という最低の嘘を述べ腐るこのババアが心底不愉快だった。

 だのに相反するように女の言葉に言いようのない不安を感じていた。

「嘘だって言い張るなら俺が具体的にどう両親を殺したか説明しろ。どこに死体があるのか教えろ。警察に突き出せるくらいなら状況だって理解してるんだろ?」

 俺が両親を殺しやがったとぬかすなら、その事実を提示できるはず。

 今頃、夕食の支度をしているだろう、『俺が殺した』両親のことを。

「それは私の役目ではない。あなた自身が真実から目を背けている以上、私がいくら真実を言ったところであなたの魂の反省は望めない」

 女はもっともらしい綺麗事で回答を誤魔化した。

 いや、答えられないだけだ、そうに違いない。

「役目じゃない? 真実から目を背けている? 捏造された真実なんか知らなくて当然だろうが」

 いつの間にか蜘蛛は天井付近にまで移動していた。一本の糸を垂らしていた。

「本当に何もわからない、と依生君は言うのね?」

 少しもの寂しげな調子に聞こえた。

「それならば少しヒントを与えましょう」

 どうせデタラメなことをいくつも並べて反応を窺うだけだ。

 不安に感じることはない。不安を感じてはならない。

「この建物に一日閉じ込められ泣きわめいていたこともあなたは覚えていない。両親に捨てられようとしていたこともあなたは覚えていない。両親に愛されている自分でいるため、自分の魂に嘘を塗り重ねているだけなのよ」

 軽く聞き流して嚥下してやるつもりが、大半が引っかかって残った。ノイズみたいに、気にしなければ気にならないが、ひとたび気にすると本来見るべき画面よりも異様な存在感を放っていた。

 それこそがこの女の会話術なのだ。

 自分を見失うとあっさり術中にはめられてしまう。

 わかっている。それなのに内側の乱れがどんどん膨張して地に足がつかない。

「バカバカしい。話すことなんてねえ」

 目を細めて大声をあげた。深呼吸した。深呼吸がこれほど難しいものだとは。

「嘘ね。認めるのを怖がっているだけ。君は私と一緒、とても弱いわ」

 しかし、女は揺動する俺の心境を弄ぶように聡明な調子で言った。ずっと昔から俺を見続け、小さな表情の変化で感情のゆらぎを見抜いてしまうような、それほど確信に満ちた声だった。口があると思われる位置を押さえて上品な笑い声を立てた。

「何笑ってんだクソ!」

「だって、可愛いんですもの」

 ナイフをひけらかしたまま余裕の体で言う。母親が反抗期の子供にするのと同じ接し方をされているのが気持ち悪かった。

「悪魔に騙されて可愛そうな依生君。でもね、他の皆は悪魔に取り憑かれどこかに行ってしまったけどあなただけは絶対助けてみせる。だって私はあなたの考えていることがわかるの。それは不思議なことではないのよ」

 言葉が現実を遥かに乖離していた。動揺丸出しの表情で女を睨んだ。

 荒唐無稽であるのに聞くのが辛かった。女が口を開くたびに俺の心は俺自身が思っているよりも数倍の勢いで心を掻きむしっていた。耳を塞いでしまいたい衝動にかられた。

 女の言葉を完全な嘘だと断言できていないのは俺自身だった。インチキ女だと反芻しても、しても、インチキだと思っていないのは俺なのだ。

 女は少しの合間黙りこくった後で、ゆっくりと息を吐いた。

「死体は右奥の倉庫にあるわ。依生君だって『知っている』でしょう?」

 秋の一日に相応しい、穏やかで柔らかい抑揚だった。


■■■


 俺はこの家屋に閉じ込められたことがある。

 子供には明らかに大きすぎるこの部屋や、いつ途切れるとも知れない廊下。牢獄を彷彿とさせるあの閉鎖された小部屋は覚えがなかったが、恐らく忘れてしまっただけなのだろう。

