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シンニフォン  作者: 印朱 凜
1/15

砂漠の一家

  

   「シンニフォン」

                      怒火亭 進虫

  

  第一部 タナカ・トモローの遭難

  

 第一章 砂漠の一家

  

     1


 僕は頭に強いショックを受け、記憶をなくしているようだった。五分ほど前に意識を取り戻したのだが、困ったことに自分が置かれている状況が全く分からない。

 これは非常にまずいことだ。動揺して四方を見回すと、広大な砂漠めいた荒地が延々と広がっている。

 遠くは陽炎となってかすんで見えにくく、あいにく自分が今いる場所の特定はできない・・・おそらく中国内陸部だろうか? いや、ひょっとすると全く外れてアフリカ辺りかもしれない。空気の感じが、何と言うか大陸的な匂いがする。次の行動に移る前に深呼吸をして、冷静さを取り戻す努力をしてみる。

 自分の中に眠っている獣の五感や本能を呼び起こすため、座ったまま感覚を研ぎ澄ませることにした。

 それでもやはり、どんなに眼を凝らしても人影はおろか建造物さえ見当たらない。

 時間は・・・まだ正午過ぎぐらいだろうか。頭上の太陽が、露出している腕に容赦なく照りつけてくる。どう考えても砂漠にそぐわないダークグレイの制服のような物を着ているが、なぜこんな服を着ているのかもよく分からない。                                    

 おまけに装備しているものといえば貧弱だ。食料はおろか水さえ持っていない。自衛用なのか桜に翼のマークが刻印されているハンドガンがショルダーホルスターに入っていたが、肝心の通信機は見当たらず、携帯できる電話や端末も持ち合わせてはいないようだ。・・・孤立無援という言葉が、ぼやけた頭をよぎった。

 落ち着いてくると、やけに喉が渇いてきた。そもそもどれくらいの時間、意識を失っていたのだろうか。

 不思議なことに身体には怪我をした所もなく、あちこち痛むが骨折もなさそうだ。立ち上がって普通に歩くこともできた。よく見ると大地に車両のものと思われる轍と足跡が続いていた。この足跡は自分が付けた物と思われる。

 こんな所にどう考えても場違いな自分がいる。胸中に、どんどん不安の影が広がってきた。

 名前は・・・タナカ・トモロー。

 なぜか、すぐに思い出すことができたが、多分自分の出身は東アジアの島国だろう。他の身近な人々の顔も思い出してみる。

 ジュリア・・・キヤマ・・・これはとても親しい女性の名前だと確信した。なんだか、心情的に温かみを感じる。もやもやとした霧が晴れるように、彼女の美しい顔立ちが思い出されてきた。波打つ茶色の髪はまとめられ、小さな顔と大きな青味がかった目が印象的な女性だ。少し甲高い声色まで覚えている。

 昨日交わした会話は何だったのだろう。ひょっとして僕の恋人だろうか。いや、制服姿の彼女しか思い出せない。もっとビジネスライクな関係だったのかもしれない。

 最初に思い出した人物が女性とはどういうことだろう。他にも頼りにしていた人達を思い出してみたが名前までは浮かんでこない。

 僕は一体何者なのだろう、今まで何をしていたのか。なぜこんな所に放り出されて一人になっているのだろう。

 だめだ、いつまでも立ち止まったままではいけない・・・前進しなくては。

 砂埃舞う砂礫の砂漠は不毛地帯と呼ぶにふさわしい。コンパスもない状況では、かなり辛いが車両の轍をたどって行くことにした。

 どこかに人影はないか、いや建物でも車でもいい。絶望の中、希望を見出すことに必死になった。

 長い間、陽射しに当たったせいだろうか、全身がだるくなってきた。もうすでに脱水状態になりかけているのかもしれない。地面に落ちている表面がすべすべとした小石を拾い上げ、それを服でぬぐった後、口に含んで舌の上に乗せた。こんな物でも渇きを忘れさせてくれる効果がある。

