眠れる鬼の美女
昔々、とある大帝国に、それは美しい一人の姫君が御生まれになりました。
彼女は、オウ・ロウランと名付けられ、現帝王唯一の子として、目に入れても痛くないほど可愛がられ、すくすくと成長していきます。
けれど、そんなロウラン姫が成人と認められる御年十六を迎えた良き日に、思いも寄らぬ悲劇が起こってしまいます。
彼女は、悪しき呪いの力により、永久の眠りの術にかかってしまったのです。
事のきっかけとしては、隣国である聖王国と古くから大陸の覇権を求め争い続けている現状が上げられます。
聖王国はこのめでたき日に合わせ、高名な呪術師に依頼して、貴人集う帝都を丸ごと死の呪いに沈めんと画策しておりました。
即座に異変を察知した大帝国召抱えの三賢者が力を合わせてそれを防いだのですが、高齢故か仕上げの段階で僅かに術を取りこぼし、多くの帝国民の意識が向けられていた姫君に死の呪いの残滓が降りかかってしまったのです。
そこからは地獄でした。
目覚めぬ眠りについたロウラン姫は、言祝ぎのため宮殿に集まっていた貴人たちをバッタバッタと薙ぎ倒し始めたのです。
帝王も三賢者もその場にいた数多の人々も、つね楚々とした姫君の突然すぎる乱暴狼藉に大層驚きました。
本人すら与り知らぬ事実ですが、彼女は生まれながらの超天才睡拳使いだったのです。
理性ある人間であるが故にこれまで無意識に封印していた才能が、深き悪意により皮肉にも花開き、呪いに対する防衛本能から全てを敵と看做し倒さんとする狂戦士と化してしまったのでした。
圧倒的な武を見せつけるロウラン姫は、さながら天女のように軽やかに舞っておりましたが、作り出される風景は地獄そのものです。
早々正気に返り現状を正確に把握した三賢者より進言を得た帝王は、姫君の婿候補として国内外から招いていた由緒正しき血を継ぐ有能な若人達へ、『彼女を傷付けることなく呪いから解放した者を夫とする』旨を宣言します。
それに沸き立ち、多くの男性が見目麗しく心優しきロウラン姫を手中に収めんと行動を起こしましたが、結果はただ無残な被害者が増えたのみに終わってしまいます。
やがて、眠り続ける姫君は会場を飛び出し、宮殿を守護する屈強な兵たちの妨害すらものともせず、帝都を囲う巨大な防壁でさえもあっさりと乗り越えて、いずこかへと出奔してしまいました。
帝王は聖王国との小競り合いの傍ら、愛娘を血眼になって探します。
彼の耳に姫君らしき存在の噂が届いたのは、それから約一月も過ぎた頃でした。
大帝国と聖王国に跨り広がる暗き茨の森に、凶暴な餓狼の群れを悠々と追い払い、血の滴る屠りたての小鹿に生のまま喰らいつく女鬼が住んでいる、というのです。
朱にまみれてすら、なお妖しく美しいという鬼姫の噂話を聞いた帝王は、すぐにロウランの顔を知る近衛数人を森に向かわせました。
常時睡拳が発動しているはずとはいえ、基本的には蝶よ花よと育てられた姫君ですから、王は無事を祈らずにはいられません。
約半月後、傷だらけで戻った近衛からの報告によれば、やはり鬼の正体はロウラン姫であるようでした。
しかし、彼らの武力では、彼女を保護するに到底足りなかったようです。
かといって、聖王国との戦の最中、森にばかり兵力を割くわけにも参りません。
姫君を取り戻そうとするあまり、国ごと滅びてしまっては元も子もないのですから。
帝王は如何ともし難い事実を受け、もはや貴人に限らず『姫を無事連れ戻すことが出来た者には、望むままの褒美を取らせる』として、広く国内全土に発布しました。
