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「おーい、入るぞ」

 月影の部屋をノックし、開いた扉からひょっこり顔を出してみた。

 ベッドの上で本を読んでいた月影は、冷めた目で俺を見ると

「もう入ってるじゃないですか。なんのためのノックですか」

「足は入ってねーから大丈夫だろ」

「アウトです」

「細かいこと気にすんなって。ほら、土産。フルーツパフェプリン」

「フルパプリン、ですか」

「こういうの嫌いか? 織姫が今女子高生の間で流行ってるから買って行こうってはしゃいでたが」

「それ、昴先生が食べたかっただけなんじゃ。そういえば昴先生は」

「ああ、ちょっとトイレだってよ」

 部屋に入って丸いローテーブルの上でプリンを取り出す。

 とろ~りプリンの上に生クリームとケーキスポンジとフルーツとチョコチップがふんだんに知らわれたそれは、俺にとっては視界の暴力でしかない。見ただけで胸やけがする。

「ほらよ、食え。食って元気になれ。って、起き上がれるか?」

「大丈夫ですよ、立って歩けますし。別に寝てなくても平気なんですけれど、父が心配するので」

「ああ、そうか。あの親父さん、意外と心配性だよな」

「……弱いんですよ」

「……嫌いか?」

「別に」

 一言そう言って俺からプリンを受け取ると、一口、生クリームを口にする。

「……父に色々言いたいことはありました。でも、なんか、泣きそうな顔して病室に飛び込んできた父の顔を見たらそんなの全部どうでもいいことに思えて。そんな顔をするくらいならもっと早く向き合ってくれればよかったのに、とは思ったけど。もしかしたら私、嬉しかったのかも知れない。あんなに心配してくれたことが」

「だろうな。親に心配してもらえるって、幸せなことだと思うよ」

「先生も、その歳でもやっぱり心配されると嬉しいもんなんですか」

「さあ? 俺は親なんていないからな」

 月影のベッドの横にあるチェストにもたれ掛って座り、自分用に買ってきたコーヒーゼリーを食べる。少し苦くて、でも甘い、俺にはちょうどいい味だ。

「いない、ですか?」

「棄てられた。父親のことは知らんが、母親は男のために俺を棄ててったよ。だから一度だって親の愛情なんて感じて育ったことはない。けど、やっぱり、親に心配されるって幸福なことなんだろうなとは思うよ。甘やかされたいだろ、辛い時は」

「先生って、甘ったれなんですね」

「なんでそうなるんだよ、別に甘ったれじゃねーだろ」

「そうですか?」

「お前は、違うのか」

「……同じかもしれません」

「なんだそりゃ」

「けど、そんなこと恥ずかしげもなく堂々と言いません」

「べ、別に俺が甘やかされたいとかそういうことじゃねーぞ?」

「そうですか? 子供の体を利用して昴先生に甘えたりしてるんじゃないですか」

 思わずコーヒーゼリーを噴き出した。

「なっ……んなことするかよっ」

「冗談ですよ」

「お前な……」

 とは言ったものの、よく考えたら子供の体に限らず最近少しアイツに甘え過ぎかもしれない。発作が起きる度に唇を貸してもらっているわけだが、そのせいか、二人の距離間というか、関係が少し妙な形になっている気がする。俺達はもともとただの同僚で、それ以上の関係でも、以下の関係でもなかったはずだ。なのに最近、どうも、二人の間にあった超えることなんてありえなかったはずの境界線にどっちもが無意識に足を置いてしまっている気がする。

 これ以上、あんまり一緒にいるのもよくない気がする。

 とはいえ、今朝のあの織姫の様子を見るに、今度俺がそんなことを言えば泣きじゃくるんじゃないかという不安もある。たぶんアイツも一人暮らしが長いせいで、せっかくできた同居人と別れるのが寂しくなっているんだろう。

 近いうちに、もう一度きちんと自分達の関係を考え直さなきゃならないかもな。

 なんてことを考えていたら、

「そういえば。先生はどうして、昴先生のことを名前で呼んでるんですか?」

「あ? あー、なんでって。それは」

 なんでだったか?

 俺は少し首を捻って考えた。

「って、別になんでもいいだろ。なんだよ急に」

「いえ。お付き合いしているのかなと」

「してねーよっっ! ただの同僚だ」

「そうですか」

「別にアイツの話はいいだろ。なんだよ、急に」

「……さあ。なんででしょうか」

「はあ? わけわかんねーな。それより空の容器ゴミ箱に捨てていいか?」

「どうぞ。ついでに私のもお願いします」

「へいへい、お嬢様」

 ひょいと立ち上がり、月影から空の容器を受け取る。

 そして、歩き出そうとした時。

 久々に、アレが来た。

 心臓がドクンと大きく脈打ち、体が燃えるように熱くなって全身から汗が噴き出す。

 熱い―――体が、変化しようとしている。

「先生、どうかしましたか?」

「っ……あっ……ほ、発作が……!」

 苦しさのあまり容器を床に落っことし、膝から崩れ落ちる。

 立ち上がろうとするのに足に力が入らない。

 このままじゃ、子供に戻ってしまう。

 今はまだいい。だがもしこの部屋に親父さんが来たら? 素っ裸の子供がいたら? どう説明すりゃいい。

 つーか織姫、いつまでトイレしてんだよっ?