 どのくらい歩いただろうか。遠くに見える赤茶けた不毛の山々はかすんで見える。

 顔が熱くて仕方ない。しかも乾燥してきたのか両眼がゴロゴロする。異物感にさいなまれ、まともに開けていられなくなった。

 どうも僕は今、コンタクトレンズを装用しているようだった。この目の症状はコンタクトレンズのせいかもしれない。記憶をなくした焦りから少し落ち着いた僕は、瞼の上からコンタクトレンズの感触を確かめた。

 ・・・すると突然、体の感覚が麻痺してきて両眼の奥、いや脳髄の底からとでもいえるような不気味な違和感が全身を駆け抜け、超感覚的な映像が視野の中に投影されてきた。

 それは映画館のスクリーンに映し出された世界のようにどこか嘘っぽく、その一方でこの上なくはっきりと自覚された。また本当に見ているはずなのに、なぜか絶対に触れることができないような、まるで夢の中で思い描いているような映像であった。

 不思議なことに見えている映像と外部の音がまったく同調していない。今見えているのは雲の上を高速移動している映像だ。だが空気を切り裂く風切り音や耳をつんざくエンジンの爆音のようなものは全く聞こえてこない。耳に入ってくるのは砂漠の乾いた風の音だけだった。

 今いる場所と見えている世界が完全に食い違っている。いや、正確には強く意識すると、自分が立っている砂漠の風景もぼんやりと浮かび上がってくる。それは暗闇に目が順応し、徐々に見えてくる感覚に似ていた。

 あたかも自分が音速で自由に飛翔する鳥にでもなったような気分だ。俯瞰も薄暗い上空も視線を移すと自由に見られる。恐怖感はなかったが、三半規管を微妙に刺激して気分が悪くなってきた。船酔いに近い感覚かもしれない。

 あまりにも衝撃的な感覚に、僕はその場から一歩も動けず、立ち尽くすばかりであった。むしろ脳が情報処理しきれず、自分の手足を動かす余裕さえないと言った方が正しい。

 よく見るとコンタクトレンズを通して様々なインジケーターやアラートが赤く視界の中に投影され、目まぐるしく色々な情報を提示してくる。それはおせっかいにならない程度に視野を占有するので、まるでパソコンの画面上にあるアイコンのように感じた。

 僕は絶え間ない画面の揺れに酔って、いよいよ気分が悪くなり、吐きそうになってきた。そして、そのまま地面に倒れこんでしまった。


 どれほど時間が経ったのだろう・・・まるで分からない。

 気が付くと視界は元に戻っていた。目の痛みが治まらなかったので、両眼のコンタクトレンズを外し、持っていた赤いケースの中に一枚ずつ何とか収めた。汚れたままの手だったが、この際仕方がない。すると気分が随分と楽になり、幸いなことに見え方もそれほど変わらなかった。

 砂漠の乾燥地帯に何度も臥していると、本当に自分がミイラにでもなってしまいそうな恐怖感がある。でも今は体温が上昇し、思考がぼんやりとしてきている。

「こんな所で死にたくないなあ・・・せめて砂漠でなく、人のいる所で・・・」

 カラカラになった唇からは呻きに近い絶望の言葉がこぼれ出した。

 今ここがどこなのか、自分が何者なのか、はっきりしないまま最期を迎える人生ほど不幸な現実はないだろう。なぜこのような状況に陥り死にそうになっているのか、誰でもいいから教えて欲しかった。


     2


 ・・・最初は幻聴かと思ったがディーゼルのエンジン音が聞こえてきた。ガラガラとやかましくて、すぐに分かる。僕に比べて視力が格段に優れている人間らしく、はるか遠方から僕を発見したようだ。

 自分にとって敵じゃないことを祈りつつ、近付いてくる連中をよく見ると、使い込まれたトラックは明らかに民間用だった。荷台の幌の中には羊を積んでいる。狭いキャビンの中には女子供がぎゅうぎゅうに座っていて僕は思わず苦笑した。