その知らせの後、褒賞目当ての老若男女が何十何百と連日のように現れ、あの手この手で姫君を救おうと奮闘していたのですが、やはりと言うべきか、彼女の睡拳を前に全ては敗れ去ってしまいます。
一月二月と時が経つに連れて、次第に挑戦者も目減りしていき、半年も経つ頃には、娘を想う帝王以外の誰もが匙を投げる結末となりました。
もはや、森に鬼神在りとして、父王の望みと真逆に、近寄ることすら民に避けられている始末です。
一人の世情に疎すぎる青年が何も知らぬまま深き茨の森へと足を踏み入れたのは、そんな折でした。
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「ここを抜けたら大帝国か……。
聖国ほど腐ってなきゃあ、志願兵として雇われんのも面白ぇかもなぁ」
ケケッ、と薄汚く笑う男は、数秒後に顔をしかめて、手近な木の根元に唾を吐き捨てます。
「クソ親父が……たとえ惨めに野垂れ死んだって、テメェの駒として使われるよりゃあ万倍マシってモンだぜ」
彼の正体は何を隠そう、聖王国の第二王子フィ・リィパォでした。
「兄貴は溺愛ババアの言いなりで、世情なんざ何も分かっちゃいねぇ。
大臣共もバカの一つ覚えみてぇに、口を開きゃあ帝国憎しときたもんだ」
ブツブツと半目で愚痴を零しながら、リィパォは歩を進め続けます。
「当の俺ぁ、現実から逃げ出して負け犬よろしく放浪生活。
フンッ。何が聖なる血筋だ、バカバカしい」
王子は、父である聖王が、隣国に禍を振りまくため自国の貧しき町村から集めた罪なき人々を生贄とし苦しめ殺めたことに酷く憤り、幾度と抗議を繰り返していました。
しかし、何を言っても変わらぬ王と、父一人説得できぬ自身の無力さに絶望して、ついには国を捨て、当て所なき旅を始めてしまいます。
自暴自棄に陥っていた王子の素行はお世辞にも良いものとはいえず、先で出会った輩たちとの悪しき付き合いを経たこともあり、ほんの数ヶ月の間に、彼は驚くほど底辺方向に変貌を遂げていました。
不潔そのものを纏ったような脂ぎった毛深い体。
脅し目的でろくに使えもしない盛り上がりすぎた無駄な筋肉。
いかにも無頼漢といった性格の悪そうな厳つい顔。
およそデリカシーの感じられない下品でガサツな言動。
酒焼けした迷惑なくらい大きなダミ声。
畜生臭さに汚泥をぶっかけたような目にも痛む体臭。
それはまさに、「The☆悪漢」といった風情でした。
第二王子として城で暮らしていた頃とは、もはや全くの別人です。
自国の闇を上からも下からも垣間見てしまった彼は、すっかり現世に希望というものを持てなくなってしまっていました。
そうした末に、ふと、同じく戦争続きの隣国はどうなのか、という疑問が王子の頭に浮かびます。
そして、おそらく自身の持ち得る情報は国境を越えた時点で歪められているであろうと考えた彼は、自らの足で大帝国を目指すことにしたのです。
万一にでも身分が明らかになれば、即座に捕まり首を落とされてしまうでしょう。
けれど、全てを諦めたリィパォにとって、すでに命程度は惜しくもなんともないものでしたので、実行を躊躇するには至りませんでした。
ただし、敵国の王子が正式な手順で関所を通れる理屈もありませんから、彼は密入国の順路として、猛き獣の蔓延る暗き茨の森を抜けようと決断を下したのです。
そんなこんなで森へ足を踏み入れて数日。
感覚からいって、そろそろ国境線を越えた頃ではないか、とリィパォが考えた時です。
突如、視線の先の繁みから、風とも動物とも違う揺れを捉え、彼は警戒心を高めて立ち止まります。
