薔薇の庭
移ろいゆく季節の色形をあざやかに留める庭
水に映ゆる雲の陰 草木の間より零るる光
そこにはただ静寂が
いつでも確かな静寂が
柔らかに 穏やかに
横たわっていた……
『薔 薇 の 庭』
「黒絹」
ばさばさと独特の羽音と共に舞い降りてきた鳥の影が、視界をがらりと暗くした。
全身が黒く、首と翼にあざやかな紅い線を持つ上客。
理多は夕焼けの光あかるい縁側から腕を伸ばすと、黒絹の差し出した文を受け取った。紗の白浴衣に浮かぶ滲むような青が、西日に照らされて紫色へと色を変える。
「ありがとう。黒絹」
丁寧に例を伝えると、鳥は翼を広げて庭の、トマトの植わる場所まで飛ぶ。
見慣れたその姿を目で追うこともなく、理多はゆるりと便りを読んだ。
ひぐらしが、置いていかれたように鳴く。
カナカナ、カナカナ、寂しさの帯を盛夏の夕に翻す……
しばしの時が、流れた。
理多は手紙を手折り、元通り封筒に戻すと、薄闇の空へと上りつつある黒絹に眼を止めて手を振った。
答えるように旋回し、黒絹は去ってゆく。
山へ帰るのだ。
黒絹の一族は山に住む。
人を関わることはあれど人と共存することはない。
「冷汁でもつくろうかの」
水撒きを終えた庭から立ち上る、かすかな熱気と白い霧。
薄い青い闇に霞がかかる。
夏の夕は、とても永い。
ひぐらしはまだ、鳴いている。
夕餉を終え、蚊帳の中から庭の声を聞いていた。
虫達の合唱。
蛙の喜ばしそうなさえずり。
しっとりと張り付くような闇の中、ゆるやかに風鈴を鳴らず暖かな風が、理多の汗ばんだ皮膚をなでる。
結い上げた黒い髪の、闇に溶け込む様。
しろい首筋と引き立てああって、背筋がさむくなるほどにうつくしい。
「理多様」
ころり、ころり、虫が鳴く。
名前はなんと言ったかの。
甘い濡れ茶の羽根を持つ……
「理多さま」
「誰ぞ?」
「名乗る名前はありませぬ。私は夜を忍ぶもの。真夏の夜の姫君に、いと美しき薔薇を一輪」
「刺客か」
「如何様にもお好きに解釈を」
姿の見えぬ男の声に、理多はふわりと口ほころばす。
仰ぎ団扇を伏せた手元に見るもみごとな薔薇が一輪。
おもしろい。
今宵は薔薇と添い寝というか。
「悪くない」
花の香は眠りを誘う。
明朝目覚めた理多の枕もとに、すでに薔薇の姿は無かった。
「理多様」
男の声はいつもそう言って、蚊帳の中に一輪の薔薇を置いていく。
毎日同じ色。同じ薔薇。
うら若き乙女の柔肌のごとく、ふっくりとなめらかな花弁。
花の香りはいつも理多を優しく眠らせ、
悪しき夢など寄り付く隙さえ与えない。
しかし朝には消えている。
大層不思議な花だった。
夏の庭に雨がふる。
平生どおりに便りを届けにきた黒絹は、雨の強さに翼を打たれた。
縁側に滑るように降りてうずくまっている。
理多は傘を持たずに庭に出て、黒絹の好きなトマトを取ってきてやった。
「力が出るまで留まるがよい」
黒絹は答えるように赤いトマトを飲み込んだ。
黒絹はしばらく理多のもとへ留まった。
翼の羽根が生えるまで時間がかかったのだ。
4日間と半日が過ぎ、黒絹がようやっと空へと舞い上がっていった日に、
理多ははじめて気がついた。
4日間と半日。
あの不思議な薔薇が届かぬ
「理多様」
久方ぶりに聞く男の声は、どことなく衰弱しているように聞き取れた。
理多はするりと立ち上がり、蚊帳の中に灯りを点す。
「黒絹」
薔薇の花が。
「姿をお見せ」
凛々しい男の、胸にある。
黒絹は、微笑んでいた。
「理多さま。いとまを告げに参りました」
お祖父様から山の切り崩し計画を聞かされたのは、ごく最近のこと。
文明開化の進むこの当世、なにも珍しいことではない。
お祖母様も叔父貴殿も賛成しておられた。
理多ひとりが反抗の意を見せたとして、どうにもならぬ大きな動き。
「しかし私は嫌なのだ」
それでも理多は抗いつづける。