「あんた、こんな所で何しているんだい!」

 運転していた男が僕に呼びかけてきた。

「見ての通り遭難して困っているんだ。どうか後ろに乗せてくれ!」

 僕はありったけの力をふりしぼり、大声でその男に懇願した。

「見たこともない格好だな、あんたどこからやって来たんだ?」

 東洋系と思われる男は顎の髭をなでながら、僕をじろじろと観察している。

 僕があまりに困っているのを見かねたのか、隣に座っている奥さんらしい人が男に耳うちした。すると男は眉をしかめた後しばらく考え込み、子供達を見回した。窓から身を乗り出して僕を見ていた二人はニコッと笑った。すると男は大きな声で叫んだ。

「兄さん! 羊と一緒でよかったら後ろに乗りな。ドンハとヘイスーに感謝するんだな!」

 僕は喜び勇んでトラックの荷台に飛び乗った。羊は獣臭かったが今の僕には逆に心地よいぐらいだ。前の方に積んであったバケツの水に顔を突っ込んで、がぶ飲みしていると誰かの声がした。

「あんた、それは羊用の水だぜ」

びっくりして顔を上げると、フードを被った少年が背後に立っていた。意識が朦朧としていたのか、荷台にも人が乗っていることに全く気付かなかった。

「どうりで格別うまい水だと思ったよ」

 僕はそう言いながら声の主をよく見た。

 その子は僕と同じアジア系の顔立ちをしていたが、ラフな作業着のような服装からは どこの国の人間かを判断することは難しい。最初は判らなかったが、どうも女の子らしい。羊の世話をしていたのか顔が薄汚れている。

「砂漠で何をしていたの? 何で一人だけ、置いてかれたの?」

「それはこっちが訊きたいよ。信じてもらえないかもしれないが、記憶を失くしたみたいなんだ」

「本で読んだことはあるが、本当に記憶を失くした人を見るのは初めてだ」

 僕が正体不明の怪しい男なのにも関わらず、その若い女性は特に警戒心もいだかずに色々と尋ねてきた。

「あんた、自分の名前まで忘れたのかい? あたしはチェ・ミナ。

 何か思い出せることは? ・・・どこの国の人?」

「僕は田中友郎・・・

 確か、僕は確か・・・こことは違う国の人間だ。

 国は・・・なぜか自分の国までは、どうしても思い出せない!」

 僕が答えに窮して頭を抱え込んでいると、その少女は興味深そうに僕の顔を覗き込んできた。

「どうも演技じゃなさそうね。嘘をつく者はすぐに分かる」

 過酷な環境で暮らしてきたためか、ミナと名乗る少女は大人びて聡明な感じがした。何と言うか、まるで隙がない。僕は助けてもらう代償として拳銃を差し出してしまったが、弾倉は彼女から返してもらえた。

 ボトル入りの綺麗な水をしこたま飲んだ後、溜息のような声を上げ、やっと生き返ったような感じがした。膝を抱えて休んでいると羊が邪魔しにやってくる。 

 荷台に響くエンジンの騒音と羊の匂いにやられ、気を失いかけた時、トラックはやっと目的地に着いて止まった。

 彼らの住居であろう二階建ての巨大な仮設住宅は、広大な牧場の中央に位置していた。近くにはオアシス状の小さな貯水池も見られる。周りに集落はなく、全くの一軒家だ。

 僕は慣れない手つきで売れ残った羊を囲いの中に押し込むのを手伝った後、色々と彼らの暮らしぶりを観察した。

 家族の他には使用人もおらず、本当に五人で暮らしているようだ。

 見渡す限り人家のない辺境の地にも関わらず、電化製品が異常に充実している生活に驚いた。高効率のソーラーパネルと風力発電で電力を賄っているらしい。どうやら、ただの羊飼いではなさそうだ。

 僕を助けてくれた家族の父親に当たる人はチェ・ユンソンと名乗った。何だか学校の先生にいるようなタイプで、とても親切にしてくれた。貴重な真水の熱いシャワーを浴びた後、汚れた服を新品に着替えさせてもらう。

