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そして俺達はなんとかギリギリ学校に到着した。
俺は高等科二年A組の担任で、明治時代に建てられたというだだっ広い校舎をのんびり歩いてホールムールの時間を五分も遅刻してようやく教室に辿り着いた。
進学校というが、生徒達は今どきという感じの連中が多い。さすがに髪を染めるような奴はいないが、それでも、携帯電話をいじったりゲームをしたり、憧れの芸能人の話で盛り上がったりと、まあ、ごく普通の高校生といったところか。
俺が教室に入ると、皆、俺を一斉に見て、慌てて携帯電話やゲームを机の中に隠した。俺は生徒からあんまり好かれていないと思うが、曲がりなりにも教師だから向こうも気を使うんだろう。
俺はボリボリ頭を掻きながら教壇に立ち、遅刻の事は謝らずに出席を取るため出席簿を開いた。その時、妙に視線を感じたのでひょいと顔を上げると……俺の正面の席に座っている、おさげ髪に眼鏡のクラスでも影が薄く地味な少女・月影凜子がなぜか鋭い目つきで俺の事をじっと見つめていた。いや、睨んでいる……のか?
「な、なんだ月影?」
「……いえ」
「……出席、取るぞ。新井……」
「……先生。今朝、保健室の昴先生とキ」
「新井欠席!」
言葉をさえぎるために俺は叫んだ。
新井の出欠なんぞこの際どうでもよかった。
「はあっ? いや俺、いますよっ!」
欠席しているはずの新井の声が聞こえたが気にしない。
「……先生、今朝、昴先生と」
「飯田、出席!」
「先生! 飯田君はお休みです!」
誰かが何か言ったが、気のせいだろう。
「飯島、今井、井上、内田、宇佐美―――欠席!」
「先生! 出席しています!」
飯島が叫んだ気がしたが気のせいだろう。
「……すいません、見間違いのようです」
月影が分厚い眼鏡をクイと押し上げ、ぼそっと呟いた。
「先生、ちゃんと出席とってくださいよ。ホラ委員長もなんか言ってくださいよ」
「……先生、出席はきちんと取ってくださいね」
月影がボソっと注意してくる。
あんなところで堂々とあんなことしたんだ、誰かに見られてたっておかしくはない。これが月影だけならいいが、うわさ好きの女子連中に見られているとしたら……考えるだけでもおそろしい。いや、この場合、俺より織姫の方が最悪なのだろうけど。
「―――つ、月影……凜子……」
俺は動揺のあまり、なぜかフルネームで呼んでしまった。
月影は鋭い目で俺を睨むと、数秒の間をおいてから「……はい」と呟くように返事をした。なんかもう、まだ授業も始まっていないのに、一日働いたような疲労感が体を襲っている。授業なんかボイコットして保健室で寝ていようか、と考えたが、だめだ保健室には織姫がいる。なんとなく今は顔を合わせづらい。向こうは気にもしていないのかもしれないが。
俺は頭の中でグルグル考えながら、もう一度、月影凜子を見た。
なんなんだ。何故、分厚い眼鏡の向こうから、そんな鋭い目で俺を見て来るんだ。一体なにを企んでいる。
まあいい、とりあえず職員室に戻ろう。
俺は出席簿を閉じると、そそくさと教室を出た。
昼休み―――
俺は織姫の手作り弁当を持って屋上に向かっていた。
いつもコンビニ弁当の俺が手作り弁当、しかも、中身が織姫と全く同じなんて気づかれたら面倒だからだ。まあ、俺の弁当の中身を気にするような奴はいないだろうけどな。
立ち入り禁止の札が建てられた階段を上って屋上に出ると、さっそく弁当を広げて食べ始めた。ほうれん草のあえ物にだし巻き卵にタコさんウィンナーにミートボールにから揚げに、四つ切にしたミニトマト……ついでとはいえ俺の分までこんな凝ったことしてくれたのか、そう思うと少しだけ嬉しい気もする。まあ、絶対にその気持ちを口になんかしてやらないがな。
「ったく、アイツも物好きだよな。世話好きっつーか……普通、こんなオッサンの面倒みようと思うか?」
上手に形作られたタコさんウィンナーを箸で掴み、なんとなく空に掲げて眺めてみる。
もしかして冷凍か? と思ったが、そういえば、朝食のパンを食べている時に織姫が「お弁当のウインナー、余ったからこれも食べましょう。賞味期限、今日までなんですよ」と話していたのを思い出した。やっぱり手作りなんだな。
なんか、改めて実感してみると、妙に胸がくすぐったく感じる。
もちろん、感謝の言葉も弁当の感想も口にしてやる気はさらさらないがな。
「ふん。不味くはねぇよ」
俺はコンビニ弁当とはまるで味の違う、生まれて初めての手作り弁当を、仕方なく食べてやった。ご飯粒ひとつでも残したら文句言われそうなんで、仕方なく、全部食ってやった。まあ、不味くはないからな。
俺は弁当箱を空にすると、そろそろ職員室に戻ろうと立ち上がった。
が―――心臓が、また、ドクンと大きく脈打った。
やばい。やばい。やばい。これはやばい……また発作だ。
どうする? このままここに身をひそめ、織姫に助けを求めるか?
