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こんなに晴れた素敵な日には  作者: 輪島ライ


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3 飴と鞭とお金

 私の研修医生活は麻酔科から始まった。朝は毎日7時出勤。



「お疲れー、物部君も今昼ご飯?」

「日比谷君お疲れ様。手術は1時間前には終わってたんだがシミュレータで挿管の練習をしててな。さっき自販機で買ってきた所だ」


 2023年4月25日の火曜日。中央手術棟の2階にある麻酔科医局の休憩室で、朝8時から14時頃までかかった腹腔鏡下結腸右半切除術の手術を終えた私は廊下のコンビニ自販機で買ったサンドイッチを手に研修医仲間に話しかけていた。


 相手が男性でも女性でも同級生には君付けで話す背の高い男子研修医は物部(もののべ)微人(まれひと)君といって、この病院を有する私立畿内医科薬科大学の医学部医学科を卒業した1年目研修医だった。



「やっぱりまた練習してたんだ。物部君って研究者志望だけあって真面目なんだね」

「そんなことはない、俺は日比谷君とか剖良(さくら)君と違って不器用だから才能のなさを時間で補っているだけだ。ぶっちゃけて言えば今も死ぬほど眠い」

「マレー君ってロングスリーパーだから朝はいっつも死んだお魚みたいな目してる。私も眠くない訳じゃないけど」


 同じ大学の卒業生からは総じてマレー君と呼ばれている物部君は私と同じコンビニ自販機で買ったらしい焼きうどんをすすりながらそっけなく答えて、近くのソファに座っていた解川(ときがわ)剖良(さくら)さんは大学時代の物部君を思い返しながら話していた。


 解川さんも物部君と同じく畿内医科薬科大学の出身で、彼女らは研究医養成コースの卒業生なので初期研修が終わったら基礎医学研究者の道を歩むことになる。


 私の同期には他にも2名の研究医養成コース生がいるらしく、いつかは他の2人とも知り合ってみたいと思いつつ気軽に基礎医学研究の道に進めるのも彼女らが私立医大の卒業生で実家が太いからだという気もした。



「ははあぁ……これが私の人生初の……はあぁぁ……」

「西川さんさっきから何見てるの? もしかしてお給料明細?」


 実家が大阪府内にあり、鳥取県の山陰大学の医学部医学科を卒業してから大阪の大学病院に帰ってきた西川さんは先ほどからスマホを見ながら恍惚(こうこつ)とした表情をしていて、表情一つ変えずに彼女のスマホを覗き込んだ解川さんは画面を見て尋ねた。


 畿内医大病院ではお給料の振込日は毎月25日で、昨日の深夜24時を過ぎた直後に口座に初任給が振り込まれたことは私もメール通知で把握していた。



「そうそう、これが私の人生初のお給料! 大学時代バイトとかしてなかったから本当に嬉しくて。お医者さんってこんなに貰えるんだ~、ちなみにサクラちゃんはおいくら?」

「30万円ぐらい。ていうか初月は皆同じだと思う。残業代は来月からだし」

「本当!? ってことは来月からもっといっぱい貰えるんだ~。嬉しいな~。サクラちゃんはこのお給料何に使うの?」

「友達とシェアハウスしてるから家賃は安いけど貯金しとくと思う。この先何かと入用(いりよう)になると思うから」

「俺は奥さんと息子に何か買ってやりたいな。まあ美波(みなみ)なら将来の学費に備えて貯金しとけって言いそうだけど」


 大学時代からの親友とシェアハウスしているという解川さんと在学中に歯学生の彼女と出来婚したという物部君は理由こそ違うけど初任給は貯金しておくと答え、私はここでも初任給を貯金する余裕がある彼女らを羨ましいと思った。



 畿内医科薬科大学病院は私がマッチングで第4位に登録していた大学病院で、私が大学病院として唯一この病院に出願していたのはお給料が大学病院としては高いことと受験生を出身地や出身大学で差別しないことが理由だった。


 選考がほぼ100%筆記試験の点数で決まる畿内医大病院は大学の成績はそこそこよかった私にとって滑り止めにするには最適な大学病院で、面接でも優しい質問しかされなかったので病院側はマッチングで私に高い優先順位を付けてくれていたらしい。


 私の実家からは電車で1時間以内で通えるから絶対に下宿しないといけない訳ではないけど、どうしても実家から離れたかった私は安いワンルームアパートを借りて今月から病院近くで一人暮らしをしていた。