 ・・・しかも夕食を僕の分まで用意してくれているようだ。

 

     3

 

 五人家族の食事は質素だが品数が多い。

 今日、街まで羊を売りに行った帰りに色々と食料を仕入れてきたらしい。スパイシーな料理が目立つが、主食は米で自分と同じ文化圏みたいだ。

 無国籍風の大きな長方形の食卓は脚が短く、椅子を使わずに直接、床に座して食べるようになっている。

 最初に出会った時、華僑の人達かと思ったのだが、名前や食事内容から考えて、どうも違う民族なのかもしれない。

「今日は皆で遠出だったから、あり合わせの物しかないのよ、それでよかったらどうぞ・・・」

 綺麗な奥さんは優しそうに微笑みながら、僕に大きなスプーンを渡してくれた。この家では、テーブルに家族が全員揃ってから食事をするしきたりになっているらしい。

 奥さんの横に子供二人が押し合いながら座り、僕を興味深そうに見つめている。確か兄の方がドンハ、妹がヘイスーとかいったかな。共に七歳前後の元気な子供達だ。賑やかだが躾が行き届いており、客の前では粗相をしないような印象を受ける。二人共、何ともほほえましく明るい性格だ。 

 ヘイスーが、とうとう我慢できなくなって僕に質問してきた。

「お兄ちゃんはトモローっていう名前なの?

 そして、どこから来たの?」

 横にいたドンハも身を乗り出して訊いてきた。

「いつまでここにいるの?

 お兄ちゃんの家族や仲間達は今どうしてるの?」

 単純だが的確な質問を次々と浴びせかけてくる。これには少し困った。自分の記憶も曖昧なのに、どう自分の中で整理して答えていけばよいのだろう。

 僕が困った顔をしていると、父親のユンソンが子供達を諭した。

「こらこら、トモロー兄ちゃんは何か訳があって

 今、色々と答えられないのだよ。思い出すまでそっとしておいてやりな」

 僕が申し訳なさそうに頷くと子供達は残念そうな顔をした。

 このままでは失礼だと思ったので、僕は身の周りのことなど、思い出せる限りの情報をこの家族の前で喋った。そうでもしないとせっかくの好意を踏みにじってしまう気がしたからだ。

 背後に何か人の気配を感じたので振り向くと、そこに長女のミナが立っていた。

 一瞬、僕は目を見張った。 

 風呂から出てきたばかりのミナは、まだ濡れた黒髪をタオルで拭きながらテーブルの上に並んだ料理を気にしていた。

 やけに薄着だったので、ショートパンツからスラリと伸びる美しい脚に、僕は目が釘付けになってしまった。そして何より、薄いオレンジ色をしたタンクトップから時おり覗く白くて大きな膨らみに、何だか心臓が締め付けられるような思いがした。

 僕が目のやり場に困っていると、ミナはそんなことは全く意に介さない様子で家族の前を横切り、テーブルの中央付近に堂々と座り、グラスの中の冷たい水を飲み始めた。

 初めて出会った場所―トラックの荷台で会話した時は、わざと汚らしい格好をしていたのかもしれない。まさかこんな美しい女性だったとは思いもよらなかった。

「何を見ているのよ」

 ミナが僕の視線に気が付いて言葉をぶつけてきた。

 はっと我に返った僕は、ひどく狼狽し、家族の前で何だか気まずい空気が流れた。

「あなたこそ、お客様に向かって何を言っているの。そんな、はしたない格好をして!」

 奥さんの一言で、僕はずいぶん救われた気がした。ドンハとヘイスーが顔を見合わせてクスクスと笑い合った。

「あんた達、もう寝る前に本を読んであげないわよ・・・」

 ミナが片方の眉を上げて怖い顔をした。 

 僕みたいなよそ者が家族の団欒に飛び込んでもいいのだろうか、今日会ったばかりだというのに!