少しずつ音が近付いているにも関わらず、気配らしいものも掴めず、王子は緊張の面持ちで腰に下げた剣の柄に手を添えました。
次の瞬間。
「うぉっ!?」
口元から胸元にかけてを不吉な深紅に染めた麗しき鬼女が、彼の目の前に姿を現したのです。
「な、なんだ、お前は!?」
驚きと共に口をついた問いかけに、されど、返る答えはありません。
それもそのはず、彼女は今なお眠りの呪いに蝕まれ続ける帝王の一人娘、オウ・ロウラン姫だったのですから。
幽鬼のようにフラフラと力なく立つ、いかにも高貴な衣を纏った不審な女を、フィ・リィパォは胡乱な目で見つめます。
「おい、女、いったい……」
再度、言の葉を紡ごうとすれば、彼女はそれを遮るかのように前傾姿勢で王子目掛けて駆け出しました。
およそ人の脚でなせるとは思えない、そら恐ろしい速度でした。
とはいえ、仮にも王子として育ったリィパォは、相手の意図も分からぬまま、それも素手の女に剣を抜くような真似もできず、咄嗟に心臓と喉を両腕で隠すようにして防御の姿勢を取るに留めます。
あっという間に距離を詰めたロウラン姫ですが、そこから発動したのは常の暴走睡拳ではありませんでした。
姫君の、野生化し更に研ぎ澄まされた本能は何故か、彼を運命の伴侶であると認識し、直ちに結ばれんと行動を起こしていたのです。
すなわち……有無を言わさぬ大しゅきホールドをキめてからの、あっぱれディープな大胆接吻でした。
「んんっ!? んんんん!?」
リィパォの驚愕の声が、彼女の舌に空しく絡めとられます。
「んんーーーっ! んっんんん! っんぅ!」
何だかんだ女性関係には潔白であった王子は、本能のままにむしゃぶりつく姫の妙技に翻弄され、最終的に、文字通り腰砕けにされてしまいました。
「……んぅんっ」
真っ赤な顔で地面に尻をつき目に涙を浮かべるリィパォに対し、ロウラン姫はなおも離れず本能を開放させています。
このまま純潔を失ってしまうのか、と絶望半分期待半分の王子は、未知への恐怖から全身を小刻みに震わせました。
しかし、そこで絶賛口吸い中の姫君にある変化が訪れます。
なんと、眠りの呪いにかかっていたはずの彼女の瞼が、ゆっくりと開いていくではありませんか。
そう。古今東西、心から愛する者同士のキッスにのみ起こるという奇跡の力が発現し、今ここに完璧な解呪が成されたのです。
本能で彼を求めた姫君ですが、リィパォ王子もまた、血に土に汚れてなお損なわれぬロウランの美に、一瞬で心を奪われておりました。
両者の赤い実がパチンと弾けていたのです。
「……あら、ここは? 貴方はどなた?」
目を覚まし、ようやく王子の唇を解放した姫は、末だ大しゅきホールドをキめたまま、のんびりと目の前の彼に尋ねます。
「しょれっ、それはこちらのセリフだ!
フラフラ目の前に現りぇたかと思えば、とっ、突然、破廉恥にも抱きついて俺のくちっ、くちびりゅを奪っばばっ……!」
「まぁ」
「まぁ、で済ますな!
俺みたいなのに、こんなッ、てっ、きっ危機感ねぇのかよ!
はっなは早く離れら!」
動揺しすぎて噛み噛みの王子の説明に、姫君は長いまつ毛と共に目を瞬かせながら、そっと口元に細く可憐な手を添えました。
「記憶にないこととはいえ、大変失礼を致しました。
オウ・ロウランの名にかけて、此度の責任は必ず取らせていただきます」
「あぁ?」
凛と立ち上がり、ため息が出るほど流麗な仕草で頭を下げた姫君ですが、そのセリフ内容は不穏でした。
リィパォは話の理解が追いつかず、眉を顰めて疑問の声を上げています。
「責任? え? いや、待っ……おっ?
