名脇役
開扉と同時に僕がいる空間の灯りがついた。一人の女性が慣れた手つきで僕の体を掴み、その空間から持ち出した。髪を後ろで束ねた綺麗な顔立ちの女性は、色とりどりに盛り付けられた弁当の前に立ち、僕のチャームポイントである赤い蓋を開けた。そして、白く潤いのある手で瑞々しいブロッコリーの隣にあるアルミカップに向けて僕を搾り出した。どうやら今日の僕の一つ目の仕事はブロッコリーの味付けのようだ。女性は「できた」と呟き、僕の蓋を閉めた。そしてそのまま冷えた箱に僕をしまった。
寒く狭い空間ではあるが、僕はこの場所が気に入っている。僕にとったらこのくらいの温度が丁度良く、しっかりと整理されているので居心地は良かった。賞味期限が切れたものなど全く無く、他の食品の匂いも最低限に抑えられている。扉の裏側の棚が僕の居場所で、沢山の調味料と共に綺麗に並べられている。
この家に来てから今日で三十五日目。以前は使用前に数回振られる程度だったが、最近は常に逆さまで過ごしている。残量が少なくなり、出が悪くなったからだ。ここの一家は皆、僕の事が好きらしく、使用頻度が思ったより多い。中でも一番僕を好んでくれているのが、先程の女性の娘であろう女の子だ。彼女は何かと僕の味を頼る。唐揚げや餃子やパンなどあらゆるものに僕を使い、頬張る度に「やっぱり何でも合う」と一言漏らし、パッチリした瞳がクシャッと細くなり、とても幸せそうな表情をする。僕のせいなのか、彼女は少しふくよかな体型をしている。カロリーが高いと高いと言われているのは自分でも理解している為、女子高校生である彼女の事が時折心配になる。けれども幸せそうな表情を見ると。ついもっと使って欲しいという欲望が表に出てしまう。
それから数分後、また扉が開いた。眠そうな表情で空間を覗き込む顔は、日々の疲れを纏っているように見える。眼鏡の位置を直し、短髪の白髪頭を直し掻きながら牛乳を取り出した。彼がこの家の大黒柱である。彼は毎朝牛乳に砂糖を入れ、電子レンジで加熱したものを飲む事が習慣となっている。そんな不健康そうな飲み物のおかげなのか、彼の腹は何かを身籠っているかのような大きさだ。
暗闇の中で朝食の時間を待っていると、機械音に紛れる階段を駆け下りる音に気が付いた。僕にはその音の主が直ぐに分かった。その足音はそのまま僕の近くまで来て止まった。「どうして起こしてくれなかったのよ」という不機嫌そうな声が聞こえると同時に扉が開いた。頬を膨らした娘が余所見をしながら僕を手に取り扉を閉めた。彼女は僕の位置を的確に把握しているようだった。
朝食の並べられたダイニングテーブルに家族三人が揃って着いた。娘がこんがり焼かれた食パンの上に絵を描くように僕を搾った。そして幸せそうに頬張る。それを見た父親も真似をするように僕を使った。母親は健康を気にしているようで、最近あまり僕を使おうとしない。カロリーハーフなどという代物が世に出回っているようだが、そんなものは邪道だ。そうは言っても心配であることに変わりはない。いつ手を出してもおかしくない上、僕はそれを止める術が無いのだから。
食事を終え、それぞれが一日を過ごす場へと向かった。皆、僕が入った弁当を持って。その間やることも無い僕は、家族が弁当を食べる様子を想像している。僕の唯一の願いは、残さず使い切ってくれる事だ。調味料である僕は『食べる』という表現は使わない。あくまで僕は味を調えているだけであり、主役は調えられてる側である為だ。
それにしても真っ暗な空間で過ごすこの時間は退屈で仕方が無い。僕の周りにいる調味料は意思を持っておらず、話し相手も遊び相手も存在しない。せめて僕の隣にいるケチャップだけでも意思を持っていれば…。これまで何度そのような事を考えただろうか。僕は叶いもしない欲望を、妄想によって満たしていた。その妄想も一つの退屈凌ぎに過ぎないのだが。
いつも通り暇の潰し方を失った時だ。微かに玄関の扉が開く音がした。僕の体内時計からすると、母親と娘が帰ってきたのだろう。仕事と学校がほぼ同時刻に終わるらしく、二人は近所のスーパーで待ち合わせをし、夕食の買い物をしてから帰って来る。
