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あの夢の、その先の  作者: 佐倉洸記
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雨上がりは彼女と

 華美ではないがフリルのついた白いワンピース。初春のまだ少しひんやりとした気候に合わせてきたのであろう薄い青の上着。ただそれだけのシンプルな恰好なのに彼女はやはり特別に見えた。

 長いまつげを宿した切れ長の目はぼくをしっかりと捉えている。

 ぼくを射る。


「今日は突然不思議なことを言ったりしないのね」


 鈴が鳴るように笑いながら彼女はそう言った。

 顔に体中の熱が集まっていくのがはっきりと分かった。心臓が耳元で鳴りだす。


「いや、あの、あれは、そのなんというか突然出てしまったもので……。そう言うならば事故のようなものです。気にしないでください」


「あら、私は好きだったわ」


 絶対にからかっている。

 そう分かるくらいに彼女の顔には笑みが浮かべられていた。

 その笑みはつい先日ナオトが見せたものと同じような笑い方だったのだけれど、それとはまったく違って見えた。淑やかに口元を手で隠すその様が、しかし決してそれが嫌味に見えないことが。なにより彼女を物語っているように思えた。

 ずるいなあ。

 こういう人は何をしていても絵になってしまう。

 彼女の一つ一つの仕草をいついかなる時に切り取ったとしてもそれはどうしたって人の心を惹きつけてしまうのだろう。髪の毛の一本一本が二度と訪れることのない波を描き、しっとりと濡れた黒い眼は一瞬の光を反射していた。


「あなたがそんな人だとは思いませんでした」


 我ながら子どもっぽい言い訳じみた言い草だとは思うが、無遠慮に自分の中に手を突っ込まれぐちゃぐちゃにかき回されたような気持ちを少しでも晴らすためにはなにか彼女に食い下がるしかなかったのだ。

 けれど彼女はそれすらもお見通しだったとでも言わんばかりに


「まだ会ったばかりじゃない。私の何を知っているの?」


 と笑みを浮かべたまま、ただ右の反対は左でしょとでも言うようにそう言った。

 全く悪意なく、純粋なからかいの気持ちだけで形作られたそれはぼくにより一層の後悔を与えた。

 この人には勝てないなあ。そう思うには十分すぎるほどだった。

「ならこれから知っていきます」

 せめてもの抵抗にと紡ぎだした言葉の本当の意味さえもきっと彼女はわかっている。


「それでミズノさんはどうしてここに?」

 あら、来てはいけなかった? などと笑う彼女は本当につかみどころがない。


「久しぶりに晴れたからね。ずっと部屋に閉じこもりっきりじゃなんだか心まで苔が生えてきてしまいそうじゃない」

「ここ数日は雲の切れ間すらなかったですもんね」

「そうね、お陰で持ってきていた本を全て読み切ってしまったわ」


 先日木陰で手にしていた本ももう読み終わったのだろう。今日の彼女は何も持たず本当にちょっと散歩に行くだけといった風に見える。


「それにせっかくこんな遠いところまで来たんだもの。外に出て、ここの空気を感じないと損じゃない」


 彼女の周りをふわりと風が舞う。アネモネもその身を揺らせ彼女の目に少しでも映そうと必死にアピールをしてるみたいに見える。


「どこから来たんですか?」

「ずっと遠くの西の方。潮の匂いがする町だったわ」

「そんな遠くから来られたんですね」


「あの街にはもう居られなかったしね……」


 彼女の顔に影が見えたのはきっと気のせいではないだろう。

 彼女の首も肩も少し力を入れたら折れてしまいそうなほどに細い。羊の皮を鞣したブーツが包み込むその足も華奢だ。そんな彼女がこれほどの長旅をしようと思ったのだ。

 きっと何かの理由があるに違いない。

 けれどそれを気軽に聞けるほど、ぼくはまだ彼女の中で大きくはない。

 それは当たり前のことなのだけれど、どうしようもなく心を締め付ける。

 彼女が立つための添え木になることなどできやしないし、それどころかふと愚痴をこぼせるような路傍の石ですらない。せめて彼女を包み込む空気くらいにはならたらいいなと思う。

