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月影と別れた後、俺はいつものように織姫にキスしてもらい、大人に戻った。誰か来はしないかとヒヤヒヤしながら大急ぎで服を着たが、幸い、誰の足音もしなかった。
「月影さん、なんだか少し大人っぽくなった気がしますね」
廊下を歩きながら、少し嬉しそうに織姫がそう言った。
大人っぽく。
確かに、そうだ。少し前までのアイツは下を向いてばかりだった。けど今は、堂々と胸を張り前を向いている。きっかけは全て、兄・月影凜太郎に会うため。文句を言うため。だけど、それだけが理由で変わったわけじゃない。全部、自分がそうしたいと決めたからだ。このオーディションだって。歌の練習だって、織姫に頭を下げたのだって。いや頭は下げてなかったか……とにかく、アイツは自分で選んだんだ。自分で選んで、自分でここまで来たんだ。
「アイツは凄いよな」
「応援、しましょう。たくさん、いっぱい!」
小さくガッツポーズをする織姫。
俺にできることは、しっかりと、アイツの勇姿を見届けること。
それしか今はできないが、大事なことだ。
「さ、早く行きましょう」
と織姫が俺の手を取り、走り出した。
それから、席に戻ると、先に座っていた月影の親父さんが慌てて立ち上がり深々頭を下げたので、俺もつい丁寧に頭を下げてしまった。
「これはこれは、どうも! この度は娘がお世話になりまして!」
「あー、そんな水飲み鳥みたいにぺこぺこ頭下げなくてもいーですよ。俺は何もしてない、頑張ったのは娘さんなんですから」
「そうですよ、今は座って見守りましょう」
「ありがとうございます……」
あんまり感謝されるのは得意じゃない。
正直、そんなに感謝されるようなことをしたとは思っていないし、さっきも言った通り月影がここまで来れたのはアイツ自身の頑張りのお陰なのだろうから。アイツ自身が諦めてしまっていたら、俺達の説得を聞くこともなく逃げ出していたら、アイツはここにいなかっただろう。
「やっぱり、みんな可愛いですねえ」
ステージで踊ったり歌ったり自分をアピールする出場者を見ながら、感心したように織姫が言う。
「そうかあ? 大人ぶってるだけのガキにしか見えねーけどなあ」
「ちょっと羨ましいですけどね」
「お前がか?」
「はい。だって高校生の時なんて私」
と言いかけて、慌てて口をつぐむ。
なんだ? なにか言いかけた気がするが……
「な、なんでもないです! それより月影さんまだですかねっ」
「怪しいな」
「な、ななななんでもないですっ」
「お前の高校の頃なんて、相当モテたんじゃねーのか?」
こんだけ美人でプロポーションも抜群、モテないはずがない。
そう、こんだけ美人で―――……
「……ん?」
少し俯いた織姫の横顔。
気のせいか、遠い昔、どこかで見たような気がする。
「なあ、お前、この学校に来る前に俺と会ったこと―――」
「な! ななな、ない、ですっ!」
「おい、声デカいぞ」
慌てて口に人差し指を当てて、「しっ!」と子供にするみたいなことをしてしまった。
「あ、すすすすいませんっ」
「お前、なんか隠してねーか?」
「隠し事なんてありませんよ、本当にっ」
そう言ってパっと顔をそらすが、それがますます以て怪しい。
まあ、話したくないなら別にいいんだけどよ。そこまで詮索する理由はないし、相手だって、俺なんかにいちいち秘密を話さなきゃいけない義理もないはずだ。あんまり気にしないでおくか。
「あ、次、月影さんですよっ」
「マジか」
慌ててステージを見ると、今まで得意のダンスを披露していた出場者がウインクしつつ投げキッスしながら袖に消えて行くところだった。なんか、ああいう方がスターの素質があっていいのかもなあ、なんて、ついつい思ってしまった。
「次は、最後となりますエントリーナンバー20番、月影凜子さんです!」
司会者が明るく紹介をして、会場からまばらな拍手が聞こえる。
なんか、こっちまで緊張してきた。
グっと拳を握り、親父さんと織姫と俺は、思わず身を乗り出した。
「それでは月影凜子さん、まずは自己PRをお願いします!」
司会者がテンション高くそう言うと、月影は、相変わらず無表情でスっと一歩前に出た。
「……私は、ある人に会うためにここに来ました」
そう言う月影の目は冷たく、感情がない。