ちょっ、今、何か、は? おうろうら……?」
「大帝国帝王ス・テイ・ファーンが娘、オウ・ロウランは、貴方を我が夫として迎え入れることを天地龍精の御名において誓います」
「て……む……っぁあぁアイヤーーーーーーーーッ!?」
実にキッパリとした姫の宣言に、ようやく脳に意味が浸透して白目を剥いた王子の絶叫が森中に響き渡りました。
ほどなくして、彼は腕を支えに座していた状態から背を地に倒して、仰向けに寝転がるような体勢となります。
そうしたのは自らの意思によるところではなく、単に失神してしまったからでした。
ただでさえ、猛き獣の蔓延る暗き茨の森を何日と独歩し疲れのあったところに、いかにも妖しい女が現れ、こっそり一目惚れし、かと思えば熱烈に抱きつかれ、ファーストキッスをディープに奪われ、直後、記憶にないなどと言いつつ結婚を誓われ、しかもそれが帝王の娘であったという……衝撃に次ぐ衝撃の連続クリティカルパンチに、さしものリィパォも耐え切れるものではなかったのです。
そんな彼に何を思ったのか、姫君は再び口元に手をやり、小首を傾げて呟きます。
「まぁ、こんなところで眠ってしまわれるなんて、見目通りの豪胆な御方」
ロウランには少々天然のきらいがありました。
「あの、どうかお目覚めになって。
私、まだ未来の旦那様のお名前も伺っておりませんの」
静々と王子の隣にしゃがみ込んだ姫君が、彼の肩を遠慮がちに揺さぶります。
けれど、彼女の言葉に反応が返ってくることはありませんでした。
「あらまぁ、困ったわ。どうしましょう」
~~~~~~~~~~
その後、特に妙案も思い浮かばず、黙ってリィパォの傍に腰掛けていたロウラン姫でしたが、ふと木々の奥から覚えのある気配を感じ取って、小さく笑みを零します。
「まぁ……ふふふ。やはり、もしもの頼りのロン老師ですね」
彼女の言葉に釣られるように森の陰間から姿を現したのは、背を丸めた一人の小さな老人でした。
「いんや、姫様。ワシは無力じゃったよ」
眉を八の字にして深くため息を吐く老人は、土の上を滑るような動きで二人に接近します。
彼は、かつて影の部隊筆頭として仕えていた者であり、現在は高齢を理由に引退し、ロウランの護衛を趣味と豪語して日々ストーカーに勤しむ暗器のスペシャリストです。
大帝国には知の三賢者の他に、五武人の名を頂く拳法の達人たちがおり、それぞれ、拳のマオ師範、棍のレイ師範、刃のフィン師範、射のシェイ師範、護のトン師範と、各分野で最も功夫を積んだ者が代々その名を継いでいきます。
それに加えて、王に連なる者のみ、闇を司る第六師範の存在が伝えられているのです。
立場上、中々に後ろ暗い過去を持つロン老人ですが、一線を退いて、今やすっかり好々爺然とした一般市民生活を謳歌しています。
「その男、随分と様変わりしておるが、正体は聖王国の第二王子、フィ・リィパォじゃろう。
姫様、悪いことは言わん。さっさと始末してしまうのが互いのためじゃ」
「まぁ。いけませんわ、ロン老師。
私は、この御方を夫として迎えると天地龍精に誓ったのです」
老人の物騒な物言いを耳にして、ロウランは未だ気を失ったままの王子を庇うように、華奢な腕を彼の胸元に添えました。
「この件について、私、折れるつもりはございません。
不毛な会話を続けるより、まずは教えていただきたいのです。
この身に何が起こったのか、出来る限り詳細に」
「ぬぅ……」
老人は悩みました。
姫君の隙をついて男を殺すことは容易いが、それでは実の孫のように可愛がっている彼女に嫌われてしまう、と。
そして、数秒唸り声を上げた末、彼の処分はロウランの親であるファーン帝に丸投げしようと画策します。
すでに引退しているからこそできる、開き直った嫌われ役の押し付け行為でした。
「分かった。姫様の心が決まっておるのなら、ワシはもう何も言わん。
まずは望み通り、これまでの話をさせてもらうとするかのぅ」
「まぁ、さすがは老師」
全てを帝王になすりつける気満々のロン老師は、その後、姫君が呪いを受けてからの一切を包み隠さず語り伝えました。