キッチンに荷物を置き、ビニール袋を漁る音が聞こえる。家族の行動を聞こえてくる音を利用して想像するのも一つの楽しみだった。今夜の献立が気になっていると、娘が丁度良く扉を開けてくれた。彼女は何かを探しているようだ。暫くして見つからなかったのか、困った表情で何か母親に話している。母親の声は聞き取れなかったが、娘は「わかった」と言い、僕を取り出した。突然の仕事に戸惑ったが、何はともあれ今夜も役に立てると歓喜していると、娘は僕の蓋を回し開け始めた。いつもはつまみに指を引っ掛けて開けるのだが、今夜は違った。この開け方をする時は殆どの場合多量に使われる。大仕事の予感と共に、残りの僕の量に不安を感じた。
娘は僕を片手に黄色のボウルの前に立った。ボウルの中には挽肉や玉葱などが入っている。どうやら今日のおかずはハンバーグのようだ。だとしたらおかしい。僕の出番はここではない筈だ。次々に意表を突かれ混乱していると、娘は躊躇いながらボウルの中に一周僕を搾り出した。娘は不安そうにボウルの中身を混ぜ始めた。その隣で母親が「大丈夫よ」と言っている。どうやらおろしにんにくが無く、僕を代用したようだった。母親は下手に調味料を混ぜるよりも美味しく仕上がるのだという、どこから仕入れたのか分からない情報を自信満々に語っていた。
母の知恵により、僕の中身はすっかり減ってしまった。この分だとあと二、三日保つかどうかだろう。僕の一生は、この家族に使い切ったと判断されるか、もう使わないと捨てられるかで終止符を打つ。この様子なら使い切らずして捨てられる事は無いだろう。それでも別れは辛い。大切に使われれば使われる程、その度合いが大きくなるのは当然だった。
焼き上がったハンバーグは形も良く、とても美味しそうだ。父親も仕事から帰ってきたようで、丁寧に盛り付けられた料理がテーブルに運ばれていく。メインは勿論ハンバーグで、ご飯や味噌汁、サラダなどが彩りを加え、主役を引き立たせている。僕もその食卓に参加する事ができた。サラダに使うのだろう、娘が僕を運んでくれた。今晩の献立は、不思議と普段より豪華に見えた。僕が使われた料理が主役である為だろう。
準備を済ませた母親がキッチンの電気を消し、席に着いた。既に他の二人は座っており、母の着席を待ち草臥れた様子だった。「いただきます」と皆が声を揃えて言うと、一斉に箸を持ち上げた。健康に気を遣う母親はサラダから手を付けた。父親と娘は一目散にハンバーグに手を伸ばした。箸で小さく割り、溢れる肉汁と共に頬張るや否や、二人は驚いた表情で母の顔を見た。母親はどこか誇らしげな表情をし、箸で割られたハンバーグを頬張った。「うんうん」と満足気に頷く彼女の姿が、僕の今晩のご馳走となった。肉がメインだとしても、僕によって味が調えられた訳だ。僕の手柄と言っても過言ではないだろう。皆の表情を眺めながら、認められることのない功績を自身で讃えた。
食事も終盤に差し掛かった所で、娘がサラダに手を付けようとした。いつものように僕を手に取り、サラダの上にたっぷりとかけた。彼女は、更に減ってしまった僕を見て「また買って来なくちゃね」と言った。突然現実に引き戻された様な気がした。『使い切る』という行為は、僕の一生の終わりを意味する。自分でも、そろそろこの家族ともお別れだという事を意識していたが、彼女の一言により一層身近に感じられた。別れや一生の終わりだなんて大袈裟かもしれない。確かに、消費者にとったらただの調味料に過ぎない。しかし僕にとっては大切な一生はなのだ。一つしか巡り会えない中での、こんなにも素敵な家族との出会いは、この上ない幸福であった。それだけで僕の一生は成功と言えた。
僕はこの一生を、この家族に捧げる事が出来て嬉しく思う。今の世の中、使い切ってもらえず、忘れた頃に捨てられる者も少なくない。それと比べれば、短い期間ではあったがとても幸せなひと時を過ごす事が出来た。きっと僕の次に選ばれる者も、幸せになれるに違いない。僕は逃れることの出来ない別れを意識しながら、家族の幸せそうな笑顔を目に焼き付けた。