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たまにはジュースを

掲載日:2025/12/23

嫌いなのに、今日もコーヒーを飲む。

毎朝のルーティンだ。

本当は砂糖とミルクをたっぷり入れたい。

けれど、我慢する。

口に含むと、苦味が体の芯までじわじわと広がって、

少しだけ別人になれた気がする。

早く大人になりたかった。

母を支えられるようになりたかった。

負担を減らしたい一心で、小学生の頃から家事を手伝いたいと申し出たけれど、

母は「気持ちだけもらっとくね」と笑って、やんわりと断った。

高校生になってバイトを始め、初めての給料を差し出したときも、

「ハルちゃんには物欲ってものがないの! まだ若いのに」と、逆に怒られた。

少しでいいから、受け入れてほしかった。

一時間目は数学の授業だ。

数学は苦手だけれど、私にとっては嫌いじゃない時間でもある。

村井先生は二十代の若手で、見た目はかっこいいのに、

どこかオドオドしていて、少し情けない。

それでも生徒思いで、よく気がつく。

バスケットボール部の顧問で、私も同じ部活だ。

体調の変化にすぐ気づき、ひとりひとりをよく見てくれる。

最初は、こんな人が父親だったらよかったのにな、と思っていただけだった。

けれど、成績が伸びずやる気を失っていたことや、

部活との両立がつらいことをぽろっとこぼしたとき、

先生は真剣に話を聞いてくれた。

その目のまっすぐさが、ただ、かっこよかった。

気づいたら、好きになっていた。

そして、好きになってから分かったことがある。

村井先生は、私たちの担任である田辺先生のことが好きなのだ。

話しているときの表情は分かりやすくて、

笑うタイミングも、声のトーンも、少しだけ浮ついている。

――人が恋している顔って、こんなに間抜けなんだ。

そう思った。

田辺先生は村井先生と対照的で、

いつも冷静で、そつなく仕事をこなしている。

愛嬌もあって、生徒からも先生からも好かれていそうだった。

部活帰り、遅くまで残って仕事をしている姿を、何度も見かけたことがある。

好きか嫌いかで言えば、好きだ。

でも、それ以上に、妬ましかった。

こんな人になりたい。

田辺先生は、「死にたい」なんて思ったこと、ないんだろうな。

放課後、職員室に用があって立ち寄ると、

田辺先生が掲示用の折り紙を折っていた。

二年生の頃、

不器用で、お世辞にも上手いとは言えない折り方をしていたのを思い出す。

「手伝いましょうか?」

声をかけると、田辺先生は一瞬迷ってから笑った。

「大丈夫……!と言いたいところだけど、甘えちゃおっかな」

私は手際よく折り紙を仕上げていく。


こういう作業は、昔から得意だった。


「ありがとう。お礼にジュース奢るよ」

「……ジュースじゃなくて、コーヒーでいいです」

「そう? 大人だね」

自販機の前で、田辺先生はジュースを、

私はブラックコーヒーを取った。

「珍しいですね。先生、いつもコーヒーなのに」

「無理して飲んでるだけだよ」

ふっと、力の抜けた笑い方だった。

「眠気覚ましですか?」

「違うよ。……何でだろうね?」

その言葉に、胸の奥がざらつく。

あなたに憧れて、私は飲んでいたのに。

なんだそれ、と、思ってしまう。

コーヒーをひとくち飲む。

苦い。

「……先生みたいになりたいです」

自分でも、なぜ口にしたのか分からなかった。

田辺先生は驚いたように目を丸くして、

それから、少し切なそうに笑った。

「ええ、わたしに?

わたしは牧野さんになりたいけどなあ。折り紙、上手だし」

くしゃっと笑ってから、少し考え込むような仕草をする。

「誰かになろうって思うより、

自分を好きになるほうが、きっと魅力的になるよ」

そう言って、もう一度自販機の前に立つ。

今度はジュースのボタンを押した。

「はい。お口直し」

冷たい缶が、私の手に渡される。

「わたしは牧野さんのこと、好きだよ」


田辺先生は、照れたみたいに指を折りはじめた。

「牧野さんの素敵なところ。いっぱいあるよ」


それから、付け足すみたいに。

「……無理してる自分って、だいたい報われないよ」

行き所のない感情を、どうしていいか分からなくて、下唇を、きゅっと噛む。

田辺先生は手を振りながら、職員室へ戻っていった。

私はその場に残り、

ブラックコーヒーとジュースを見比べる。

ジュースのプルタブに指をかけて、

小さく息を吐いた。

「……」

まだ、その勇気は持てなかった。

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