 僕の顔つきが同じアジア人だから親近感を持っているのだろうか。

 最初は何か試されているのかと勘ぐったが、子供達の前に通され、特に警戒する素振りも見せないので、どうやら本当に歓迎されているらしい。

 あまり人が住んでいない砂漠めいた場所で暮らしているから客が珍しいのか・・・

 孤独で心細かった僕は、この家族のもてなしに心から感謝した。凍りつきそうな体に暖かい春の日差しを浴びているような気分だった。

 食事が始まってから僕は勧められるままに食べていたのだが緊張のため、あまり味がしなかった。家族中の視線を集めているような気がする。実際はそうでもなかったのだが。

 その後、慣れてきたのか会話も弾んできた。たちの悪い武装集団が出没し、周辺の治安が悪化してきているという話があったと思う。

「・・・時にトモロー君だっけ?

 君はひょっとしたらシンニフォン人なのかもしれないな」

 父親のユンソンがドキッとするようなことを尋ねてきた。

 僕が困った顔をしていると奥さんが、そんなことはどうだっていいから今は食事を楽しみなさい、という意味の言葉を発した。

 それでもユンソンは続けた。

「君は、さっきから見ていると食事の時、ご飯茶碗やスープの入った器を手で持って食べている。これはかつて存在した日本における慣習だ。それに話している英語も時おり日本訛りが見られる」

「つまり君は日本人をルーツに持つシンニフォン国の人間じゃないのかな・・・」

 そう言われて見回すと、ユンソンやミナを始め、家族の誰もが食器をテーブルの上に置いたままで食べている。どうも茶碗を手に持って食べることは、諸外国の慣習では行儀が悪いとされているようだ。

 僕がばつが悪そうにしているとミナがフッと鼻で笑うのが見えて少しむかついた。

 そのうち突然ユンソンが日本語で話しかけてきた。

「君はシンニフォン人なのか・・・

 トモロー君、名前から大体分かっていたことなのだが・・・」

 そう言ったきりユンソンは食事もそこそこに席を外してしまった。

 僕は何か気に障ることでも、しでかしてしまったのかと首を傾げたが、奥さんも沈黙してしまった。

 子供達は相変わらず騒いでいたのだが、僕はその場の空気にいたたまれなくなり、奥さんに尋ねてみた。

「シンニフォン人とは何なのですか?

 どこにある国のことですか?」

 奥さんは悲しそうな顔をしただけだった。

 代わりにミナが答えた。

「シンニフォンとは大災害後、日本という国があった場所に建国された全く新しい国よ。

 確か戦後、国連に認められた世界でも唯一の企業統治国家だったはず・・・」

 僕は頭の中を整理するのに、ずいぶん混乱していたが、まるで堰が切れたように色々と思い出しつつもあった。

 間抜けな質問もしてみた。

「ここは一体、どこなのですか?・・・」

 ミナは少し溜息をついた後、答えた。

「どこって! 分からないの? ここはオーストラリアよ」 

「オーストラリア・・・

 ミナは僕と同じアジア人に見える。

 ここが南半球だとは思わなかったよ」

 僕が呆然としていると、後ろの方で声がした。

「私達も君と同じシンニフォン人だったんだよ・・・」

 声の主はユンソンだった。

「トモロー君、後で一緒に話さないかね。

今はゆっくりしていたまえ・・・」

 彼の複雑な表情と、驚きの発言に戸惑ったが、今は何も考えないことにした。

 

     4


 僕は腹一杯に食べて飲んで動けなくなってしまった。

 子供達が目の前にやってきて、それぞれ僕の腕を引っ張って笑った。

「トモロー、一緒にお風呂に入ろう!」

「ええーっ!」

 僕が狼狽していると奥さんが、 

「トモローは、もうシャワーを済ませたのよ。よかったら、もう一度子供達と入ってみる?」

と屈託のない笑顔で話しかけてきた。

 ・・・丁寧に辞退した後、僕は子供達をバスルームまで連れて行った。

 僕は脱衣所で、子供達のはしゃぎ声を聞きながらしばらく考え込んでしまった。

 ・・・僕はシンニフォン人?