 ババアによって一晩中閉じ込められた。最初は好奇心と強がりが相まって家屋内を散策していたが、やがて建物自体の薄気味悪さと、孤独から泣きわめいた。

 特に恐怖だったのが、右側の奥にある部屋だった。

 室外からの人工的な薄明かりが頼りの暗い部屋だった。錆びた鋸や鍬などが収納されており、腐食した金属と埃の臭いが飽和していた。

 入ってしばらくするとドアがゆっくりと閉じて部屋が暗黒に飲み込まれた。その時に小さな俺の小さな好奇心は木っ端微塵に砕け散った。

 悪臭、冷やされた大気、密閉された個室、暗黒。

 それらの相乗効果が子供心にどれほどの恐怖となったか、誰しも想像に難くないと思う。もし地獄があるとすれば、このような場所だと俺は思っている。

 そう、あの場所は地獄だ。

 部屋をどうやって出たか、覚えていない。

 震え、泣き続け、やがて朝が訪れあのババアが迎えに来た。

 けれども俺は、こんな頭が狂ってしまうような場所に一晩も閉じ込めやがったババアに対して強い憎悪を抱いた。

 あいつをインチキ宗教家だとか、クソババアだとか口汚く罵っているのは根幹にガキの頃のこの体験があるからだ。

 閉じ込められるに至った理由は果たして何なのだろうか。

両親と教会に行ったことは幼少期には何度もあった。と、いうか俺は暇さえあれば教会に行き、孤児院にも行っていた……気がする。そうだとすれば、俺が教会で何か『悪いことをしたからここに閉じ込められた』のだろうか。

 堂々巡りだった。

 ふと前を見れば今朝起きた時にいた部屋の前に立っていた。

 入ろうとドアノブを掴んが、手が止まった。

 女の部屋から戻ったら、チビが去り際に吐いた言葉の意味を聞くつもりだったのを思い出した。きびすを返して真島がいるだろう部屋を見た。

 やおら訪れた夜闇に飲まれ陰鬱に沈み出した廊下の姿があり、廊下を挟んだ先にあるドアは冷たく佇んでいた。

 夜の濃度が増す度、俺の内心にかかった霧も濃くなっていた。足下がおぼつかない不安感は紛れもなくここに閉じ込められた恐怖の記憶を身体が覚えていたからだった。

 嫌な感覚だ。早くここを出たかった。

 俺が両親を殺したと言えば出られるだろう。しかし俺は殺していない。

 外に出ればすぐにでもわかる嘘だ。俺の安否を心配している両親が待っているのだ。

 だが外に出るためには両親を殺したと言わなければならない。一時の欺罔だとしてもこれだけはけして認められない。

 矛と盾。

 真島の部屋に近づいた。金メッキが剥がれかけたドアノブを掴んだが、ノックもせずに女性の部屋に入るのはさすがにシバかれかねないと思い拳で強くドアを殴りつけた。

 返事はなかった。考えてみれば当然だった。

 聞き耳をたててみるが物音一つしない。眠っているのだろうか。

「入るぞっ」

 小さくて大きな照れを隠しながら見え見えの口調で言い切ってドアを開いた。

 部屋内は月明かりに照らされていた。深い青色に塗られた内部のあらゆるものが黙したまま俺を出迎えた。真島の姿はなかった。

 部屋に足を踏み入れた。昼間の陽光に暖められた大気の面影がまだ少し残っていた。ベッドにかけられているシーツが大幅に乱れ、枕は中央付近に立てられるように置かれていた。ベッドを除けば唯一の生活品である丸形の小さな机には水の入ったコップが置かれ、白っぽい花のついた木の枝が浸されていた。

 何の花だろうかと近づいてみる。

 コップの表面が光を反射して輝きながらゆらめいた。

 木の枝を手に持った。顔に近づけてみると甘い香りが鼻腔をくすぐった。薄い桃色が鮮やかな八重桜だった。桜の香りはわずかなもので、注意して嗅いでようやく気づく程度だと聞いたことがあるが、この桜は主張するように強い匂いを持っていた。

 ババアの部屋に置かれていた八重桜の枝なのだろうか?