 その日の仕事が終わってから、私は自宅でスマホを開くと銀行口座のアプリを開いて30万円ちょっとのお給料から5万円を実家の母に振り込んだ。


 一応初任給から仕送りをしたということで、今も自宅のベッドに寝転んでテレビを見ているのであろう母に電話をかける。


「……もしもし、お母さん? 今いい?」

『あらあら光瑠、お仕事大変だろうに電話ありがとうね。仕送りも本当にありがとう』


 母は私が医師国家試験に合格してからというもの毎日上機嫌な様子で、電話口からは案の定ケーブルテレビの時代劇専門チャンネルの音声が流れていた。



「うん、そのことで電話したの。今月は初任給だから5万円しか送れなかったけど、来月からはもうちょっと増やすからね。いくらぐらいがいい?」

『そんなこと気にしなくていいわよ、私は光瑠がお医者さんとして幸せになってくれたらそれで十分なの。ところで』


 母はいつもの癖で私の話を一方的に遮った。



『あの彼氏くん、賢人くんとはちゃんとお付き合い続けてるでしょうね。今月1回ぐらいはデートした?』

「えっ……私麻酔科で忙しいし、また再来月になったら会おうって約束してるけど」

『何てことしてるの、そんなのじゃいけないわ! いい? 賢人くんは光瑠がせっかくものにしたお医者さんの彼氏なのよ? そんな風に適当なお付き合いしてたらどこの泥棒猫にかっさらわれるか分かったもんじゃないんだから!! 無理してでも来週までにデートしなさい、分かったわね!!』


 母はやはりいつもの癖でまくしたてると一方的に電話を切り、私はスマホを下宿の机の上に放り投げた。



 館山(たてやま)賢人(けんと)は私が大学4回生の頃から交際している彼氏で、賢人はマッチングで畿内医大病院を第一志望にしていたのに筆記試験の出来が悪くて第二志望の済生会如月(きさらぎ)病院に就職した。


 如月市は畿内医大病院のある皆月(みなづき)市とは隣接しているので、私は就職をきっかけに賢人と別れる気は全くなかったけど仕事が忙しくて少し疎遠になっていたのは事実だ。


 だけどメッセージアプリでは毎日のように話しているし、そもそも私は賢人のことを医学生や医者だから好きになった訳ではない。



 私の母は一人娘の私が生まれてからというものずっとこの調子で、私の話を真面目に聞いたことがなければ自分の意見を娘に押し付けることに疑問を抱いたこともない。


 幼い頃から将来はお医者さんになりなさい、お医者さんの旦那さんを貰いなさいと何百回何千回聞かされて育ったことか。



 シングルマザーとして女手一つで私を育て上げた母は立派だ。しかも娘を現役で国立大学の医学部医学科に合格させた実績は見事だ。


 世間から見ればそうだ。だからどうしたというのか。勉強して湖南医科大学に受かったのも6年間でストレート卒業したのも国試に合格したのも母ではなく私自身だ。



 高校受験の模試の成績が悪かった、高校を体調不良で早退した、大学の1年生の時にいくつかの科目で再試にかかった。


 その度に母は私を殴った。そして次の模試で成績が再上昇したり2年生は再試ゼロだったりしたら人が変わったかのように私を絶賛した。


 母は飴と鞭のつもりかも知れなかったが、私は実の親に鞭を求めたことなど一度もない。



 私の大学卒業を間近にして母が脳梗塞で倒れた時、私は本気でそのまま死んでくれればよかったのにと思った。


 後遺症が残った母は地元の病院の看護師の仕事を引退して、今は障害年金と貯金、これからは私の仕送りもあてにして生きていく。


 だから私はお金が欲しい。一刻も早く初期研修を修了して少しでもお給料が高い診療科に就職したい。



 隣の部屋の物音が筒抜けになる古びたワンルームアパートの一室で、私はこの一日がさっさと終わればいいのにとだけ思った。


 賢人に会いたい。だけど今日は神経内科の当直だと言っていたから今電話すると迷惑になるだろう。


 それに、賢人と会ってデートすればまたお金がかかる。



 解川さんや物部君はきっとこんなことに悩まなくていいのだろう。彼らは仕事と家庭と研究のことだけを考えていられる。


 日比谷さんは大学が国立だから親孝行だと言われても、人の幸せは結局お金があるかどうかだ。

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