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「親子、ってのはよくわからないもんだよな」

 日の暮れかかった街の中を歩きながら、思わずぽつりと漏らした。

 織姫はくすっと笑い、

「単純で複雑、それが親子なのかもしれませんね」

「お前はどうなんだ? お前の家は両親と仲いいのか? って、聞くまでもないか。すごい大切に育てられたんだろうな」

 俺はそう思った。

 複雑な家庭に生まれ育って、こんな純粋で包容力のある人間が育つはずがない。月影の家で織姫が親父さんに言った言葉は全部、温かな家庭で大切に育てられたからこそのものかもしれないと、俺は思うのだ。

 だが、織姫は突然足を止めた。

「どうした? 腹でも痛いのか?」

「いえ」

「わ、悪い。そうだよな、人それぞれ家の事情あるもんな」

「仲は、いいですよ」

 そう言ったかと思うと、織姫は、急に俺の腕にしがみ付いてきた。

「うわ、なんだっ? おい誰かに見られたらっ」

「先生って、その……む、胸の大きい女の人が好きなんですか?」

「は!? いや、そんな話ししてねーだろ今!? どしたんだよ急に」

「な、なんでもありません! と、とにかく! 両親とは仲がいいです! お盆には帰ります!」

「お、おお。そうか……」

「それより何か食べて帰りましょう?」

「そうだな。今日はなに食う?」

「フランス料理」

「給料日前だ」

「じゃあ、また居酒屋で」

 織姫は、楽しそうにふふっと笑った。

「……いや、酒はやめとこう、今日は」

 つい昨日のことを思い出し、赤面する。

 酒に酔った勢いで恋人でもない女の胸にしがみついて寝たんだ。しばらく酒はやめとこう。うん、やめとこう。

「そうですか? んー、それじゃあ……あ、じゃあ今晩は先生の大好物を作ってあげます」

「なんだよそりゃ。食べて帰るんじゃないのかよ」

「頑張ったご褒美、です」

「頑張ったのは俺じゃないだろ、月影だよ」

「先生も、充分頑張っていますよ。先生、なにが食べたいですか?」

「ガッツリしたもんが食べたい。カツ丼とか」

「わかりました。それじゃ、今夜はカツ丼ですね」

「ああ、頼む」

「あ、それと」

 と織姫が少しだけ背伸びをしたので俺は少し身を屈めた。

「あとで、ご褒美にぎゅうってしてあげますね?」

「なっ……おおおお前なっ」

「先生、お顔真っ赤ですよ?」

 織姫がくすくす笑う。

 完璧にからかわれた。

 なんかそれがすごく悔しい。

 と俺が悔しがっていると、

「さ、帰りましょう?」

 また腕を組み、強引に俺をひっぱて歩き出した。

 本当に、なんでコイツは俺に優しくしてくれるんだろう。コイツの年齢からしてみれば俺なんかただの小汚いオッサンなんじゃないのか。それとも子供の姿がそんなに気に入ったのだろうか。

 まあ、考えても仕方がない。

 



 そうして月曜になり。月影はいつも通り登校してきた。

 クラスの連中は月影のことをコソコソと噂したが、本人は全く気にしていない様子だった。いつも通り自分の席で本を読み、授業を受けて、そして放課後は織姫によるメイクレッスン。尾之上達は一週間経って学校に登校してきたが、月影と真逆に本人達は居心地悪そうだった。そりゃあそうだ、あの騒ぎを知らない人間は、このクラスにはいないだろう。月影は言いふらしたりしないが、尾之上の取り巻きというか友人と言うか、顔色を窺いつつ嫌われないようにとご機嫌を取ってた連中が話を広めて行ったのだ。

 それで一番厄介なのが、尾之上達に勢力がなくなったと知った一部の女子が三人にこそこそこ嫌がらせをし始めたことだ。誹謗中傷、悪口、下駄箱に画びょうという古典的なものまで、手口は様々あった。

 で、織姫と月影とで放課後、下駄箱付近で張り込みをして、その犯人を現行犯で逮捕した。逮捕と言っても警察に突き出したわけじゃない、指導室に連れてって説教しただけだ。

「なんで月影さんが怒ってるのよ、自分だって被害者の癖に! いい子ぶってる!」

 と、相手側の主張に対し月影は

「私は別に怒ってないわ。あの子達のしたことは確かに最低よ、責められても仕方がないと思うわ。でもね、貴方達、あの子と同じくらい……いえ、あの子達以上に姑息で汚い真似してるのよ。今まで文句も言えなかったくせにちょっと相手の立場が悪くなった途端に手の平返して相手をこそこそイジメはじめる。醜いったらありゃしない」

 相手を軽蔑しきった絶対零度の眼差しで、更に無表情でそう言った。

 その月影の顔は、見ているだけでもゾっとした。

 で、もちろん相手の女子達も半泣きで凍り付いた。

「な、なによ! 仕方ないじゃない、尾之上に逆らったら逆にこっちがイジメられるんだもの!」

「気持ちはわからなくもないけれど。けれど、それはあの子達をイジメる理由にはならないわ。あの子達の立場が悪くなったのなら、それで放っておけばいいだけの話よ。どんな言い訳をしたって、あなた達が卑怯者であることに変わりはないわ。これ以上みっともない姿をさらしたくないのなら、大人しくすることね」