 大災害とは何のこと?

 戦後とは? 戦争でも起こったのか。

 日本に一体、何が起こったのだろう・・・ 


 ずぶ濡れのドンハが飛び出してきた。髪の毛から湯気と一緒に滴がしたたり、床に水溜りができる。

「お兄ちゃん、拭いてくれ!」

 僕がドンハの頭をタオルでゴシゴシやっていると、ヘイスーも待ちきれずに出てきた。

 素っ裸で濡れたまま、無邪気に背中に抱きついてくる。おかげでシャツの後ろ側が濡れてしまい、生温かくなってしまった。

「お兄ちゃんは何歳ぐらいなの?」

「分からないけど、君のお父さんとあまり変わらないかも」

 冗談で言ったつもりだが、二人ともびっくりして目を丸くした。

「パパと同じ歳だとすると、お兄ちゃんって四十歳ぐらいなの? もっと若く見える!」 

 ヘイスーは可愛い奴だ。僕の言ったことを真に受けている。彼女の長い髪を拭くのを手伝ってあげた。

「そんなに歳をとっている訳ないだろ、首から提げているタグによると・・・

 二十歳とのことだ」

「なあんだ、そうなのか。トモロー、そこにある服を取ってよ」

 ヘイスーが指差す所には、可愛いパジャマが男女二人分用意されている。それに手を伸ばした時、床に置いてあったバスケットに蹴つまずいた。

 床一面に先ほど脱いだばかりであろうミナのショーツやブラ、濡れた服が散らばり、本当に途方にくれてしまった。

「お兄ちゃん、何で赤くなっているの?」

 ドンハが服を着ながら、わざとらしく訊いてきた。

「う、うるさい!」

 僕はピンクの下着を拾い集めると、ばれないように丁寧にバスケットの中に戻した。

 

     5


 子供達が寝室に引っ込んだ後、僕はユンソンに誘われて二階のテラスに出た。

 もう外は漆黒の闇に包まれ、ここ以外に明かりが見えない。外気は独特の香りがするような気がしたが、寒すぎず夜風も心地よく感じた。

 時々闇夜にがさごそと何かが動く気配がしたが、ユンソンによると夜行性の有袋類か何かだろうということだ。

 オーストラリアではいいワインができるらしい。僕は彼に勧められるままにシラーズという葡萄から作られた赤ワインの入ったグラスをあおった。

「君には家族がいるのかね?」

 ユンソンの何気ない問いかけにも僕は答えに詰まってしまった。とぎれとぎれにしか思い出せないのだ。

「今、西暦何年なのですか?」

「・・・西暦2050年。日本がなくなって20年ぐらい経つ」

「! ! !」

「日本があった場所は現在、シンニフォン国という世界でも唯一の企業統治国家が存在している。人口の六割が元日本人だが、残りは世界各国からの移民で占められている。元々私も妻も外国からの移民グループだった」

 ユンソンは僕の記憶喪失の状態を心配して、何かを思い出すきっかけになればよいと思ったのか、知っている限りのことを教えてくれた。

「にわかには信じ難い話だが、日本の電気通信事業の最大手だったシンニフォン社がディザスター後、国家の基盤を失った日本の舵取りを国際社会で何とかこなして、そのままシンニフォン国として独立を果たしたのだ」

 僕はこの時代にディザスターと呼ばれている大災害の正体が知りたかった。

 大地震? 小惑星の衝突?

