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あの夢の、その先の  作者: 佐倉洸記
26/33

あの日は

 ◆  ◆  ◆


「平坂? どうした、急に立ち止まって」


 後ろを歩く北上が急に立ち止まったぼくにそう聞いてきた。

 二階北校舎。三時間目の体育のために2-3教室から一階の体育館へ向かう途中。

 ぼくも北上も体操服に着替えて歩いている。藤が揺れる季節はとうの昔に終わり、永遠に続けばいいと思っていた夏休みも無情に開けた。

 木の葉が黄色く色付き始め、校舎裏の銀杏が存在感のある匂いを発し始めた季節。

 少し肌寒くなってきたから今日は長袖の体操服を持ってきた。


「ん、いやなんでもないよ。ごめん行こうか」


 老朽化してきて壁の色が白から薄汚れた灰色に変わってきている階段を下っていく。手すりなんて便利なものはなく、ひんやりとした壁に手をつき慎重に降りていく。

 ゆっくりと歩くぼくらを他の生徒が何人も追い越していく。

 少しでも早く身体を動かしたくて仕方がないのだろう。

 他の授業ではこんなに急いで移動する生徒の姿は見られない。体育だけだ。これほど待ち遠しいと思えるのは。


 一階の北校舎から体育館までの渡り廊下。景色が変わる。心が華やぐ。彼女だ。

 渡り廊下から見える三階の北校舎。見上げて、右に三つ窓を移動する。そこが結崎先輩の教室だ。

 窓際、ガラス越しの先輩の横顔が見える。

 結局まだ先輩を名前で呼ぶことは出来ていない。

 水野という名前なのか、苗字なのかわかりにくい名前はぼくにとってものすごく遠いものだった。

 誰かが水野と親しげに呼ぶ声を羨んだ。ぼくもいつか先輩をそう呼んでみたかった。


 でも僕が先輩のことを名前で呼ぶ日はきっと来ないだろう。先輩と出会って一年半。同じ生徒会に所属しているものの一向に恋愛の仲に進展する気配はない。

 親しくないわけではないし、この一年間で随分話す機会も増えたと思うけれどやっぱり先輩は遠いままだ。

 結崎先輩と呼べることで、同じ空間にいられることで満足してしまっている自分にも問題はあるんだろうけれど仕方がないじゃないか。昨今流行りの草食系男子に年上の生徒会長を射止めるのは荷が重い。

 

 あと半年。あと半年で先輩はこの学校からいなくなる。もうこの夏で先輩は生徒会からいなくなってしまった。

 あと半年したら僕はどんな風に先輩を見送っているのだろう。現生徒会長として毅然とした態度で見送れているのだろうか。それとも幼い子供のように泣きじゃくってしまって仕方ないなあと先輩に笑われてしまうのだろうか。

 半年後の未来を思うと切なくて、今でさえ目頭が熱くなってしまうのだからきっと毅然となんて見送れやしないのだろう。


 そんな当たり前の未来があると思っていた。

 その時までは。


 それは本当に突然の出来事だった。

 黒猫はぼくの前を横切らなかったし、烏も鳴いていなかった。今朝見たニュース番組の占いも六位で別に悪くなかった。

 だからそういう運みたいなことじゃなかったのだろう。

 かと言って運命という言葉で片づけるにはあまりにも悲しすぎた。

 誰も思いもよらなかったのだ。


 五時間目の授業が始まる十分前。ぼくが結崎先輩の横顔から目を離したとき。前を歩く北上がほどけた靴紐を直そうとしたとき。


 地面が割れた。


 崩れたとかではなく、割れた。

 地震の影響とかではない。なんの脈絡もなく、なんの用意も出来ずに割れた。

 校舎の近くから離れましょうとか、おはしもてを守って校庭に集合しましょうとか今まで災害に備えて学んだことなんて一切役に立たなかった。

 超能力者が戦う漫画でよくある描写のように、僕の耳をぶっ壊すような爆音とともに校舎は割れた。


 人間は自分が理解できる範疇を超えたことが起きた時脈絡のないことを考えてしまう生き物なんだと自分の身をもって体験した。

 ぼくがその時考えていたのは耐震基準をクリアしてなくて崩れたっていうマンションの話題を昨日ニュースでやってたなとか洋画みたいだとかそんな的外れも甚だしくて、こんなどうしようもない現実を打開するための方法なんて髪の毛一本ほども思い付きやしなかった。