対して、彼女の反応はあっさりしたもので、「まぁ、そうでしたの」の一言で感想を終わらせてしまいます。
自身の暴走睡拳を怖れることもなく、森で野生の鬼女生活を送っていた事実を嘆くこともなく、むしろ、報奨のくだりではリィパォとの結婚が捗ると言って手を当わせて喜ぶようなダイヤモンドハートぶりでした。
老人の説明が終わって間もなく、まるで場の空気を読みでもしたかのようなご都合主義的タイミングで、リィパォが呻き声と共に目を覚まします。
すると、現役時代の癖か、いずれ考えがあってか、ロン老師は素早く二人の前から姿を消してしまいました。
そんな老人の所在よりも、未来の旦那が気になるようで、ロウランは嬉しげな様子で彼の方へ向き直ります。
「ぅ……うぅ……」
「旦那様。お目覚めになりまして?」
「う?」
慈愛満つる微笑みを湛えて、姫君は王子の顔を覗き込みました。
「うぉぉあぁああああああああッ!?」
覚醒直後、諸悪の根源であるロウラン姫を視界いっぱいに目にしたリィパォは、反射的に叫び声を上げながら、全力で身体を転がして彼女から距離を取ります。
驚きに小さく悲鳴を上げる姫君へ視線をやりつつ、慌てて上半身を起こす王子。
彼は、さながら悪霊でも目撃したかのような、唖然とした表情を彼女に向けておりました。
「わ、私はまだ悪夢を見ているのか……っ」
寝起きの混乱で王宮時代の言葉遣いが戻ってきていることには、気が付いていないようです。
「まぁ、悪夢だなんて。
安心なさって、旦那様はしっかりとお目覚めになっておりますわ」
リィパォが悪夢と断言した存在が、およそ見当違いの声をかけています。
彼は姫君のそのセリフに、どこか傷付いたような表情を浮かべて返しました。
「誰が旦那様だ!
そなたは私が何者かを知っていてそのような口をきいているのかっ」
「え?」
「わ、私は、聖王国の……敵国の第二王子なのだぞっ」
呪いが解ける程度には目の前の美女に確かな恋情を抱いているリィパォですが、両名の立場から考えれば、猜疑心はいくらでも沸き起こります。
「はい。つい先ほどそのように伺いました」
「つい先ほど!?」
「けれど、祖国にお兄様がいらっしゃるのでしたら、我が国へ婿入りしていただくのに何ら問題ありませんでしょう?」
「違う、そこじゃない!」
否定を受け、吸い込まれそうな黒曜の瞳を瞬かせた姫君は、頬に手を添え小首を傾げました。
「では、私がそちらへ嫁ぎますか?
けれど、我が国には私以外に直系の跡継ぎがおりません。
母の年齢では高齢出産となりかねず、今から励んでいただくのも憚られますし……」
「なっなんの話をしておるのだッ、そなたも淑女なら少しは恥を知りたまえ!」
天然を炸裂させるロウラン姫に、悪漢風の見目に反して初心な王子はタジタジです。
分かりやすく疑問符を頭上に浮かべている彼女へ、リィパォは額に手を当てながら、深いため息と共に説明を始めます。
「だから、そもそも、敵国同士で婚姻など結べるものではない、と申しておるのだ。
よしんば我らが本気でソレを望んだところで、どちらの王も許しはすまい」
「まぁ。では、駆け落ちなさいますか?」
「そなたの教育係を呼べ、三日三晩かけて説教してくれる!!」
「あらあら」
その後も「これは国ぐるみの罠で、私を捕え利用しようとしているのでは」だの「そもそも一国の姫がこのような危険な場所に一人きりでいるわけがない、偽者ではないのか」だのと疑心をぶつける王子でしたが、何を言っても斜め上のデッドボールを投げ返してくる姫君にホトホト疲れ果て、最終的に彼は思考を放棄して地に倒れ伏してしまいました。
「……もう、いい。
そなたを疑い続けるほどバカバカしい行為も他にあるまい。
元より命を惜しまぬ覚悟で私はここにいるのだ。
たとえこれが罠だとして、国を知るという目的からそう外れるものでもなかろうよ……。
拷問だろうが、婿入りだろうが、そなたの好きにするが良い」
「まぁ」
呟くような小声でそう告げるリィパォは、完全に負け犬めいておりました。
