邂逅
その日、龍平は塾に行こうと地下鉄に乗った。地下鉄の中で、覚えるように言われた英単語の本に集中するあまり、危うく降車駅を乗り過ごしそうになった。慌てて降りようとした彼は、丁度乗り込もうとしていた一人の女性とぶつかり、本を落とした。慌てた龍平が何も出来ぬ間に、女はその本を拾い、彼に手渡した。ある種の微笑みを添えて。地下鉄の扉が閉まり、地下鉄は走り去った。ホームに黒いサングラスが落ちていた。彼はそれを拾い、ポケットに滑りこませた。
ほんの数秒間の出来事だった。あの笑顔は何だったのだろう。龍平の魂を一瞬で奪いさったあの笑顔。気品にあふれた清楚とさえいえる面から仄かに薫る艶気。まるで魔物の鋭い爪で心の中の何か大切なものを抉り取られたようだ。彼が今まで心血を注いで築き上げてきた仮面を容赦なく剥ぎ取り、プリミティブな煩悩を剥き出しにした、蕩かすような微笑。龍平はしばらくホームに呆然と立ち尽くした。
彼女はどんな服を着ていただろう。なにかモノトーンぽかったような気もするが、それが白だったのか黒だったのかさえもわからない。どんな背格好だったろう。痩せていたような気もするがどうだろう。背は高かったのだろうか。声は聴かなかった。香りは、そう、何か大人の女の香りがしたような気もするが、よく思い出せない。ただあの何か強烈にものを訴えかけるような微笑だけが、彼の目に焼き付いていた。その夜、龍平は、彼女が落として拾おうともしなかった黒いサングラスをかけて鏡に向かった。なんだか自分じゃない人間がそこにいた。龍平は勃起していた。