「あの、先生」

「つ、月影。どっか、どっかかくまってくれ―――親父さんに見つかったら面倒なことに」

 必死にベッドにしがみ付き、なんとか上半身を月影に近づける。

 こんな状態を見られても、死亡確定だろう。汗だくでハァハァ言いながら娘のベッドに縋りつくオッサン教師なんて。

 と―――月影が、ベッドからでて俺に顔を近づけてくる。

「……私でよろしければ、お手伝いしますが」

「……は?」

「……発作を治めて―――」

 と、そこまで言いかけた時だった。

「すいません、先生。ちょっとお父様と立ち話しちゃいまして」

「凜子、調子はどうだ? 何か持ってこようか?」

 織姫と親父さんが笑顔で登場した。

 瞬間・織姫は親父さんの顔を鷲掴みにして目を塞ぎ、そのまま無言で力任せに廊下に押し出し壁に押し付けた。物凄い勢いで体をぶつけたのだろう、もの凄い音がしたが、俺は心の中で「織姫でかした!」と親指を立てた。

「あ、あらあらららら! すいません、ええと、ハエが! ハエがおりましたんですの! ちょっと潰してきますね! おほほほほほ」

 なんか不自然な敬語でごまかし、部屋に飛び込み壊れそうな勢いで扉を閉じると光の速さで俺に駆け寄り首根っこを掴むと無理やり首を捻って顔を向かせ、唇を重ねた。いつもはもう少し恥じらいのあるキスだが、今回ばかりはかなり強引で、乱暴だ。が、おかげで体からゆっくりと熱が抜けて行った。

「っぷはあ! すいません、強引に」

「い、いや。別にいいんだけどよ」

 まあ、こういう強引なのも悪くないかな。

 と

「月影さん、ごめんね? でも、無理しなくても大丈夫だからね。女の子のファーストキスは、一生の思い出なんだから」

「……ええ。無理はしないわ」

 そう言って月影はベッドの中に戻って行った。

「おい、それより親父さんは……」

「ああああああああ! そそそそうでした!」

 織姫は慌てて部屋の扉を開けた。

 親父さんは壁にもたれ掛ってぐったり座り込んでいた。

 どうやら気を失っているようだが、大丈夫だろうか。

「きゃあああ! すすすすいません、大丈夫ですか!? 救急車、救急車!」

 と織姫がパニックになっていると、

「は! す、すいません。ええとハエでしたか?」

 親父さんが目を覚まし、きょろきょろと辺りを見回した。

「大丈夫よ、父は意外と丈夫だもの」

「な、ならいいんだけどよ……壁、へこんでないか?」

 そう。親父さんが押し付けられた壁は、人型に少しへこんでいた。

 だが親父さんはすぐに立ち上がり、

「ああ、凜子! だめじゃないか、起きたりして。ほらちゃんと寝てなさい」

「だから、私は大丈夫よ」

「だが」

「お父さんは勝手よ。今まで顔も合わそうとしなかったくせに」

 月影はプイと背中を向ける。

「凜子……」

「私は大丈夫よ、月曜には学校に行けるから」

「そうか。じゃあ、今日はゆっくり休んでなさい」

「お父さん、お腹がすいたわ。後でプリン持ってきて」

「あん? オメーさっき食ったじゃねーか」

 と俺が言いきらない内に、織姫がぎゅうううっと俺のケツを抓って来た。

 めちゃくちゃ痛い。

「いぃいっ! なにすんっ……!」

 が、口を塞がれてしまった。

「いいから、静かに」

 織姫は耳元でそう言った。

 なので俺は仕方なくそれに従い、黙って月影と親父さんの方を見た。

「ああ、わかった。じゃあ後で持ってきてあげるよ」

「やっぱりいらない」

「ええ? じゃあなにが欲しいんだ?」

「なにもいらないわ」

「そうなのか?」

「ええ。なにもいらない」

「そうか。じゃあ、なにか欲しいものがあったらまた」

「なにもいらないのよ。ごめんなさい、少し眠るわ」

「そ、そうか? わかったよ、それじゃあゆっくりおやすみ」

「ええ、そうするわ」

 気のせいか、なんか拗ねてるように思える。

 親父さんは優しい笑顔を見せているが、困っているようにも見える。

 そして織姫は何故か、優しい笑顔で二人を見守っている。

 なんか、よくわからない……



「今日はどうもわざわざありがとうございました」

 親父さんはご丁寧に家の外まで見送りに出てきてくれた。

 月影の部屋を見上げると、窓からじっとこっちを見下ろしていた。

「あの。月影さん」

 と、織姫が優しく声を掛けた。

「はい、なんでしょう」

「凜子ちゃん、たぶん、なにもいらないと思いますよ?」

「え……」

「ただ、純粋に、親子でありたいんだと思います。我がままを言ったり、怒られたり。きっと、それが一番嬉しいんだと思います」

 そう言うと、織姫はパっと俺の手を掴んで走り出した。

 振り向くと、親父さんが深々と頭を下げていた。


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