18
昼休み、俺は一人弁当を食べながら悶々と考えていた。
本当にこのままでいいのか。いいわけがない、けど、じゃあどうすればいいんだ?
自分達を捨てた兄に文句を言うためにオーディションを受けようとしたのに、その兄はもう自分の知ってる兄ではなくなっていた。きっと、もう無理だと思ったのだろう。どれだけ文句を言っても怒っても、きっともう、あの男は戻らないんだと。
「せーんせ」
と耳元で可愛らしい声が聞こえて、思わず「うわぁ!」と悲鳴を上げてしまった。危うく持っていた弁当箱を落っことすところだったが、なんとか受け止めておかず一つ零さずに済んだ。
顔を上げると、織姫がくすくす笑っていた。
「おい、なんだよ急に。びっくりするだろ」
「すいません。だってぼーっとしてたから、つい」
「ああ、いや。ちょっと考え事を」
「月影さんのことですね」
「まあ、そんなとこだ」
「何かお話ししました?」
「いや。話しようかと思ったんだけどよ、用のない時は話しかけるなって言われちまってよ。しかもアイツがオーディション受けようとしたことがクラスの女子連中に知れ渡っちまったみたいでよ。尾之上真理恵のグループを筆頭に女子連中がこれ見よがしにその話ばっかりしてんだよ。月影は無視してるけどよ、ありゃあ、相当居心地悪いぜ?」
「うーん、どうしましょう」
「とりあえず休み時間は適当な用事言いつけて月影を教室から出してるけど、雑用ぐらい自分でやってくれって睨まれたよ」
「あはは。先生も大変ですね」
「なあ。お前はさ、本当にこのままでいいと思うか?」
「そうですね、いいとは思いませんよ。ただ」
「ただ、なんだ?」
「いえ。私達は月影さんの気持ちしか知りませんよね? やっぱりケンカって言うのは双方の意見を聞くべきなんじゃないでしょうか? というか、この問題はオーディションを受けて解決するものでもない気がします」
「双方の意見、っつっても睦月京介にどーやって会うんだよ」
「うーん。やっぱり会える可能性があるのは……」
と俺と織姫は顔を見合わせて、
「オーデション……」
声を揃えて呟いた。
結局、この問題を解決するにはオーディションに合格しなきゃならない。
この問題を放置するってことは、一生、月影が睦月京介と和解せず何かをずっと引きずったままになるかも知れない。もしかしたら睦月京介もそうかもしれない。そして二人の父親も、そうだ。
もういいや、とはどうしても思えない。
「しかたない、もう一度アイツ説得するか。一緒に来てくれ」
「はい、わかりました」
織姫がにっこり笑顔で返事をする。
俺は弁当をかき込み平らげると、ソレを鞄にしまって立ち上がった。
「あ。先生、お弁当、ついてますよ?」
織姫はくすっと笑い、俺の口元をハンカチで拭う。
どうやらカツのソースが付いていたようで、レースの白いハンカチに染みが付いてしまった。シワ一つない綺麗なハンカチだから、一点ついた俺の汚れがよく目立つ。なんだかものすごく悪いことをした気になった。
「わ、悪いな。ハンカチ……汚して」
「いいんですよ、こういう時のためにあるんですから」
織姫は笑う。
その瞬間―――俺の胸が、不覚にも、ほんの少しだけ高鳴った。まあ、俺じゃなくても、誰だって同じ気持ちになるだろう。こんなことされて、こんなふうに笑顔を見せられて。思わず抱きしめそうになったが、そこは、ぐっと堪えた。
「先生、どうかしましたか?」
「な、なんでもねーよっっ!」
「そうですか? あ、もしかして」
と織姫は頬をぽっと赤らめ、背伸びをしてこそっと俺に耳打ちしてくる。
「また、ぎゅうって、してほしいんですか?」
「ばっ……ばかやろ! んなわけねーだろ、俺は年中発情中のエロオヤジじゃねーよっ」
「ご、ごめんなさいっ」
「ったく……ここは職員室だぞ」
そう。ここは職員室だ。
こんな公衆の面前で、それも学校で、そんなことできるわけがない。それに、そんなことをしたら俺は女性教師からは変態教師のレッテルを貼られ、男性教師に殺されるか地味な嫌がらせを受け続けることになりかねない。
そんなのは真っ平ごめんだ―――と職員室を一瞥すると。
既に俺達のやりとりに違和感を感じた教師たちが、じっと、こっちを見ていた。お局様的な、四十九歳独身女性教師は逆三角形の眼鏡をクイと押し上げ、今にも「んまああああああああああ! なんて破廉恥な!」と叫び出しそうな顔をしている。男性教師たちは怒りと嫉妬の滲んだ顔をして俺達を……いや、俺を見ている。
なにかまずい状況かもしれん。
俺は慌てて織姫の手を掴んで職員室を飛び出して、大急ぎで図書室へと向かった。