尾行
翌日、龍平は地下鉄のホームに立っていた。あの女と遭遇したのと同じ時刻、同じ場所で、女を待っていた。彼女が現れるあてなどまるでなかったが、この空間だけが唯一の接点である事に違いなかった。姉が買ってくれたフランス製のTシャツの胸に手を当てると心臓が破裂しそうな勢いで脈打っていた。
龍平は彼女にアピールという渾名をつけた。彼女にというよりも、それは彼女の笑顔に対する呼び名だった。龍平にはあの笑顔が彼に何かを強烈に訴えかけているように思えた。それは決して極楽の蓮の上から天女が手招きするような優雅な誘惑ではなく、それは恰も地獄の奥底から助けを求める亡者の叫び声のように彼の魂に絡みつき、痺れさせ、彼女の為に何かしなければならないという欲求が、彼の肉体を突き動かすのであった。
携帯で何度も時間を確かめた。16時5分。間もなく、昨日、彼が彼女と鉢合わせた時間になる。ラッシュ前のホームは人も疎らで、もし彼女が通れば見逃すはずはなかった。もし今日来なければ明日、明日来なければ明後日もここで待つつもりだった。彼は、携帯で塾に『すいません。寝坊しましたので、今日は休みます。』とメールを送った。メールの送信音が鳴り終わった時、北の改札口の方から靴音が聞こえてきた。目を上げると、ブラウンのワンピースに身を包んだ女性が近づいてきつつあった。髪をアップにして服と同じ色の大きめのサングラスをかけている。アピールだ。龍平の心が益々高鳴った。あのサングラスと同じ形だ。龍平は思わず目を伏せ、体中の血管が膨張するのを感じながら、自分のがくがく震える足を見ていた。
間もなく、北駅の方から地下鉄が流れこんで来た。発車のベルの音で我に返った龍平は、兎に角電車に飛び乗った。大きく息をしながら、できるだけさりげなく車内を見渡すと、一つ先の扉に凭れ掛かり文庫本を読んでいる彼女を見つけた。彼女は此方を気にする様子もなく、静かに本を読んでいる。彼女が此方を向いていないことを確認すると、龍平の心に少し余裕が生じ、彼女を観察する事ができた。アップに整えたダークブラウンの髪、顔の半分も覆い隠すような大きい茶色のサングラス。それは昨日彼女が落とした黒のサングラスと全く同じ型の色違いのようだった。ブラウンのタイトなワンピースからすらりとした脚がまっすぐ伸びている。その引き締まった脚の先が同色の低めのヒール靴に収まっていた。肩から小さめのクロコダイルのバッグをかけていた。背は特に高い方ではないが、整ったスタイルと姿勢の良さが、彼女を実際より高く見せていた。何よりも彼女は圧倒的に輝いており、車内で彼女だけが異質のオーラを放っていたが、昨日のような情動は感じられなかった。それはあのサングラスの奥に隠されているのだと龍平は思った。
彼女は何者だろう。彼女を背後から審に観察し、今更ながら彼は思案した。どこか浮世離れしたような雰囲気からとてもOLとは思えない。学生にしてはエレガントすぎる。水商売の女にしてはけばけばしさがなく上品すぎる。かといって主婦という程の歳でもないように思えた。まだ二十歳そこそこなのではないだろうか。まるでヨーロッパの雑誌のモデルが目の前にスリップして来たかのような現実離れした雰囲気を醸し出していた。