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 今日は土曜日だ。

 土曜日、といっても教師は休みじゃない。

 持ち帰った事務仕事を山のようにこなさなきゃならないんだが、普段から仕事を溜めがちな俺はこの日も朝から大量の書類を目の前にしてため息を吐き出していた。その量と言ったら寝室の丸テーブルを埋め尽くすほどで、更に、教材やら資料やらを床に置いたら部屋が大変なことになった。

 が、本日は月影の家へ向かうことになっている。

 親父さんも今日は休みを取って娘を病院に迎えに行くと言っていたので、俺達は昼過ぎに家に伺うことになっている。というわけで、それまでにできるだけ二人で事務仕事をこなそうというわけなのだが―――終わらない。終わる気配はない。

「いっそ月影にも手伝わせるか?」

「なに言ってるんですか。って、もう十二時ですよ! そろそろ支度しないと」

「マジか。じゃあ続きは帰ってからだな。来週は抜き打ちテストもする予定だし、それも作らなきゃなんねーし子供に戻りてえよもう……」

「あ。お薬、ちゃんと保管してありますから。いつでも戻れますよ?」

「体だけ戻ったって仕方ないだろ、っつか捨てろあんなもんっ」

「いつか何かの役に立つかなと思いまして」

「たたねーよ、毒だあんなの。ほら、とっとと支度すっぞ」

「はーい」

 それから俺達は出かける準備をした。

 ちなみに俺の服装だが。いつもはシワだらけの服で出勤してるんだが、今日ばかりは昨日の帰りに大急ぎで買ってきた新品のスーツを着ている。ネクタイをピシっと締めるのは苦しいから嫌いなんだが、そうも言ってらいられない。

「ほら先生、歪んでますよ?」

 とネクタイを直されると、ちょっと照れくさかった。

 織姫もこの日は落ち着いたグレーのスーツに身を包んでいて、いつもはおっとりしたコイツも少しはビシっとして見える。なんてこと言ったらたぶん、怒られるだろうから言わないことにした。




「ああ、どうもいらっしゃいませ」

 月影の家に行くと、親父さんがペコペコと頭を下げながら出てきた。

 想像以上に腰の低い親父さんだ。

 っつーか、月影。何気に結構いい家に住んでるんだが。

 車三台止められる駐車場に十分犬を走り回らせてやれそうな広い庭。家だって二人で住むにゃあ贅沢なほど大きい。いや、元は四人家族だったんだったか……そういえばこの親父さんは確か大手医療機器メーカーに勤めてたんだっけか。一生懸命働いて家も買って、けど奥さんは亡くなり子供達はバラバラ。同情するのは違うと思うが、なんとなくやるせない気持ちになる。

「どうぞ、こちらへ」

 俺達は客間に案内された。

 月影は自室のベッドで寝ているらしい。そりゃあ昨日の今日だ、まだ痛みも残っているだろう。顔だって腫れが引いてないだろう。

 月影の姿を想像すると、昨日の出来事を思い出して辛くなる。尾之上達への怒りもそうだが、自分への怒りもそうだし、親父さんと月影に申し訳ないと言う気持ちもそうだ。全部がない交ぜになったヘドロみたいな何かが心の中にどろりと張り付いている。

「この度は……娘さんの事、大変申し訳ありませんでした」

 俺は膝に手を付き、深々と頭を下げた。

「ああ、いや、いいんです。あの子のことは私にも責任があるんです」

 親父さんは暗い顔をして俯く。

「あの子は、学校ではどんな様子でしょうか。やっぱり友達は少ない方ですか? 人付き合いは悪い方でしょうか」

「……ええ。あまり人とは付き合わない方ですね。友人と呼べる人はいないようで、よく一人で本を読んでいます。けど……芯の強いお嬢さんだと思いますよ。本当に、俺でも頭が上がらないんです」

 本当に。

 まさか織姫とのキスシーンを激写され脅しに使われるとは思わなかったよ。まあ、この話は秘密にしといてやるが。

「月影は、昔からあんな子なんですか?」

「いえ。妻が亡くなり、凜太郎が家を出てから、笑わなくなってしまいました。そんなあの子に気付いていたのに、私は、どう向き合えばいいのかわからず仕事に逃げてしまいました。それがこの結果です。本当に、情けない」

 親父さんの心中を想うと、胸が痛む。

 この家を見た時、俺は思った。大手医療機器メーカーに勤務し家を建て、けれど奥さんが亡くなり息子は家を出たまま音沙汰なし、娘は笑うことがなくなり、けれどどう接すれば、どう対応すればいいのかわからず自身も仕事を理由に娘を避け続けた。いや、娘だけじゃない。家族そのものから目を逸らしたんだろう。

