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先日、商業ギルドの役員からの呼び出しが来た。正規のギルド員である以上、正式な呼び出しは断れない。もちろん、正当な理由があれば別だ。今回の呼び出しは、もっともな言い訳を作る必要性を感じなか……特に困る事由もないので、今日の出頭に応じることにした。
しかしだ。ちょっと騙された気がしないでもない。会計の手伝いって聞いていたのに、たまたま(・・・・)行われていた技術研修の見学に付き合わされた。
くそっ、嵌められた。これに合わせて呼ばれたにちがいない。
技術研修は今日が最終日で試験らしい。静かな室内に玉を弾く音と筆記音だけが響く。大量の加算減算の問題を解くのが試験だ。商売には欠かせない……いや、一般の商店が普通に売り買いする分にはそこまで必要ない。支払う税金の計算には便利だと思う。この有料研修に参加するのは、比較的大きな商店以上が多い。リール商会はギルド認定で商会内部で研修を行えるので、こちらに参加することはない。加減盤…つまりは算盤の製造元がリール商会だ。元はと言えば、叔母から計算間違いが多い従業員をどう教育したらいいのか相談を受けた際に、商売って言ったら算盤だよねって単純な発想から始まったんだ。リール商会が使っているのがギルドの目に止まり……気がついたら、ギルドの研修料から1%を自動的に貰えるようになってた。ちなみに、リール商会の取り分は3%で、算盤はリール商会の単独販売商品である。同じ機能のものは簡単に作れるけど、模倣すると商業ギルドからの追放だ。技術研修もリール商会の内部研修かギルドで、ギルドから許可を得ずに行うことは禁止である。研修を終了した者自らが後継者に教えることはできない。一度、この研修会に出た相手になら可能にはなるが。つまりはこの加減盤を使いたければ一度はギルドに金を落とす必要があるのだ。さすが商業ギルド。利権には目ざとい。…まぁ、私にも恩恵はあるわけだが。
今回の呼び出しの真の狙いは何だろうか。お手本を見せろって言われても、うまくないから困る。パソコンなら使いこなしていたが、算盤は何とか使えるレベル……パソコンに例えるならばブラインドタッチはできないで、人差し指打法…つまりは、使い方がわかる程度でしかない。
一度、講師の試験を見たが、あの速度は怖い。私がブラインドタッチで論文を書いていた時よりはるかに速い。いや、頭にあることを入力する作業と一覧表を見ながら弾く速度を比べる意味はない。あれはマシンガン弾きだ。勇者にしか通じないから、決して口には出さない。
とにかく、こんなところに呼び出されても、見本は示せないし、記憶にあったものを劣化再現しただけで訓辞を垂れるほど厚顔無恥でもない。
算盤のここでの名称が加減盤というように加減算しかやり方もわからない。誰かが開発してくれるのを待っている状態である。あ、そうか。もしかして、誰かが乗算のやり方を見つけてくれたのかもしれない。それなら便利だが。
算盤を本格的にやってた人なら色々便利な使い方も知っているだろう。私には加減算の他は背中を掻くくらいしか思い付かない。
もちろん、逆さに置いて足を乗せて、ローラースケートという遊びは思い付かないこともなかった。つまりは思い付いたのだが、全体的な強度とか、接地面の耐久性とか、直進性能が高すぎて曲がれないんじゃないかとか、考えてしまって、一瞬で打ち消した。そもそも、この世界でローラースケートを楽しむような地面や床面を探すのは難しい。ローラーが充分な大きさがあればいいが、算盤の玉程度のサイズでは、路面の石ころだの、石畳の隙間だの、床板の段差だの、突っかかるところはいくらでもある。道路以外の踏み固められていない地面なぞ、算盤の玉が沈んで摩擦係数が跳ね上がるに違いない。もちろん、違ったって一向に問題ない。そんな遊びをするには、算盤は価格が高すぎた。一つ一つがリール商会のお抱えの職人の渾身の作だ。価格もさることながら職人にバレると大変なことになる。職人さんは大切に。
とりあえず、研修室の後方から、じっと眺めた。一人ものすごく速いヤツがいた。座高が高くて目立つ。多分、身長も高いんだろう。ガッツリした体格に見える。もしかしたら、他国のヤツかもしれない。どこだったかには背の高い人たちがいるらしい。とにかく色んな意味で浮きまくっていた。
商業ギルドでは、他国籍でも入ることは可能である。むしろ、貿易の関係で複数の国に跨がってギルドに属する商人は少なくない。ギルドへの上納金より、ギルドの恩恵の方がはるかに大きい。らしい。伝聞だ。ちゃんと規約を見たことはない。王都生まれの王都育ち、ついこの間まで王都から出たことがない私は、どうでもいい規約に興味がなかった。叔母一家は詳しいと思う。でも、父のところは王都にある小さな商店である。仕入れは王都の職人か、リール商会がほとんど。国内取引100%だ。
魔王のおかげで荒れていた時期は国際取引も低迷していたから、その辺に関しては勇者に感謝の言葉の一つや二つくらいあげてもいいかもしれない。言葉かけ一つで経済が回るなら安いもんだ。
「あの人、速いですね。講習何回目ですか?」
隣にいるギルドの職員に背伸びして囁いた。彼女は背が高い。祖先が北の方の国から移住してきたらしい。
『それが初回なんですよ。東の渓谷を通って来た流れ商人で、それまでにやっていたハズのないのに…順応性の高い人なんですかね』
商業ギルドの職員は言葉使いが丁寧だ。私もそれに合わせて下町言葉をなるべく使わないように心掛けている。
若くはないが、順応性が高いなら問題はない。だが考えにくいが、転生者の可能性もある。言動に気をつけなければならないだろう。勇者の時は一人言を突かれて失敗したからな。ってか、アイツ地獄耳。パレードの喧騒の中で私の呟きを拾うなんて。勇者の身体能力って聴力まで底上げするんだな。今となっては食べ物に関しては1km先から容器を開ける音を聞かれても不思議には思わない。むしろ、ヤツならやる。
叔母のとこでは《食欲の勇者》と呼ばれているらしい。王国中に広まるのもそんなに時間はかからないだろう。なにせ、リール商会は国中のあちらこちらに支店や契約店がある。当然、従業員も国中を網羅しているわけで…。うん、《夕焼けの勇者》の方がマシだわ。ご先祖様に感謝したい。待てよ。もしかして、それもこれも《宵闇の賢者》の策略か。自分の色と勇者の色の対比で勇者の七難を隠す算段か。やべ、まじありそう。おまけに色が有名になれば、後日に行方をくらますとして、染めればいいだけだ。特徴のある二人組から、最大の特徴を消せば市井に紛れ込める。
しかしだ。なんで脳筋勇者と結婚するはめになったんだ?逃げれば良かったんじゃ……ちくしょう。私だって逃げられる気がしない。世界の果てのそのまた果ての世界を支える亀の甲羅の上までも追って来そうだ。勇者怖え。
ってか、ここの世界観はどんなだろ。まぁいや、勇者のことは忘れよう。今日はギルドの仕事だ。ギルドの一員である以上、貢献するのが当然だ。将来の夢のためにも頑張ろう。
 




