夏果て、遣らずの雨
「秋が好きなの」
初夏、まだ蝉も鳴いていない雨上がりの湿気の残る東屋で、彼女はそう言って笑った。
何かを思い返すような、宝箱を前にした子供のような陰りのない、輝くような笑顔だった。
思えば、彼女は年々酷くなる酷暑に懲りることなく文句を言い連ねる程暑がりな人だった。
通学路から少し外れたところにある個人商店に置かれた、色とりどりのアイスに散々迷いに迷って、結局毎回同じものを買う彼女に、時間の無駄だと文句をぶつけたことは数え切れない程ある。
その癖、アイスを買いすぎて金欠なのだとショーケースに縋りついて、わざとらしく嘆いて見せるものだからその様があまりに哀れでよく安い棒アイスを奢っていた。
足が遠のいた今でも、店にある霜の張った冷凍ショーケースを開けるあの、霜が剥がれる独特な音を、僕は簡単に思い返せる。
店から少し進んだ先にある公園の、ため池に沿って作られた遊歩道脇に一つの東屋がある。
どんよりと淀んだ溜め池は、たまにブラックバスを目当てに、近所の暇を持て余した老人が釣りに来るくらいで、遊歩道は滅多に人が通らない。
当然ながらそんな道の脇にある東屋にも人気はなく、少なくとも僕は僕ら以外の人が利用しているのを見たことがなかった。
そこはかつて僕と彼女の絶好のサボり場所だった。
長テーブル一つと長椅子が二つ。
それぞれお気に入りのお菓子やジュースを持ち込んで広げては、だらだらとそこで過ごしていた。
彼女はよく長椅子に行儀悪く寝転んで、学校から借りてきたらしい本を読んでいた。
表紙を見た限り、彼女は本のジャンルに拘りは無いようで恋愛小説からファンタジー、ホラーに果ては歴史書まで、実に様々な本を借りてきては東屋で読み耽ることが日課だった。
家路につくのは決まってとっぷりと日が沈んだあとのことで、東屋から二人、往生際悪くなるべくゆっくりと他愛のない話で歩く速度を遅らせて、公園の端、街灯の灯る遊歩道の終わりで解散していた。
互いに家に帰りたくない理由があったのだろう。
僕と彼女は遅くまでいても補導されにくい逃げ場所を探していて、滅多に人が通らない例の東屋に同時期に目をつけた。
たったそれだけのことだった。
彼女が東屋に来なくなったのは、秋の始めあるいは夏の終わりの頃だった。
夏特有のバケツをひっくり返したような、空が海になったようなゲリラ豪雨がこの街を襲った日に、あの公園から少し離れた川に飛び込んだらしい。
当然ながらその日の川はひどく濁って、増水した泥水がいつもよりも遥かに早い急流を作り出していたと聞いた。
「おや、今日は一人なのかい?」
容赦なく照りつける熱線から逃げ込んだ先、霜の張ったショーケースからオレンジの一番安い棒アイス一つを手にレジへ向かうと、店番をしていたお婆さんが不思議そうに首を傾げた。
「……ええ、まあ」
なんと返すかしばらく迷って、あんまりにも適当な返事を返すと、お婆さんはそれ以上何か話しかけることもなく淡々とレジ作業を済ませる。
そういえば、この気さくなお婆さんに話しかけられて会話をしていたのは僕じゃなくて彼女だったことを思い出した。
いつにもましてどんよりと淀んで濁っている溜め池沿いの洗い出しコンクリートの遊歩道に人影はない。
一応ハイキングコースということになっているはずだが、今日は酷暑であるし昨日は大雨だったからなのか、肌にまとわりつくような不快な湿気が充満していて、とてもじゃないが外出する気分にはならない天気だった。
買ってきた棒アイスをテーブルの上に置く。
僕はオレンジのアイスが得意ではなかったが、彼女はこれを好んで食べていた。
彼女が家に帰りたくなかった事情も、あの日、どうして川に飛び込んだのかも、僕には分からない。
僕たちはどこまでも、同時期に避難場所を探して、たまたま同じ場所に避難した同類であって友人ではなかった。
僕は彼女のことを知らないし、彼女も僕のことをきっと知らない。
秋を心待ちにしていたはずの彼女がどうして、文句ばかり言っていた夏の終わりに消えたのかを知る日は永遠に来ないだろう。
シャワシャワと蝉が煩い。
蝉は嫌いだ。
嫌でも夏を意識させるし、風情を吹き飛ばすくらい煩いし、案外しぶとくて一週間で死ぬ儚い生き物なんかじゃないから。
毎年の夏の度、この鳴き声が止んで欲しくて仕方なかったのに、彼女が消えたあの日からこの鳴き声がずっと止まないことを願い続けている。
梅雨の煩わしさもそうだ。憂鬱な雨続きの季節にホッとするようになった。
彼女は夏の終わりに消えた。
死体は未だ見つからない。
でもあの濁流に飲まれて生き残るなんてことはどんな屈強な男性だったとしても不可能だ。
それでも、それでも僕は、このまま夏が終わらなければこの東屋にふらりと彼女が現れる気がしてならない。
ふと、蝉の鳴き声が止んでいることに気がついた。
何事だと東屋の外を見れば、空からはゲリラ豪雨とでも言うべき夕立が降り注いでいる。
帰り損ねたと思ってテーブルに視線をやれば、そこには開封されることなくドロドロに溶けたオレンジのアイスだけが残されていた。