そんな彼の傍へ憂い顔で歩み寄った姫君は、握りこまれた固い拳に己の手を重ねて、愛情に満ちた声色で囁きます。
「疲れていらっしゃるのね……お可哀想に……」
王子には、もはや、誰のせいだと怒鳴り返す気力もありません。
無作法にも地面に転がったまま、改めて姫君の顔に視線を合わせれば、彼が一目惚れした頃合より柔らかく表情がついて一際強く胸を締め付けてくる感情に気が付きます。
「……そなたも一国の姫君であるというのなら、そのように、いつまでも穢れを纏わりつかせているものではない」
言いつつ上半身を起こしたリィパォは、懐から水袋を取り出し、手持ちの端切れ布を湿らせて、一度躊躇うように動きを止めてから、ゆっくりと姫君の口元へ腕を伸ばしました。
触れる刹那、嬉しそうに笑みを浮かべた彼女に後押しされるようにして、彼は丁寧に丁寧にロウランの血汚れを拭っていきます。
「まったく、獣の生き血をすするなど、とんだ鬼姫がいたものだ……」
「ふふ。呪いのためとはいえ、森の中、見知らぬ男性と口付けながら目覚めるなんて……私も随分と驚きましたのよ」
「とても驚いていたようには見えなかったがなぁ」
「きっと全てはリィパォ様と出会うための……龍神様や地精様のお導きだったのでしょうねぇ」
「帝国の信仰は知らぬが、やりようを見るに大層粗忽な神々に違いあるまい」
「まぁっ」
そこから、どちらともなく笑い合って、大帝国の姫君と聖王国の王子の心の距離は急速に縮まっていきました。
その後、無事に二人と一人のストーカーは茨の森を抜け、ロウラン姫はどこか新婚旅行のような心持ちで、リィパォ王子は断頭台に向かう罪人の最期の思い出作りのような心持ちで、のんびりと帝都を目指して旅路を行きます。
道中、姫君の睡拳が就寝時に必ず発動するようになってしまったというハタ迷惑な事実が発覚し、その際にちょっとした騒動が起こったり、ついでにリィパォという名の生贄さえ与えておけば大人しく眠ってくれることが分かったり、当の生贄が往生際悪く抵抗してストーカー老師に昏倒させられ姫君の寝所に放り込まれ起きぬけに少女のような悲鳴を上げたり、どうせ結婚するのだからと全く気にしない様子の姫へ必死になって貞淑さについて説いて無駄に終ったりと、様々な気苦労が王子を襲いましたが、その甲斐あってか、いつしかロン老師も彼の味方側にまわり、帝都到着後即拘束投獄というような当初予想していた悲惨な目にも合わず、敵国の王位継承者という身分にありながら五体満足で帝王ス・テイ・ファーンの御前に参じるという奇跡が起きたのです。
リィパォの出自を知った帝王はその真意を疑い、娘を案じて烈火のごとく怒りを露わにしましたが、自ら発布した解呪の褒賞を蔑ろにもできず、更に姫君の覚醒しっぱなしの才能に関する諸々の現実や、また、過去の職業柄、人を見る目の確かなロン老師の後押し、愛娘自身の強固な意思表示もあり、従軍し充分な手柄を立てるという条件付きではありますが、彼がロウラン姫の婚約者となることを承諾します。
以降、リィパォ王子は、姫君を慕う五武人と三賢者に日々ボロ雑巾と化すほど鍛えられ、やがて地理情報の提供等様々な方面から聖王国攻略に貢献し、また、自身も着実に戦果を上げながら、ついには生家たる王宮へ乗り込んで、これを打倒しました。
王家唯一の良心であった第二王子の失踪により腐敗の加速した聖王国はあまりに醜く変わり果てており、リィパォは軽率な逃避を打った己への罰として、また身内に対する最期の慈悲として、血の繋がった実の親兄弟の首を自らの手で刎ねてまわったのです。
そうして、課された条件を十二分に達成した元聖王国王子フィ・リィパォは、正式に婚約者であるオウ・ロウラン姫との婚姻を認められ、大陸の覇者として君臨する大帝国栄華の時代の立役者として、仲睦まじい一組の夫婦として、いつまでもいつまでも幸せに暮らしたのだといいます。
姫君と王子の出会いが果たして偶然であったのか、はたまた、いずこかの神の導きであったのか……それは、遠い未来の神学者や歴史学者が大いに論じてくれることでしょう。
おしまい。