 絶対零度の眼差しを相手に向けたまま、月影はスっと立ち上がる。

 俺も教師として一言なにか言うべきかと思ったが、もう、俺の出番は完全に失われていた。薄々気づいてはいたが、やっぱり月影は敵にまわすと怖い人間だな。

 ―――で、それで懲りたのか月影が恐ろしすぎたからなのか、誰も尾之上達のことをいじめることはなくなった。それでも前のような力関係は戻らず、尾之上達三人はクラスから浮きまくってしまっていた。

 そんなのも含めて俺の仕事は山積みだったが、オーディションまでの一ヶ月間、俺達は必死に頑張った。

 オーディション用をあーでもないこーでもないと言いながら選び、織姫の家でメイクを練習し、時には泊まり込みでウォーキングの練習をし……俺は何度か子供に戻ったり戻りかけたりして……書類選考、一次審査を突破し、二次審査も突破……とうとう最終選考まで残った。

 残り、全部で十名。

 尾之上三人組の内、残ったのは尾之上だけだった。クラスメイトも何人か受けたらしいが、のきなみ不合格になっていた。




「いよいよ明日ですね!」

 最後の特訓―――というか練習というか、それが終わった後、俺達三人は織姫宅で晩御飯を食べた。月影は本日ここに泊まることになっていて、既に風呂に入り終わってパジャマ姿でエビフライを頬張っている。いつもは二人で使っている小さな丸いローテーブルに月影と織姫の食事が並べられ、俺の分は別の小さなテーブルを並べて置かれている。

「なんだか私までどきどきしてきちゃいました」

 織姫が胸に手を当てて、肩を竦める。

「俺達が緊張してどーすんだよ」

「だって。月影さんがこの一ヶ月ずっと努力してたの見てきましたし」

「……努力することができたのは昴先生と天野先生がいたからです」

 ぼそっと、月影が言う。

「ううん。月影さんが勇気を出して相談してくれたから、協力することができたのよ。私、月影さんに協力できて嬉しい」

「……ありがとう、ございます」

 と、ちょっと頬を赤らめ照れくさそうについと視線を逸らす月影。

 コイツもだいぶ素直になった気がする。

 織姫は勇気を出して相談してくれたなんて言うが、コイツは俺達を脅迫してきたんだ。

 その頃のことを考えると、素直に人に頭を下げたり礼を言えるようになったと思う。それにこの一ヶ月、一度だって弱音を吐かなかった。睦月京介に会う、そのためだけに慣れないメイクを練習し、興味もないファッション誌を織姫に山のように渡されファッションの勉強をしたりもしていた。もちろん体型を引き締めるためにエクササイズだかなんだか織姫と一緒に部屋でやっていた。俺はソファに横になって煎餅食いつつそれを眺めていた。正直言って、良い眺めだった。動きやすいようにホットパンツとタンクトップという姿で汗を掻きながらエクササイズをして、動くたびに胸が揺れて形のいい尻が強調されるのだ。

 いや、まあ、その話はどうでもいい。

 食事が終わると織姫は風呂に行き、月影はベッドでファッション雑誌を読んでいた。

 俺はすることもないのでベランダに出て久々に煙草を吸いつつぼんやり空を眺めていた。別に星が見えるわけじゃない。ただ月がぽっかり浮かんでいるだけだ。面白味もクソもない空だ。

「先生、蚊に刺されますよ」

 月影がベランダに出てきた。

「あん? 早く寝ろよ、夜更かしは美肌の大敵だって織姫が言ってただろ。俺にゃあよくわからんけど」

「まだ九時です。それに、今日は少し緊張して眠れそうにありません」

 と俺の隣に立ち、空を見上げる。

「大丈夫だろ、お前、クラスどころか全校生徒の中で一番美人だと思うぜ? 普段からおさげ髪と眼鏡やめりゃいいのに」

「いいんです。私はその方がいいんです」

「そうか? ならいいけど」

 ちなみに月影は今、おさげを解いて眼鏡も掛けていない。

 まつ毛は長いし鼻も形が良くて、唇なんか薄桃色でぷりっとしていて、まるで人形みたいだ。これを眼鏡とおさげで隠しているなんて、正直、ちょっと勿体ないと思う。

「けど、お前って本当、美人だよな」

「褒めてもなにもでませんよ」

「別になんも期待してねーよ……」

「写真」

「あ?」

「写真、消しておきましたから」

「写真って、例の写真か。お前が脅しに使った」

「……本当は、あんな真似したくなかったんですけどね。普通に頭を下げても一人を贔屓なんてできないと言われそうだったので」

「だからってな」

「ごめんなさい。もう二度としません」

「織姫は―――あんな真似しなくたってきちんと話を聞いてくれただろうよ」

「ええ。今ならそう思います」

「そっか」

 なんとなく。俺は少しだけ、満足していた。

月影は何も言わない。俺も何も言わない。

 空に浮かぶ月を二人で意味もなく眺めていただけだった。

 それでも最初の頃のような気まずさは、もうない。そこにいたいからいるだけ、そんなことお互いにわかっていて、だから、この空間もそんなに苦痛には思わなくなっていた。お互いに気を使うこともないし、無理に会話をしようなんて思わない。いつの間にか、沈黙が恐くなくなっていた。

 と月影が小さく欠伸をする。

「眠いのか」

「暇過ぎて」

「だったらとっとと寝な、虫に食われるぞ」

「ええ」

 小さく返事をし、月影は部屋に戻った。

 俺はまた一人になり、ぼんやり月を眺めた。



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