 僕がそんな何の役にも立たないことを考えていられたのは割れた校舎の裂け目にいなかったからだ。

 割れたのは僕の目の前。

 北上の立っていたところ。


 まとまらない思考はコンマ数秒で吹き飛んで、全身の毛穴が閉まって引きつるような感覚で現実に引き戻される。


「北上っ!」


 目の前の北上は踏みしめていたコンクリートが急に無くなって、何が起きたか分からないような顔のまま落ちようとしていた。

 咄嗟に手を伸ばそうとするけど、頭の中だけがぐるぐると無駄に速く回転していて、身体は全身に重りでもつけたみたいに思うように動いてくれない。


 ようやく北上が事態を把握して表情に焦りの色がにじんでくる。それは見える。

 それは見えるのに、身体が重い。

 手が北上に届かない。


 北上の瞳に映る自分が見える。でも、でも手は。

 届かない。

 僕の手は空を切る。


「平坂!」


 叫ぶ声は重力にのって落ちていく。

 何も掴めずに伸ばされたままの僕の手は平坂を失ってしまった現実を拒むみたいに固まって動かない。頭と体が別のものみたいに思える。


 校舎は割れたところからところからどんどん崩れていっているみたいで僕の頭上からも砂埃が落ちてきている。だから僕は踵を返してその場から立ち去った。

 親友がいなくなってしまったその場から逃げ出してしまった。

 僕はあさましく生きようとし続けた。

 いつの間にか頬に涙が伝っていた。


 激しい音がしてまた地響きがする。目の前に砂埃とともに瓦礫が降り注いで僕はしりもちをついてしまう。

 そして僕はその場から動けなくなってしまう。頭はすぐに立って逃げろと命令しているのに僕の足は全く動こうとしない。

 這って逃げようとする僕の視界の端にピンクの不細工な兎のマスコットがついた銀色の小さな鍵が映った。それは結崎先輩のもので。その横には幼稚園児が塗りたくった絵の具みたいに真赤な液体が流れていた。


「どうして」


 ついに嗚咽が漏れだす。逃げることも忘れて僕はその場にうずくまった。


「どうしてですか」


 誰に問うているのかなんて自分でも分からない。神様とやらを恨んだところでどうしようもないのは分かっているけれど、そうせざるを得なかった。

 ただただ理不尽な現実がそこにあって。

 大きな音が僕の真上からして。

 細かな砂や石が僕の背中にあたって。


 そこで僕の意識は途切れた。


 ◆  ◆  ◆


「自分のせいじゃないことは頭で分かっていてもどうしようもないものだね」


 独り言は彼が立ち去った後の白い空間に空しく響いた。

 僕は彼だから彼が覚えていることは僕も覚えているに決まっている。

 目の前で彼が泣き出した気持ちも、記憶に蓋をした理由も理解できる。


 寄せては返すさざ波のように襲ってくる辛い記憶を忘れた振りでもしないと立てなかったのだろうということは分かる。嘘を付かなければ前に進むどころか存在するということすら辛くなることがあるのは分かる。


「それでも思い出さなければいけなかったんだよ」

 彼は。僕たちは。

 嘘を付き続ける方が辛いと知っているから。


「今度はきっちりその手で捕まえなよ、大切なものをさ」


 一人呟いてこの場所から去っていった彼を思う。

 失敗してそのまま命を終えるしか出来なかった僕と違って彼はまだ間に合う。

 彼がいつまでも僕に引きずられないで自分の道を生きていけるように。

 願わくば結崎先輩、いや水野先輩の隣で歩けるように。

 僕は願って目を閉じる。

 黒が消えて後には真っ白な世界だけが残る。

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