 ずっと造花かと思っていたが花びらを指先でなぞってみると花粉が付着した。紛れもなく本物の桜だった。

 俺はコップに桜の枝を戻した。鼻腔の奥部には未だに花の甘い香りが余韻を残しており当分離れそうになかった。

 なぜ? という気持ちが体内に満ちあふれていた。秋桜ではなく八重桜が眼前に置かれている不可思議な事実に血肉が軋んでいた。

 もう一度指先で桜の繊細な花びらに触れた。触れれば触れるほど、匂いが強くなっているような気がした。

 コップの水面が強く波打った。

 昔よくいたずらでやっていた『膝かっくん』を背後からくらわされた。

「うおぁ!」

 奇妙な声をあげながらよろめき、ベッドに頭から突っ込んだ。シーツを頭にかぶったまま振り返ると『わ!』と紙いっぱい書かれたブックを持った真島がいた。

 真島は冬用のブレザーを着用しており、肩からはトートバッグを提げていた。腕や首には女からもらったと思しき金ぴかの装飾品が装着されており、極めつけは頭にかぶったティアラだった。

『何してんだよー人のベッドに潜り込んで』

「お前が潜り込ませたんじゃねえか」

 にへらぁ、と口を開いて笑顔をつくる真島。

 シーツを頭にかぶったまま起き上がった。薄い布が擦れた時に花の香りが微風となり鼻先をくすぐられた。隙間から真島を見据えてテーブルを指差した。

「何で秋に桜の花があるんだよ」

『綺麗でしょ?』

「そういうことじゃねえよ。季節間違いすぎだろコイツ」

 真島はスケッチブックを一枚めくった。

 油性ペンで描かれた文字ではなく、油絵の具で絵画が描かれていた。巨大な桜の樹木の幹が中央に力強く存在し、桜吹雪がちりばめられていた。古めかしい巨木の根元にどこかで見た髪の長い女が立っていた。水面ヶ百合高校の制服を着用していた。心ここにあらず、という惚けた眼差しで今にも動き出しそうな桜の花びらを眺めていた。

 美しい絵画なのだが、どことなくもの悲しさが全体を支配していた。この女や桜を、けして手の届かない場所で見ながら描いているその寂寞が込められているように感じられた。

「何だよこれ。お前が描いたの?」

 幾度となく首を左右に振るチビ女。

『リカチャンが見て、描いたの。イオクンも見たい?』

「リカって誰? コイツ? 女の子っぽくていいなどこかのチビとは違って」

 目前にいる奴に対して皮肉をたっぷりと込めて吐き捨てた。

 頭に乗っているシーツを払いのけるとスケッチブックで顔面を往復ビンタされた。分厚い画用紙の塊が頬を駆け抜け、本当に平手打ちされたような感触だった。鼓膜の内側に聴覚検査の折に流れる音が鳴っていた。

 真島は一年の半分ほどを構成している諧謔的な表情を浮かべていた。そして何事もなかったかのようにブックにペンをはしらせていた。

『キレイなのは認めてアゲルけどリカチャンじゃないよ。ほら、見にいこっ!』

 言うが早いか俺の手をぶんどろうとするので華麗にかわす。頬の両方に空気を溜め込みながら二度、三度と腕を掴もうとしてくるが振りほどき、背中に回した。

「自分で立つからいいよ」

『何よーわたしに手握られるのテレるの?』

「照れるわけねーだろ自惚れんなチビ」

 ぶーすか。フグの顔。

 手を握られるのが嫌なのは、真島に身体の一部を預けるとコイツの奇妙なペースに引きずりこまれそうな気がしたからだった。

 昼間のように。

 そう、俺は昼間の言葉の意味を聞きたかったのだった。

「行ってもいいけどその前に聞いていい?」

 真島が怪訝そうな表情を浮かべた。

 俺は構わず続ける。

「昼間のさぁ、『見ていたいだけ』ってどういう意味?」

『怒るからヤだ。キレたら殺される』

「何言ってんだ。俺がそんなちっちゃなオッサンに見えるのか?」

 頸骨が折れて身体から外れてしまいそうな勢いで首を縦に振っていた。

 苛ついた。

 いや、苛ついていない。全然。

「怒らないから言ってみ」

 言葉にすれば、むーっと唸っているみたいな感じで口元を動作させる真島。

 ベッドから威勢よく起き上がって真島の肩を掴んだ。小柄で童顔の顔面を真っ直ぐ凝視した。恋人でもない女をまじまじと見つめる羞恥心が多少あったが、気にしている状況ではなかった。