いや。俺アイツのケータイの番号なんか知らないぞ。つまり、ここで子供に戻ったらいっかんの終わりってことだ。
体が子供に戻ってしまう前に、なんとしてでも保健室に辿り着かなければならない。
俺は弁当箱を引っ掴むと、全速力で保健室に向かって走り出した。
そして保健室。
俺は扉を開け放ち、全身から汗を噴出させ洗い呼吸を繰り返しながら、力尽きるように床に転がった。
「先生! どうしました、まさかまた子供にっ……」
「そ、それ以外の何がある……」
体が燃えるように熱く、心臓は今にも飛び出しそうなくらい激しく脈を打つ。
このまま子供に戻ることもなく死ぬんじゃないか、そう思うくらい苦しい。
「わ、わかりました。じゃあ、失礼します」
織姫に肩を貸してもらってなんとか床に座ると、俺は苦しみから逃れたいがために自ら織姫の唇に唇を重ね―――ようとした時だった。
「……すいません、失礼します」
誰かが扉をノックした。
俺は唇が触れる寸前に思いっきり織姫を突き飛ばし、ベッドに転がり込んでカーテンを閉め切った。子供に戻らなくても、全身から汗を拭きだしながら織姫の唇を奪うオッサンなんてただの変態だ。いや、犯罪者だ。懲戒免職ものだ。
なんて考えているうちに、俺の体はすっかり子供に戻ってしまうのだった。
いったい誰だ、俺の邪魔をしたのは。
俺は苛立ちながら、そっとカーテンの隙間から邪魔者の姿を確認した。
……月影凜子だ。
「あ、あら。月影さん、どうかした?」
織姫は誤魔化すように笑いながら慌てて立ち上がる。
「……今日は先生に少し相談があります」
「相談? いいわよ、なにかしら」
さすが保健室の先生だ。
優しく穏やかで落ち着きのある大人の表情で対応している。
ていうかコイツ俺の時と態度が違う気がするんだが。子供相手だとお姉さんぶりたくなるもんあんだろうか。まあ、どうでもいいけどよ。
それより月影は一体なんの相談なんだ。人の話を盗み聞きするのはどうかと思ったが、誰がいるかもしれないこんな場所で話をする方が悪いんだからしかたない。ということにして、俺は暇つぶしに月影の話をうっかり聞いてしまうことにした。
「実は……」
緊張した声で月影が話を始める。
まさか妊娠したとかじゃないだろうな。
月影に限ってまさか、とは思うが大人しい奴の方が意外とそういうことがあったりするから世の中恐ろしい。そういえば何年か前にどっかのクラスで影の薄いクラス委員長が妊娠して、その相手がまだ若い担任の教師だったって話を思い出した。しかもその教師はその後、その生徒を捨てて婚約者と一緒に北海道の実家に逃げたってオチもある。もちろん婚約者との結婚の話もなくなり、今は、どうしているかわからない。
「実は、私……」
月影は膝の上で拳を固く握り、小刻みに震えながら必死に言葉を続けようとしている。
それを織姫は真剣な表情で聞いている。
一体、なにを話すつもりだ?
ていうか盗み聞きなんかしていいレベルの話なのか?
一体アイツは何を――――
「私、ご当地アイドルになりたいんです!」
「って、えっ……えええええええええええっ?」
織姫は驚き思わず立ち上がる。俺も声を上げそうになったが慌てて口を押えた。
「お願いです先生! 先生、美人だし……だから、あの……私をきれいにしてくださいっ」
「え、ちょっ……ちょっとまってっ? えっと、急にどうしたのかな。どうして急にローカルアイドルに……えと、確かに最近みんなオーディションの話でもちきりだけど」
でもまさか、貴方がご当地アイドルなんて―――と続けそうになるのを必死に堪えてなんとか理由を聞きだそうとする織姫が少し可哀想に見える。
「理由は、特にありません」
「特にないって。でも、何か理由があるからやってみたいと思ったんでしょう?」
「……先生」
「うん。なにかな?」
「……今朝、天野先生とキスしてましたよね」
素早くスマホを取り出し、バッチリ撮影されてしまった俺らの恥ずかしい画像を織姫に突き付ける。って、脅しじゃねえか……
織姫は真っ赤な顔して悲鳴を上げ、慌ててスマホを奪おうとするが避けられてしまう。
「……こんなこと、本当はしたくありません。ですが、首を縦に振ってくれないのなら私は」
「わ、わかった! わかったから、お願いだからそれ他の人には見せないでっ? そ、そういうのはやっぱり人に見せるべきじゃないと思うのっ」
顔を真っ赤にした織姫が必死に叫ぶ。
見せるべきじゃないとかそういう問題じゃない、生徒が教師を脅すってとこが問題なんだと思うんだが。まあ織姫も混乱しているんだろう。俺も実をいうと、悪夢を見ているような気分なのだ。
子供に戻ったこともこの件も、全部悪い夢ならどんなに嬉しいことか。
俺はそう願ったが、現実はなにも変わってはくれない。
「安心してください。あの北斗駅はオフィス街なので利用するのは通勤客だけですし。時間帯も遅かったですし、たぶん、私しか二人の姿は見ていないでしょう」
くそまじめな顔をしながら淡々と話す月島。
お前ご当地アイドル願望を告白する時あんなに勇気振り絞ってたくせに、なに脅す時だけ堂々としてんだよ……ある意味怖いぞ。と言ってやりたかったが、この子供の姿のまま月影の前に出られるわけもなく、俺は泣く泣く言葉を飲み込んだ。