 日本は何で滅びてしまったのだろう・・・

「日本が滅亡する原因となったディザスターの正体は、核ミサイル説など色々あるが現在でも多くは謎とされている」

 ユンソンが説明口調で続けた。

「元シンニフォン人の私が調べた情報によると、日本にあった世界最大級の衝突型粒子加速器(SLC)による素粒子物理学の実験中にマイクロブラックホールが発生してしまい国土の四分の一があっという間に蒸発してしまったようだ」

「ブラックホール! ・・・そんな物を地球上で人工的に作ることが可能なのですか!」

「詳しくは分からないが、もし生成されてもホーキング輻射で理論上、安全に崩壊する物と考えられていたらしい。しかし、実際は科学者達の予想を大幅に超えて実験どころか制御不能となった。

 その結果、日本を滅ぼすほどの巨大爆発を引き起こし、世界的な災害や紛争の元凶となってしまったのだ」  

 ・・・僕は記憶を失くす前はそのことを知っていたのだろうか。

 しばらくはショックで言葉を失った。 

 夜風が急に寒々しく感じられ、沈黙が二人の間を支配したようだ。

 ユンソンはワインを入れたグラスを回しながら遠い目をした。

「ディザスターの時、私はシンニフォン社のアジア支部で現地採用された新入社員だった。日本の業界最大手に採用されて、とても嬉しかった記憶がある。

 ・・・なにせ普通の携帯電話会社から始まった事業は急成長を続け、最終的には国家戦略上の重要な位置を占める国際通信傍受、いわゆるシギントシステムまで開発・担当するほどになっていたからね」

「そうだったのですか・・・」

 僕は力なく答えた。ユンソンがワインをグラスに注いでくれた。

「日本の本社での研修中に、あの忌まわしいディザスターが起こり、日本は転覆してしまった。首都は消滅し、残された各地方の都市もその後の気候変動で壊滅的になってしまった。

 ・・・無論これらの災害は日本に限ったことじゃない。太平洋に散在する島嶼国は、煽りを受けて全滅したし、海抜の低い沿岸地域も同様だ。

 ―私の祖国シンガポールも大いにとばっちりを受けた。

 崩壊した日本の利権をめぐる国家間の争いは周辺の国々を巻き込み、太平洋紛争とまで呼ばれている」

 僕は我慢ができなくなりユンソン訊いてみた。戦いはまだ続いているのか。ひょっとして僕はシンニフォン国の軍人で、オーストラリアに今いるのは・・・

「終わりのない戦争の始まりだよ・・・

 トモロー君は多分、シンニフォン社のオーストラリア支部の人間だろう。

 シンニフォン社は各国の支部をシンニフォン国の飛び地として占有し、治外法権を認めさせようと巧みに交渉してくることから争いが絶えることはない。比較的友好な国と言われている、ここオーストラリアでもそれは例外じゃない」 

「あくまで憶測だが・・・」

 ユンソンが続けた。

「君は暴動の鎮圧に派遣されてきた人間で、大方暴徒に頭を殴られたりして記憶を失くしてしまったんだろう」

 僕は自分の頭をなでて確認してから答えた。

「でも頭のどこにも殴られた跡がないのです。

 ・・・時々頭痛はしますけど。それに誰もいない荒野に何で一人で転がっていたのかも説明が付かない」

「それもそうだな・・・」

 ユンソンはワインのボトルを一本空けてしまった。それからは僕のことを詮索したりせず、自分の家族のこと、忘れられないディザスターの悪夢、シンニフォン社員時代、つまりはシンニフォン人だった頃の活躍を楽しそうに、時には涙を浮かべながら延々と喋り続けた。

「・・・妻は会社でナンバーワンの美女だった。そりゃあ、口説き落とすのに血の滲むような努力をしたさ! 蹴落としたライバルの数は片手じゃ、とても足りないぐらい。

 ディザスターが起こった年、偶然にも二人共日本にいたのだが、街は壊滅的な打撃を受けて祖国にも帰れなくなった。  

 その後、戦争まで起こったが、私はその時になって初めて兵役の経験がなかったことを後悔した。私は病弱で、若い頃の徴兵検査にパスしなかったからね。

 ある日、妻のお腹にミナがいると知った日は嬉しかった反面、不安で一杯だった。この崩壊寸前の異国の地で一体どうなってしまうのかと・・・

 でも前向きに生きていくことにしたんだ。

 当時、生き残った人々は未来に悲観していたが、私達だけは違った。

 ・・・壊れた教会で二人だけで式を挙げた。

 そして生まれてくるミナのために日本で戦うことを決意した。その結果、ミナは日本の生まれ変わりの国とも言えるシンニフォンの国籍をもらった記念すべき初世代になったという訳さ」