 かと言ってこの人が悪いわけじゃない。

 月影が悪いわけじゃない。

 睦月京介こと月影凜太郎が悪いわけでもない。

 誰が悪いわけでもない。誰もがきっと、辛かったんだろう。

 もしかすると睦月京介が家を出た理由も、ただ家族を捨てたというだけではないのかもしれない。そんなふうに思えたのは、この親父さんの辛そうな顔を見たからだ。

「私はあの子の気持ちを何もわかろうとしなかった。まさかあの子がアイドルになりたいと思ってるなんて……やっぱり女の子なんですね」

「いえ。月影は……凜子さんは別にただアイドルに憧れたわけではありませんよ」

「どういう意味です?」

「ご存じありませんか? 今度星ヶ丘市でローカルアイドルのオーディションが行われるんです。で、その審査員に睦月京介―――凜子さんのお兄さん、月影凜太郎さんが参加なされるんですよ」

「そ、それは本当ですか!? 昨日話した時、凜子はそんなこと一言も」

「まあ、あんまり心配かけたくなかったんではないでしょうか」

「まさか凜子、京介に会うためにオーディションを受けようとしてるんでしょうか。でも京介は一度も電話を寄越さないどころかこっちの電話にも一切出ようとはしませんし。メールも返ってきません。オーディションに受かっても、あの子はもう帰って来ないかもしれません」

「……諦めるんですか?」

「いえ、そういうつもりは。いつか京介とまた笑って話したいと思います。あの子が帰ってきたら、昔みたいにおかえりと言ってあげたい。ですが、今はまだその時ではない気がして」

 親父さんは深いため息を漏らす。

 まあ、睦月京介のあの態度を見る限り、帰れと言われても素直に帰るとは思えない。だがもし、向こうも親父さんや凜子と話したいと言う気持ちが少しでもあるなら? その可能性があるのなら?

 よく考えたらアイツだって母親を亡くして辛かったに違いない。

 アイツの気持ちは、誰かが聞こうとしてやったのだろうか?

「あの。失礼ですが……凜太郎さんとはお話をしましたか?」

「え?」

「奥様を亡くしてから、息子さんと向き合ってお話をしたことはありますでしょうか?」

「それは……」

 嫌な予感は当たった。

 親父さんは暗い顔の中に酷い後悔と罪悪感の混ざった顔をして、すっかり舌を向いてしまった。やっぱり、一度も、きちんと話をしようとしなかったのか。

「……あの頃の私は妻を亡くし深い悲しみに溺れるあまり仕事に逃げ、そればかりか、家族がバラバラになろうとしていることに気づきながらも目を逸らし続けてしまいました。家族で会話をする機会があっても、私は笑っていました。凜太郎や凜子の気持ちと向き合うのを恐れて、哀しみから目を逸らして。妻を亡くした現実から目をそむけて……本当に、本当に、情けない……」

 親父さんの目から、ぼたぼたと大粒の涙が零れ落ちる。

 唇をきつく噛みしめ、肩を震わせるその姿からは、後悔の念がひしひしと伝わってくる。

 正直、そんな姿を見るのは胸が痛い。

 なんて声を掛けたらいいんだろう。

 情けなくも俺は、言葉に詰まってしまった。

 すると織姫が、

「お顔を上げてください」

 いつも通り明るく優しい声でそう言った。

 親父さんは袖口で涙を拭うと、場にそぐわないというか、この空気の中には少々不似合いなその声の調子に、きょとんとした目をして顔を上げた。

「確かに凜子ちゃんや凜太郎君にとって、親が気持ちを受け止めてくれないばかりか現実から逃げ出してしまうというのは辛いことだとです。けれど、今のお父様ならきちんと向き合えるはずです。間違いや失敗、過ちは人間誰にだってあります。私だって、天野先生にだってあります。でも、そうやって間違いに気づいて後悔して泣ける人は、強い人なんだと私は信じています。大丈夫、お父様ならまた、凜子ちゃんや凜太郎君のいいお父様になれますよ。だから……一緒に、凜子ちゃんを応援しましょう?」

 ね? と、可愛らしく小首を傾げて織姫は微笑む。

 親父さんはまた泣きそうになっている。でもそれは後悔とか自責の念とか自己嫌悪とか、そんな涙ではない。織姫の言葉が、優しさが、胸に染みたんだろう。

「ありがとう、ございます」

 親父さんはぼたぼた涙をこぼしながら、深々と頭を下げた。

 こんなふうに誰かの心を優しく包み込むようなこと、俺には無理だ。織姫がいなかったら俺はこの空気の中で石像になっていたかも知れない。俺は教師に向いてないな、とつくづく思う……仕事も溜めるし。

 それから俺達は、月影に何があったかを事細かに説明した。親としてあまり聞きたくない話だっただろうが、それでも親父さんはしっかりと俺達から目を逸らさずに聞いていた。その間、怒りのあまりか眉間に深いシワが刻まれることが何度かあったが、話を終えるまで口を開くことはなかった。

 


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