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部屋を沈黙が支配する。部屋にいるのは3人だ。私と商人と…勇者。仕事の話をしたいのに、なんでヤツがいるんだ。おかげで仕事の話に入れないじゃないか。そもそも、私には話す内容もないのだが。
ってか、全権を私にくれたなら、話し合う必要もないよね。今さら条件つけるのか。そんなん商業ギルドのギルマスが許すハズもない。もちろん、私も認めない。
暇をもて余したので、目の前のハーブティーを一口飲んだ。いつものリンデンである。紅茶は見たことがないし、タンポポコーヒーはまださほど流通してない。もちろん、そんなものよりリンデンが好きだ。
『噂通り勇者様がついているんですね』
商人が口火を切った。
「まとわりつかれているだけですが」
ってか、勇者が私の隣に陣取っているのが解せない。商人は真正面、敵対関係の位置だ。
『あれも勇者様の発案ですか?〈カレー〉はそうなんですよね』
商人の問いに首を振る。
「勇者様は食べ物にしか興味がありませんが…」
『が、何?』とか聞かないでくれ。曖昧にしただけだ。
話がわからなくて困っている勇者にポケットから加減盤つまりは算盤を出して見せた。
『算盤だ。この世界にもあるんだね』
ニコニコと笑いながらパチパチと玉を弾く。動かし方を見る限り、そんなに慣れているようには感じられない。
『算盤ってさ、どうやってかけ算するの?子供の頃から不思議で…』
ナイス勇者。今までの中で一番の発言だ。
相手が相手だからこれで済むとは思ってないけど、勇者の発案をこちらが形にしたと思ってくれたらラッキーだ。
嘘をつくと信用が失われるが、勝手に勘違いしてくれる分にはいくらでも言い訳が立つ。この件に関して勇者が関係あるともないとも言ってない。〈カレーではない何か〉で全権をもらったことを知っていれば、他のものもそうなんだと信じてくれるかもしれない。舐められることなく、取引相手としてそこそこに信用され、そこそこに有能であると思ってくれたらそれでいい。私の望みはそこそこの幸せだ。
商人は少し考え込むように沈黙した後で、身体の前で忙しなく両手を動かした。
手話だ。前世の知識が勝手に発動する。ついうっかり読み取ってしまった。小憎たらしいのはこちらが読み取ったことを、相手が認識していることだ。目の輝きが変わった。
知ってる人は知っているが知らない人は全く知らないことだが、手話にも方言がある。むしろ方言だらけと言っても過言ではないかもしれない。残念ながら、私が前世で生きていた時には聴覚に不自由のある人たちの世界は狭かった。狭いコミュニティの中で話が通じれば、生活に特に支障はない。本当はあるのに気づいてないだけかもしれない。
まぁ、今の私だって生活圏内以外の知り合いは勇者に出会ってから増えた人ばかりで大差はない。他国の言葉を知る必要はないし、普通に生活していく分には貴族と遭うこともない。
それはともかく、大まかな基本はあっても狭いコミュニティの間で通じればよかった手話はジェスチャーに近いところもあり、そのジェスチャーは同じ内容を示すものも様々だ。当然、年齢層が異なれば、用いる単語もジェスチャーも異なる。手話でも、やっぱり若者言葉は若者言葉だ。一時学校で口話が優先され、手話を認めなかった時代もあり、きちんと習わなかった世代もある。標準化され始めたって今まで使っていた言葉を簡単に捨て去ることは難しい。
そしてもちろん、個人の癖もある。数字の『8』とかムリな人にはムリだしなぁ。指つりそうになる。だから、家族だけでわかる隠語のようなものまで考えるとコミュニティのさらに狭い本当の仲間内だけにしか通じないものまであるだろう。今回の問題もそこにある。彼の手話には前世の私の知り合いにしか通じないジェスチャーが含まれていた。