「この美しい自然を失うことが、この愛しい庭を失うことが、おまえを失うことが。黒絹。私は我が身を切られる如くに辛いのだよ」
「存じておりまする。理多様にとってこの家は、あなた様のお父上の形見ではありませぬか」
「夏が終われば庭は死ぬ。山も死ぬ。父の魂がやどるこの自然が、殺されるのだ。父は二度も殺されるのだ。」
「黒絹の一族は別の山へと移ります。鹿も狸も兎も狼も、もうすでに移動をはじめておりますゆえ。しかし残る一族もある。猿と猪達は、残って山と共に果てると」
「わたしも果てよう。この自然はわたしの命だ。父を死んでも守りたい」
「なりませぬ。理多様」
黒絹は、一輪の薔薇を差し出した。
刺に裂かれた親指から、ぷっくり一点、紅い滴がもりあがる。
「あなた様には生きていただきたい」
黒絹は血を舐め、妖しく美しく微笑んだ。
「生きて語り継いではいただけませぬか。我ら山の者の話を。人間の愚かしさを。そして自然の恐ろしさを」
「恐ろしさとな……?」
理多は自らもまた手を伸ばし、黒絹の血を舐め取った。
今宵は庭の音がせぬ。
虫も草木も沈黙を守る、何かが起こる前夜の予兆。
「今にわかりましょう」
黒絹は、そして今夜も薔薇を捧げた。
「理多様。準備が整いましてでございます」
「ありがとう。今参る」
漆黒の布に身をつつみ、冷たい石の床を行く。
巨大な扉に手をかけると、自ら両手で押し開いた。
つんとすえた、不快な匂いが鼻をつく。
「お祖父様。お変わりになって」
白い花床に横たわったその者は、つい先日山の事故に遭って死んだ。
土砂崩れだったと供についていた者は言う。
雨が降ったわけでもないのに地盤が崩れ、祖父一人が転落したと。
山じゅうが気味悪いほど静まり返り、ありとあらゆる動物達がその様子を見守っていたと。
「成る程な。黒絹」
これが自然を侵した者への、罰というわけか。
庭は死んだ。山も死んだ。
父の愛した自然はもうかの地には残ってはおらぬ。
理多は都へ身をうつした。
大きな洋館の中で洋装を纏い、洋食を口にして、日々を営んだ。
体中が腐敗しつつある感覚を覚えていた。
「黒絹」
吐き気がするのだ。
「黒絹。お前はどこにいる」
眠ることが、できぬ。
ある夜、薔薇の香で眼が醒めた。
「理多様」
やつれた頬に、敏捷な手が触れる。
「黒絹」
「今宵は、ご機嫌麗しく」
「何をしにきた」
「あなた様をお迎えに参りました。」
窓がいつのまにか開いていた。
石のバルコニーから冬の冷たい空気が流れ込んでいる。
己を抱く黒絹の力強い体を感じながら、理多は夢現に言葉を紡いだ。
「迎えとな?笑わせるな、黒絹よ。いまさら私の行く場所などどこにも無いのだ。捨て置けばよい。私はお前の知るお前ではとうにない」
「帰るだけでございます。理多さま。あなたはあなた様のお庭へと」
「帰れない。わたしは汚れた。私の腐った臓物を、お前に見せてやりたいものだ」
「では御体を捨て置いてゆくこととしましょうか」
鳥は命を運ぶといわれる。
「ではわたしは死んだのか?」
月に向かって飛ぶ鳥は。
世界のどこへも飛ぶことのできる鳥は。
「わたしは死んだのか、黒絹よ」
しかし今、理多と並んで空を舞う。
「いいえ。あなたさまはこれから我らの一族へと迎え入れられるのです。」
黒絹は言った。
たわむ大きな翼の威厳、鋭い嘴の野生、澄んだ瞳の愛情。
「理多様。あなたさまは私の妻となられるのです」
氷のような音がする。
冬の夜が鳴る音だ。
理多は静かに微笑んだ。
「おまえの妻に」
それはなんと喜ばしい。
「私はおそらく、はるか以前よりそうなることを望んでいた」
黒い絹の鳥が二羽。
黄色い月の真下をゆく。
理多はそして、現世より消えた。
ただ一輪の薔薇だけを後に残して。
その後風の運んだ頼りによれば、かの地にはいつか再びあの美しい山と庭が再生していたとの話……。