 赤黒い瞳孔が全ての注目を俺に傾け、不思議そうに見つめていた。

「俺はここを知っている。昔ババアに監禁されたからな」

『思い出したんだ? エラいね』

「だけど、殺しなんて知らない。全くの嘘だ」

『カンキンされていたのを忘れていたように、殺したことを忘れているのかもよ?』

「何度も言わせんな、ぶん殴るぞ」

『やっぱり怒ってる……』

 真島は俯いた。

「いや……違ぇよ。まあ、その、そう思いこませて陥れて宗教に連れ込もうっていう手段だって俺は言いたいの。だから真島も騙されんじゃねえぞ」

 しばしの沈黙。

 桜の花の香りがますます濃度が強くなっている気がした。月光の下に佇む八重桜の枝がチークダンスを踊っていた。

 真島がゆっくりと面をあげた。

『イオクンは大好きな両親の顔を思い出せる……?』

「顔?」

 真島の眼球が月明かりを吸い込んで鈍い光を反射していた。

 続いて俺が俯く順番が回ってきた。

 俺は特に深く考えずに両親との生活を回顧した。

 小さな時、動物園につれていってくれた両親。運動会にきてくれた両親。一緒に銭湯に入る父親。俺の好きな料理を作ってくれる母親。

 擦り切れたフィルムのような断片的な記憶だった。白黒どころか、虫喰いができて音声も途切れかけている映像であり、両親の表情がいかなるものだったかを思い出すことはできなかった。

 新しい記憶を探る。

 自宅のテーブルに並べられた四つの食器。俺の分と両親の分、後は恐らく俺がおかわりをする分だろう。どのような食べ物が並べられていただろう。内容は忘れた。

 その後、リビングでくつろいでいる俺と両親。何やら楽しそうに会話をしていた。内容は忘れた。寝る直前、部屋にやってきて話をする父親。内容は忘れた。

 何やら俺の見えない場所で、深刻な口調で私語をしている両親。

 つい最近のはずなのに、両親の顔は穴が開いてしまったようにその部分だけが見えなかった。

 俺の心に何度目かの焦燥が宿った。血液がざわめき、脳から一斉に引き上げていった。俺は繰り返し両親との生活を思い出した。生活をしていた痕跡は確実に焼き付いているのに顔だけがどうしても思い出せなかった。

 花の香りが強かった。いかに桜から顔を背けようと、息を吸い込むと甘い香りが鼻腔をついてきた。倒錯してしまうほど甘美で現実にはあり得ないはずの芳香であった。

 真島が何かを『言って』いる気がした。

『ね? 思い出せない、よね?』

 俺の心をえぐりだして内臓色の眼球で見てきたみたいに彼女は断言した。常に何らかの表情を湛えてているはずの彼女の顔面に、表情のない作り笑顔が張り付けられていた。

『イオクンが大好きな両親は君のことが好きだった?』

 視界が一瞬、揺れてぼやけた。ショックを感じたというよりは、強烈な憤怒が底辺から沸きだしてきたといったほうが正しかった。

 理性が強烈な勢いで俺の身体から乖離しようとしていた。

『イオクンが大好きな両親は本当に好きでいたい人だった?』

「大好きだったに決まっている」

『本当にその人たちは、今、生きているの?』

「黙れ。やめろ」

 断言できるのに、顔がどうしても思い出せない。

 今この瞬間も、俺の帰りを待ちわびている両親がどれほど不安そうな表情を浮かべているか皆目見当がつかなかった。

『好きだから、好きだと思われたいから、殺したの。字余り。by ねい』

 小馬鹿にしたような、笑顔。

 掴んでいた肩を放り投げるように突き放した。真島はマネキン人形みたいに飛んで後頭部を机の角に打ち付けて床にうずくまった。腹部を蹴り上げた。二回、衝撃を与えたところで真島の口から目の色と同じ液体がこぼれていることに気づき、足を止めた。

「テメーも俺をハメる気なのかよ? ええ? しつこくイカれたことばっか言ってんじゃねえ、そんなに殺しが好きならくれてやる!」

 うつ伏せになって声にならない嗚咽を漏らしている真島に罵倒の言葉を吐き捨てた。

 精神が感じていた怒り以上に、肉体が激高して真島を害悪と見なしていた。

 細かい震えを繰り返す真島の右腕が伸び、その先に落ちたスケッチブックに文字を刻んでいた。

『一つ記憶を守るため、それにそぐわないものを全て消す。小さな矛盾と嘘を繰り返し、認めずに破綻させたの――』

 八重桜の枝をとって腕の中央に突き刺した。貫通はしなかったが肉と血が飛び散り、ペンをこぼした。

 ――何が矛盾だ、何が嘘だ!