 小川のせせらぎが空白を埋めてくれる。


「まあ遠いといっても途中からは行商の方に荷台にのせてもらえたから、そう苦ではなかったわよ」

「ああそういえば最近行商の方が来てらっしゃいましたね」


 この間店に出した魚も彼らから買ったものだ。山に囲まれているがゆえに自然豊かで作物もよく育つが、その反面どうしてもこの村にないものは手に入りにくい。例えば絹などの生地はこの村では手に入らない。

 蚕を飼って大規模な商売には人手が足りない。この村の人たちはたいてい畑や鉱山で働いている。そうでないものにしたってなにかしら、それこそ宿屋や酒場などの店を経営しているものが大半だ。

 気楽に遊んでいるように見えるヴァルトおじさんだって畑をいくつか持ち、何種類もの野菜を作っている。そうして出来た作物を売って生計を立てているのだ。絹のような高価な嗜好品を作ったところで、そう易々と買えるものはいない。

 貧乏というわけではないが、かと言って裕福な人はいないというのがこの村の現状だ。

 だからこそ、そういった普段この村では目にしないようなものを売ってくれる行商人たちはぼくたちにとって欠かせない存在なのだ。きっと夫には内緒で彼らからアクセサリーや一張羅を買ったことのあるご婦人方は少なくないだろう。

 ぼくら若者にとってはこの国でいまどんなことが起こっているかを聞かせてくれる存在でもある。先代の王様が亡くなられたと聞いたのも彼らからだ。


「ああ、あの人たちとは違う人たちなの。この村に来る途中で別れてしまったの」

「なにかあったんですか?」

「うん、少し、ね」


 彼女の曇り顔は晴れない。

 駄目だなあ。こんなんじゃまだまだ遠いや。

 なにか彼女の気持ちを晴らす方法がほしい。


「あ、そうだ」

 この時期ならではのあの場所を思い出す。


「ミズノさん。この村のいいとこ紹介しますよ。ついてきてください」

 そう言ってぼくは彼女の手を取る。

 優しく握り返されたその手はひんやりしていて、強く握ったらつぶれてしまいそうだった。




「とても、きれい!」

 彼女が辺りを見回しながらそうもらした。

 村の東、女神さまの像をまっすぐ突っ切って国境の砦が大の大人くらいに見えるまで近づいていく。そして水車がからからと鳴っている小屋を左に曲がって二、三分程度北へ歩いた場所にそれはある。

 自然豊かなこの村では四季折々の景色が楽しめる。秋になれば木の葉は色付き、冬になればしっとりと村中を白に染める雪景色が見られる。

 その中でも春はまた特別だ。

 この国にはあまり咲いていない。けれどぼくにとっては春と言えばこの花だと言えるくらいに見慣れたもの。


「私、桜なんて初めて見たわ」


 辺り一面の薄い桃色。大地に踏み下ろした足にふんわりとした感触がある。他の場所よりここは地面が柔らかい。桜がそれを覆っているから。

 風が吹くたび、桜の花びらが小さな子供が作り出したシャボン玉のように舞い上がって、ぽんと弾ける代わりにひらひらと僕らに向かって降ってくる。

 彼女がその中心で手のひらを広げる。

 ああ、よかったと思う。


「こんなにきれいな景色があるのね…」

 彼女が笑顔だ。ただそれだけでよかったと思える。


「ここ、いい場所なんです。毎年春になったらここに来るんです」


 彼女はまだこの景色に心を奪われている。

 彼女がひとつステップを踏むたび白いワンピースが揺れて、春が深まる。

 ホーホケキョと鳴く鶯が彼女を歌う。


「やっぱり、君は面白いね。こんな気持ち、ずっと前になくしてた気がするのに…」


 彼女がくるりとこちらを向く。宙を舞う花びらがそれにそって弧を描く。

「それにね、なんだかこの景色を懐かしいと思うの。見たことないはずなのにね」

「子どものころに写真かなにかで見たのでは?」

「多分違うと思うわ。どこかで、自分の目で見た気がするの」


 一瞬彼女は自分の記憶を探るように目を瞑った。

 ああ、そうね。きっとあの時だわ。

 彼女の小さなつぶやきが聞こえる。


「私は夢の中でこの景色を見たんだわ」


 鈴が、鳴った気がした。





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