私が手話を使っていた理由はいくつかある。そもそもは数年間預かっていた親戚の子とコミュニケーションを取る為だった。毎日のようにダメ出しをされながら、必死に覚えた。ちびっこのくせに容赦なかった。これもよく思い違いしてる人がいるけど、補聴器や人工内耳のような補助具を使っていても全て聞き取れるわけじゃない。あの子にとって私の言葉が聞き取りやすい方だったから、身内のゴタゴタの時に私の元に一時的に身を寄せることになったんだ。だけど、母親とほどには会話できないが、父親よりは話せるとなつかれていたらしい。実の親なら手話くらい覚えろと父親に憤りを感じたが、近しい関係ながら一緒に暮らし始めるまで口話だけでいた事実に沈黙したのだった。
預かったはいいけど、仕事に追いまくられていたおかげで、やがて職場に迷惑をかけるようになった。人見知りで無表情が標準のその子のごくたまの笑顔に魅了されるやからが増え、職場に手話が流行るようになり、気がついたら半数以上が拙いながらも使えるようになっていた。そんな時、専務が宣言した。
社内用語として手話を活用する。
気がついたら、沈黙の会議室なる場所も制定されていた。少人数の時しか使用しないが、イントラネットと手話、それに補足で口の動きで会議を行うとか産業スパイにも社員にも涙目なルールの部屋だ。手話に無い専門用語は指文字では表現しきれなくて、開発チームまで作って社内用の新しい手話まで開発した。あくまでも社内用語としてなんで特に広めもしなかった。産業スパイ対策にもなるしな。そう今回、ヤツが使ったのにはこの社内版が含まれていた。 それを通じると思って使い、通じたことを確信している。誰だ? 普通に考えれば、前世の私のそばにいたことになる。
思いを巡らせていると勇者が我に返ったようにつぶやいた。
『今の何? 誰もしゃべってないのに言葉がわかったんだけど』
そういえば、居たんだ。じゃなくて、手話を読み取った? どんな言語チートだ。反応を見る限り、手話だと理解しているとは思えない。思い返してみたら、勇者にわからないだろうとドイツ語で悪口を言った時も聞き取ってたっけ。
言語チート過ぎてはた迷惑なヤツだ。聞かなくてもいいこともわかってしまう。逆に独り言もバレるから大変だろう。
『……読めましたか』
商人は肩を落とした。
つまりは私と内密に話がしたかったと。だったら、ご飯なんて食べないでさっさとしとけば良かったのに。もちろん今でも警戒心バリバリで内密な話なんてする気もない。
まぁ、私も勇者が手話さえわかるとは思ってなかったけどね。そもそも、手話なんて忘れてた。前世の記憶はあくまで前世の記憶に過ぎない。日常生活の方がよっぽど大事だ。使う必要がなければ、引っ張り出すこともない。基本的に今そこそこ幸せだし。勇者がウザいんだけど、排除は難しい。物理はムリで、社会的にはヤバい。ってか、勇者チート過ぎて単なる一般人にはどうにもなんない。
あの時、ついうっかり口に出した前世の記憶が運の尽きか。でも、凱旋パレードの喧騒の中で誰かに聞き咎められるとか予想するのが難しいだろ。ちっ。結局のところ勇者のチートが想定外だ。誰かに押し付けてしまえば逃げられるのでは、と考えたところで、目の前の男に思い当たった。
そうだ。コイツに…。前世の食事の再現ができれば、勇者の意識を向けられるにちがいない。
前世の知り合い? そんなもの知ったことじゃない。少なくとも、現在はギルマスの頼みじゃなきゃ放置する程度の関係だ。あの会社の元社員だって数百人はいるハズだ。そのうち私が覚えているヤツはほんのわずかだ。
商人は私のことをよく知っていて、私が覚えていると思っているらしい。しかし、性格悪そう。腹の中は真っ黒だろう。ん? 記憶のどこかに引っ掛かった。
「……鈴木?」
まさか…専務?腹黒専務?