 そんなものはない。最初からないのだ。

 わめき声を出しながら真島の頭を数回踏みつけた。何度目かはわからなかったが、スイカを割って潰した時みたいな感覚が足の裏側に広がった。

 真島の身体が大きな痙攣を二度ほど起こし、その後は動かなくなった。

 やがて木製の床に血液が広がっていった。さながら真島の瞳がこぼれて外側に出て行ったみたいだった。

 花の香り。

 困憊のためだろうか、視界がわずかな時間、暗転した。


 肩で激しく息を切り、呪詛の視線で何かを睚眥する自分を悟った。

 俺が睨みつけていたものはめくれかけたスケッチブックと、黒のフェルトペン。

 画用紙に書きかけられていた文字の醜さに目眩がした。いつの間にかめくれかけていたそのページの次の一枚にはこう書かれていた。

『破綻の先にイオクンがどうなるのかを見たいの』

 誰が書いたのか。いかなる意味を示していたのか。

 恐怖感が身体を駆け抜けていった。俺は画用紙の上で躍動する文字に言いようもない畏怖を感じ、腑抜けた調子で走り出した。


■■■


 廊下にも桜花の強い香りが充満していた。

 現実なのだろうか、耽美的な幻想に身を宿しているだけなのだろうか。俺を圧迫する家屋の雰囲気が芳気と混濁して意識をあやふやにさせた。おぼつかない足取りで細く長い廊下を歩行しているがまるで進んでいる感覚がなかった。

 真島はどこに行ったのだろう。

 真島? マジマって誰だっけ。

 木の床を足跡が軋ませている。灰色の壁にもたれかかりながらさしたる目的もなく歩いている。あえて目的をつけるならば恐怖によりじっとしていることができなかった。俺を封じ込めている鈍色の牢獄は急激に成長し俺に牙を剥いている。執拗なほど、ありもしない罪の記憶を植え付けようと。

 半身を預けていた灰色の感覚が消えた。正面を向くと広間に到達していた。

 異様に鼻をつく桜の匂いがあるという以外は冷気と静寂に飲まれた単なる空間だった。子供を抱いた母親らしき銅像がちょうど正面から見つめてきた。

 いつ見ても気持ち悪い顔をしていやがる。

 いつ見ても? 一度しか見たことがないはずだろ。

 疲弊のせいで様々な事柄が曖昧になっていた。昔からこの銅像を毎日眺められる場所で生活していたような錯覚に、俺は自分の頬を張って目を覚ませと発破を掛けた。

 広間の奥のほうから明かりが漏れていた。俺があの女と会話した小さな個室のドアが開かれているようだった。

 はらり、ほろり、と足を進めていくと照明の内側から叫び声があがった。喉が千切れてしまいそうな金切り声に俺は立ち竦んだ。

 数秒間続いた絶叫が事切れ、再びしじまが表面化した。

 俺は誰かと敵対する時のような険しさを面に浮かべた。足音をなるべく立てないよう注意を払いながら、斜光が玲瓏と差し込んでいる地点に移動して部屋内を見た。

 そこは昼間に俺と女が会話した牢獄ではなかった。

 まるでどこにでもある住宅のリビングルーム。

 俺は一歩、足を踏み入れようとして足を止めた。土足で上がるのを躊躇ってしまう豪華なカーペットが敷かれていた。だがここで靴を脱ぐほうが不自然だと思ったのでそのまま入ることにした。

 広間にこもっていたはずの冷気が、カーペットをまたいだ瞬間に陽気へと変貌を遂げた。鼻をつく強い香りがごく自然なものと感じられる季節の暖かさだった。分厚いガラスを張り付けたテーブルと、座り心地が良さそうなソファがあった。部屋の隅には観葉植物が置かれていた。

 奥には大きな窓があり、窓の前にあの女が立っていた。テーブルの付近に顔の正面を向かせ、俯いたまま沈黙していた。かぶっていた帽子に隠していたはずの髪がだらしなく垂れていた。ヴェールの下から汗がこぼれ落ちていった。手には真っ新な包丁が握られていた。