「ミナか・・・」

 僕はまだ十代だという、あの美しい少女のことが気になって仕方がなかった。妙に強気な姿勢も逆に魅力に感じられるから不思議だ。

 ディザスター後に生まれた世代は、僕も含めて苦労したに違いない。ユンソンもシンニフォン国を離れたようだし・・・いや、待てよ。

「そもそもユンソンがシンニフォン社を辞めたのは、どうして?」

 ユンソンの弛緩した眼瞼が一瞬上がった。  

「私は元から社員だったので、無条件にシンニフォン国の国籍をもらった。

 祖国を捨てて新国家の建国に立ち会った私は、本当に人一倍働いた。元からいる人々に自分を認めさせるには、死に物狂いで努力するしか方法はなかったからね。

 その結果、私は社内で大いに出世し、シンニフォン社、ひいてはシンニフォン国の国政の重要なポストに就くまでになった。

 ・・・だが、私は知り過ぎてしまった。

 特権階級を利用して現在でもタブー視されている日本が滅んだ原因、ディザスターの真相に近付こうとした。

 あらゆる手段を使って謎の大爆発や地殻変動などに関するデータに片っ端から不正アクセスを続けた結果、公安に目を付けられ逮捕されてしまった。

 私は背任容疑で会社をクビになった。企業統治国家であるシンニフォンで解雇されるということは、国籍を失うことを意味する。

 それは死刑にも等しい裁きだった。国外追放の憂き目に会った私達一家は放浪の末、ここオーストラリアを新天地として選んだという訳さ・・・」


 その時、階下から足音がしてミナがテラスに顔を出した。

「お父さん、あんまり飲みすぎないでね」

 ユンソンは頷いた後、僕に向かって真剣な顔をした。

「トモロー君、ミナはまだシンニフォン国の国籍を持っている。彼女をいつかシンニフォンへ連れて行ってくれないか。はるか北の生まれ故郷を一度見せてやりたい」

「はい、いつかきっと」

 僕の言葉にユンソンは満足そうに笑った。


 ユンソンは酔い潰れてしまった。ミナはテーブルを片付けた後、僕達を寝室まで案内してくれた。昨日出会ったばかりなのに驚くほどの厚待遇だ。ミナが昔使っていた部屋を貸してくれた。

「あまり部屋の物を触らないこと!」

 そう言って口をへの字に曲げて見せた彼女は階下に降りていったが、中ほどで振り返って僕の方を見た。

「トモロー、ありがとう。今日の父さん、とても楽しそうだったわ」

 初めて僕に笑顔を見せてくれた・・・意外と可愛い所があるじゃないか。

 ほろ酔いで気分は良かったが、見慣れない部屋は何だか落ち着かない。白基調で清潔感のある空間は、見上げると天井に大きな採光窓があり、ベッドから綺麗な星空が眺められる。

 興味本位で本棚を覗いてみると、動物関係の本が目立ち、専門的な獣医学に関する本もある。羊を飼っているので将来、経験を生かせる獣医を目指しているのかもしれない。

 ふと手に取った写真立てには幼いミナとユンソンが笑顔で並ぶ写真が収められている。何だか好奇心に火が付いて、彼女が今付き合っている男性に関連する物がないかどうか物色してみた。

 だがユンソンと一緒に写っている写真ばかりで、彼氏と思われる写真などは、どこにも見当たらなかった。少しほっとしたのと同時に、不思議に思った。家族五人で撮った写真がないのは、なぜなんだろう。

 僕はベッドに入り、今日起こったことを色々頭の中で整理してみた。部屋は使われていないのにも関わらず綺麗に掃除されていて、微かに女の子の香りがする。

 疲れきっていたので、あっという間に深い眠りに落ちていった。

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