底冷えする程に冷たいその眼差しに、思わず背筋がぞっとする。今まで努力してきたのも知っているし、睦月京介―――月影凜太郎に対する憎しみがどれだけなのかも俺は知っている。だからこそその眼差しが当然なのだと思う。だが観客は、違う。ついさっきまで初々しい女子高生達を温かい眼差しで見守っていた観客たちが、その眼差しひとつで凍り付いたのだ。ざわめきも動揺もなく、会場はまさに静寂に包まれてしまった。ステージ上の月影だけが一人、まるで会場の支配者になったかのような異様なオーラを放っている。
ここがオーディション会場だということも忘れ、思わず固唾を飲む。
「母が亡くなり悲しみに暮れる私達を捨て貴方は出て行った。理由も告げずに。一度も連絡を寄越さないばかりか連絡手段を断ち一方的に家族と決別した貴方は私の中に憎しみと深い悲しみだけを残した。なのに。なのに。なのに……テレビを付ければ貴方が笑っている。街を歩けば広告の中で貴方が笑っている。学校に行けば、教室に行けば、誰もが貴方の話題をしている。私を、家族を捨てたことも知らずに……」
今にも握りつぶさんばかりにマイクをきつく握りしめ、わなわなと震える月影。
司会者も月影を止めようとして彼女に近づこうとするが、その迫力に恐れてか近づけずにいる。見ていて気の毒になる。
「お、おい。なんか怖いんだが」
「本当ですね。もう、お兄さんのこと呪い殺しちゃいそうな勢いです」
織姫は青い顔をしてガタガタ震えながら、俺の腕にしがみ付く。
こんなにも自分の兄を恨んでいるなんて、親父さんは知っていたのだろうか。
何気なく、俺は親父さんを見た。
そこには、驚きとも哀しみともとれる表情で目を伏せる親父さんの姿があった。
たぶん、気付いてはいたのだろう。けれど、それを今まで直接聞いたことはなかったのだろう。俺には親もいないし兄弟もいないが、自分の子供が実の兄弟にあんな目をして恨み節を口にする姿を目の当たりにするなんて、辛いのかもしれない。なんとなくその顔を見ているのが辛くなり、月影に視線を戻す。
すると。
「それでは歌います。『地獄の藁人形』……」
そんな歌聴いたことないぞ―――と思っていると、なんだか一瞬にして会場中の空気をどんよりとさせるような、耳にしただけで気持ちが鬱々として、吐き気すらしそうな、どんよりとした前奏が流れ始めた。演歌だ。しかも、相当、陰鬱とした曲に違いない。
「お、おいこれは……」
「ど、どこで手に入れたんでしょうこんな曲……まさか、自作でしょうか……」
コンコン……
コーン……コーン……
陰鬱とした前奏。会場に響く五寸釘の音色……
思わず吐き気を催し口を押える。
織姫も親父さんも、同じく口を押えている。よく見ると他の客も全員、口を押さえて蹲っている。なんか変な電波でも仕込んでんじゃないだろうな、と思うぐらいには酷い陰鬱さだ。本当にどこからこんな曲を仕入れたんだ。
恨みます……恨みます……
呪います……呪います……
貴方の髪を一本そっと 束ねた藁に仕込みます
この人型は そう 貴方
私を捨てた そう 貴方
この毛髪は そう 貴方
腹を裂き 臓物 ぶちまけ 笑いたい
生爪を 剥いで苦しむ 貴方を見たい
苦しめばいい
その想い この藁人形に込めまして
闇にまぎれて いざ打たん……
コーン……コーン……
私を捨てた そのことを 後悔すれば いいのです
コーン……コーン……
コン……コン……
闇にまぎれて 貴方の事を想います
コン……コン……コーン……
貴方だけ 幸せなんて 許さない
藁人形 藁人形 もう ずたぼろよ
コン…コン…コン…
コン…コン……コン…
闇に響く 私の想い
届け 貴方の その胸に
意外なことに、歌声だけは天使の声みたいに透き通って美しい。なのに、なのに、肝心の曲が、歌詞が、一体全体本当にどうしてどこで手に入れたんだと聞きたくなるレベルの最悪なもので……さっきまで月影の眼差しに凍り付き静まり返っていた観客は、今は彼女の得体の知れない呪いの歌で精神的大ダメージを受け、どんよりと暗い顔で項垂れてしまっている。
「き、聴きたくない……もう聴きたくない……」
思わず耳を塞ぐ。
会場中を鬱々とした空気が支配している。
あの歌をずっと聴いていたら、一生もう明るい気持ちを取り戻せなくなるのではないか―――そんな不安と恐怖を感じる。誰か、誰か止めてくれ……
「凜子、もういい! やめるんだ!」
呪いの儀式かのような曲を遮り会場に響き渡る親父さんの声。月影も思わず歌うのを止め、こちらに顔を向ける。と、ようやく、曲が止まり、会場のそこかしこで観客が苦しげに呻く声が聞こえてきた。本当に変な電波でも入ってたんじゃないだろうな……