 窓の外の景色に俺は愕然とした。

 一面を淡色の花びらが、ゆるやかな風に誘われながら舞い落ちている。時に微風に乗りながら、時に横風にさらわれながら夢幻の狭間をさまよっている。その中央には巨大な枯木が根を下ろしている。野太く粗雑な幹から伸びた枝が無限とも思える数の桜の花を実らせている。次々に花びらが散っていくのに、一向に衰える気配を見せない。

 口を半開きにしたままに見つめるしか術がなかった。濃度を増すばかりの花の匂いが目の前の出来事を現実だと主張していた。同時に俺を現実から乖離させる強い刺激をもたらしていた。

 女が俺を見向いた。首だけを少し横に傾け、頭痛を耐えるように振った。

「依生君……依生君。私はね、自分の娘を殺したのよ」

「は?」

「でもそれは、娘が悪魔に取り憑かれていたからやむを得ずやったことだったの。私は自分の家族を手にかけることが、どれほど苦しいかを知って、いる、の。だから……君があの二人を殺した時、どうやっても、守ってあげようって、思ったの」

 様子がおかしかった。元々おかしかったが、自分が子供を殺したと吐き出すとは思っていなかった。

「俺はやってない」

「もういいの、よ。私はもうすぐ、娘によって殺され、塗炭の苦しみを与えられ続けることになる。あの悪魔が、娘をそそのかして……呪いをかけた、の、よ!」

 呼気が乱れていた。腕がぶるぶると震えていた。

「君も悪魔にそそのかされて二人を殺した。だ、だ、だから悪魔によって殺され地獄に堕ちる、る、前に、私が天国に行けるように、してあげるよ!」

 齟齬が起きた歯車みたいにたどたどしく発すると包丁の切っ先を俺に向けた。いつしか包丁には錆びついた血糊が付着していた。

 冗談にしては笑えなかった。本気だとしたら完全に狂っていた。

「音唯ちゃん……どうして頭から血を流して、立ってるの?」

 ぽつり、ババアの口から言葉が漏れた。多分、俺の後方を示して言っていた。

 女の背後に展開している桜が一斉に吹雪いた。窓枠が風によって暴力的な揺さぶりを受けていた。

 振り返ると部屋の入り口の所に頭と口から血を垂らし、片方の目を閉じた小柄な女が立っていた。瞳は流下する血液と同じ色をしていた。俺の通学する学校の制服を着用していたが、見たことのない生徒だった。

『リカチャンはね、ルカチャンは大好きだけどお母さんは大嫌いだって』

 ネイという女は画用紙に言葉を連ねた。見ていると心臓が締め付けられ、呼吸が困難になった。

「悪魔め……ああああなたこそ、死ぬべきだわ!」

『イヤですよ、死ぬなら一人でさようなら。by ねい』

 小さな女子高生は胸元まであげた手をひらりひらりと動かし、表情を綻ばせた。そのままゆっくりと後方に下がっていった。黒髪が闇と同化し、身体が消えていっても赤黒い瞳だけは最後まで、闇よりも強く輝いていた。

 やがて全てが黒に還った。

 女が奇声をあげた。先ほど聞いた金切り声と全く同種類のものだった。女に視線を戻すと血にまみれた包丁を顔の前にあげ、ひたすらそれを凝視していた。一旦収まっていた痙攣が再度大きくなっていた。

 俺に向かって突進してきた。

 頭の中が真っ白になったが、身体がほぼ本能の赴くままに横に跳び、女の包丁をかわしていた。

 刃先を立て、喚き散らしながら振り回してくる。俺が見えているのかいないのか、デタラメに空気を切り裂いているが、離れようとするとこちらを向いて近づいてくる。

 俺と女は二人でテーブルを挟んで向かい合う格好となった。

 唐突すぎて状況がいまいち呑み込めなかった。

 女がテーブルを飛び越え、飛びかかってきた。

 身をひるがえして凶器を避け、着地の勢い余ってつんのめった女に思い切り身体をぶつけて突き飛ばした。女は本棚に頭から突っ込んだ。本棚に張られていたガラスが割れた。

 交錯した折に切られたのだろうか、上腕部がぱっくりと割れて血が流れ出した。

 本棚に突っ込んだ女のヴェールから口元が覗いていた。青白くて、生気をあまり感じられなかった。強くわななきながら声にならない独白を続けていた。

 俺はきびすをめぐらせて女から逃げ出した。部屋から逃げ出した。後方から笑っている声なのか、単なる奇声なのかすら判別できないひしゃげた音声が流れていた。

 暗闇と静寂と肌を刺す冷たい空気が俺の肉体を囲み込んだ。それらを振り払うかの如く無我夢中に、前方に走った。

 我に返ったのは腕に激しい痛みが訪れたからだった。腕を見ると傷口から流れた血で真っ赤になっていた。目眩がした。桜花の匂いが未だに鼻を責め立てていることに気づいた。

 廊下。灰色の壁。焦げ茶色の床。

 進むしかなかった。立ち止まればいつ背後からあの女がやってくるかわかったものではなかった。

 熱を持った腕が体力と精神力をみるみる奪い去っていく。歩く度に汗が流れ、大脳がゆらーりゆらーりとブランコをこぎ、足がもつれて上手く前に行かない。

 くそ、と小声で悪態をつくが傷は塞がらなかった。

 それどころかますます状態は悪化していった。何よりも、変な薬でも打ったように混濁を強める意識の在りかに俺自身が不安だった。強い香りが脳内麻薬さながら甘く危うい恍惚をもたらそうとしていた。

 立ち止まって俯いた。壁にもたれて呼吸を整えた。ポケットからハンカチを取りだし、腕に巻き付けた。縛ろうと思ったが片手が使えなくて時間がかかりそうなので適当にぐるぐる巻きにした。

 一寸、休憩、のつもりが――。

 すぐに微睡みが訪れた。


 首を思い切り振り回して無理やり意識を覚醒させた。船酔いでもしたんじゃないかと思うくらい胸くそが悪かった。最低の状態にあるであろう脳みそをはじめとした全身の倦怠感が苛立ちを増幅させる種だった。

 ライターで炙られているみたいに熱を帯びた腕を眺めた。切り落として、口に放り込んで喰ったらまた生えてこないかなと思った。

 起立して歩き出した。

 みしりみしり、靴の底が床を踏みつけると音が鳴った。白っぽい色調の壁紙が廊下の両側に張られていた。トイレのドア、台所のドア、物置と成り下がっている和室に続くドアを通り越した。再び白色調の壁が訪れ、すぐに二階に上る階段が見えた。

 ここを上がれば俺の部屋がある。汚すぎて足の踏み場もないが。

 部屋に戻って一休みでもしようと思ったが、その折、奥にあるリビングルームから物音が鳴り響いた。

 俺は階段に向かおうとしていた足を止め、何の気もなしに明かりのこぼれるリビングへと目的地を変更した。

 リビングはいつもと何ら変わりのない様子だった。廊下と同じ白基調の一室は深まりつつある秋の柔らかい微風を取り入れ、カーテンが小さく揺れていた。蛍光灯が燃える音だけが室内の静寂に抗っていた。

 小さな歩幅で進んだ。どこの家にも置いていそうなソファ、イタリアかどこかのメーカーがデザインしたテーブルを越えた時、何かにつまずいた。

 俺は前方につんのめって膝と手を床についた。

 手にぬめぬめした感触があった。赤黒い液体が広がっていた。

 振り返った。

「――!」

 俺は悲鳴をあげた。

 顔面がめちゃくちゃにされてしまった人間が二人、仰向けの状態であった。服装を見る限り、男女だったが、顔の原型は目鼻立ちが確認できない状態にされていた。傍らには凶器と思しき鉄パイプが捨てられていた。

 何、これ? 

 誰、これ?

 夢にしては陳腐すぎて笑えなかった。夢なのに戦慄が圧倒的な速度で伝わっていった。

 身体的特徴に明らかに見覚えがあった。いや、見覚えなんてものではなく、毎日すぐ近くで接していた人たちのものとしか思えなかった。

 両親が死んでいた。

 涙すら出なかった。父親の近くに寄り、その冷たい手を握ってただあ然とした。目の前の風景は全て嘘なのだと思った。

 数分間もの間その状態が続いた。

 足音が聞こえた。

 しゃがんだままに入り口を見た。

 顔を隠した女が部屋に入ってきた。真っ黒な宗教衣に身を包んでおり、手には血液がたっぷりと付着した包丁を持っていた。ちょうどこの位置が影になっているようで俺の姿に気づいていなかった。

 コイツは、両親が信仰していた宗教団体の代表。

 ぼこり、内面に水泡が涌いた。

 本能が真紅に染まり出した。

 両親は最近、団体からの脱退を話し合っていた。インチキ宗教にありがちなことだが、脱退したことを逆恨みして報復を受けるということがある。しかもコイツは悪魔がどうだの、と完全にブッ飛んだことばかりほざいていた。

 どうしてこんな場所にいるんだ?

 脱退を口にした両親に逆上し、殺したからだ。

 悲しみはこの気狂いピエロに対する憎悪に還元された。傍らに落下していた鉄パイプを掴んだ。

 両親が受けた苦痛以上のものをそのイカれたアタマにブチこんでやる!

 テーブルの影から飛び出した。

 女が驚いたように小さな悲鳴をあげた。有無を言わさずに女の頭を殴った。

 腕に痺れがはしった。ケガをした腕には電流が流れたが腐って千切れても構わないと思った。

 そいつは状況が呑み込めていないらしくうずくまって頭を押さえるだけだった。

 俺は叫んでそいつを罵倒した。怨讐と憎悪と呪詛が一緒くたに吐瀉され、何を言ったのかは覚えていない。

 俺は歯を食いしばり、野郎の首もとに鉄パイプを振り下ろす。衝撃が残る前に再び振り上げ、今度は頭を狙う。手を伸ばして防ごうとしたが頭に直撃した。かぶっていた帽子がとれ、顔を覆っていたヴェールが剥がれた。

 俺はヴェールの下の素顔に向けて得物を振り下ろした。

 表情が確認できた。

 鉄パイプを止めようとしたが、そのまま俺は女の顔を叩き潰した。


■■■


 室外からの薄明かりだけが照らす、金属の腐った臭いが立ちこめている部屋。その臭いは、錆びた器械が置かれているだけではなく、彼の足下に転がっている三つの死体から放たれた異臭かもしれない。

 わたしは頭についている血液をなめた。ケチャップの味がした。

「だ、誰がこんなことを!」

 彼は頭を抱えて掻きむしった。手についていた血液が頭にもこびりついていた。しばらくの間、迫真のモノローグを演じていたがそのうちうずくまって泣き出した。

「誰が、殺したんだ――」

 依生君は、両親に愛されている。

 もう彼の心を惑わす存在はいない。両親に愛情をもらうために彼はやれることをやった、その結果なのだ。

 失うことで永遠に想ってもらえる、彼はそういうものを手に入れた。

 いくらでも、両親の愛に溺れればいい。


 からからから。からからからから――。

 今日は平日。昨日も平日。

 朝起きて、学校に行った。授業を受け、あっという間に昼が過ぎた。

 放課後は新聞部の部室に入り浸り、聖と神津と俺で会話をしていた。と言っても騒いでいたのはほとんど俺で、聖は聞き役、神津に至っては離れた位置でぼう然としているだけだった――と思ったらなぜか関西弁で奇声を発した。

 寝言だった。

 聖が神津を連れて遊びに行きたい、と言い出した。最近落ち込んでいるらしく、元気づけてあげたいということだった。

 翌日、遊びに行く約束をした。チビと眼鏡ノッポじゃテンション上がらないと言ったらグーで殴られた。

 誰に殴られたっけ? チビって誰だっけ?

 そんな奴いたっけ。

 日が傾きかけた頃、帰宅した。両親は仕事から帰ってきていないらしく、俺は無言のまま部屋に戻ってそのままベッドに直行した。

 目を覚ました時には部屋は闇に包まれていた。

 ベッドの中でだらだらしていると腹が鳴ったのでゆっくりと起き上がり、一階に降りていった。

 廊下に降りるとリビングから明かりがこぼれていた。そっと、顔だけを覗き込ませると両親が話し合っていた。

「だから俺は反対だったんだよ。孤児を預かるなんて」

「私の考えが甘かったのは認めます……まさかこんなことになるなんて」

「俺たちの息子だって、来年大学生になるんだ。まるで息子を空気みたいに……大事な時期だし、これまでは神津さんの頼みだから我慢してたけど……あの人もおかしくなってしまった。これを機に教団も脱退して縁を切ろう」

「……わかりました」

「今から電話をして話をする。あの子には何も言わなくていい。そもそもあの子は俺たちの子供じゃ――おい、何を――?」

 からからから。からからからからからから――。

入りの部分ですのでこれだけではわかりにくいかと思いますが、よろしければ次もお読み下さい。

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