12 屈辱の時
その日は実家の最寄駅のベンチで一夜を過ごした。
途中で巡回の警察官が自転車を押して歩いてきたので一旦物陰に隠れた以外は誰と遭遇することもなくて、始発が動き次第私は大阪に向かう電車に乗り込んだ。
始発の電車でいつもより早めに職場に着いて、研修医当直室でシャワーを浴びて身体を洗った。
そして私はあんなことがあった翌日も普通に循環器内科の研修医として働いて、18時過ぎに仕事を終えて再び私服に着替えた。
今、行きたい所は一つしかなかった。
「……もしもし、日比谷です。今お時間よろしいでしょうか」
『あれっ、日比谷先生。こんな時間にどうしたの、しかも直接かけてくるなんて』
「いいから教えてください。……今から先輩の家に行ってもいいですか?」
『はいっ、僕の家に来るの!? いやそれはちょっと……ホテル代なら気にしなくていいよ? 今は掃除もできてないし』
「お願いします、先輩の家に行きたいんです。……本当にお願いします」
『……分かった。SMSで住所を送るからいつでも来てください。僕もあと5分ぐらいで家に着くので』
そう言うと自分から電話を切った嶋田先輩は、ちょうど職場からの帰り道だったらしい。
SMSで先輩の携帯電話番号から住所が送られてきた。全く見覚えのないマンション名だけど皆月市内で病院からそう遠くない町名だった。
何がしたい訳でもなかった。これ以上他人に愚痴を聞いて欲しい訳でもなかった。
私はとにかく先輩に会いたかった。
だけど病院を出て、先輩の自宅に向けて歩き出そうとした所で私は自分の頭が醒めていくのに気づいた。
今先輩に会って私は何をどうしようというのか。先輩に全てを打ち明けても、打ち明けられた先輩は意味もなく私に謝るしかないだろう。
私は自分自身が置かれた状況を初めて冷静に見つめ直した。
賢人は私を裏切って職場の看護師と浮気していたけど、私が賢人を裏切ってパパ活をし始めたのはそれよりずっと前だ。
しかも嶋田先輩とは脅迫された経緯があるとは言えこれまで一緒に2回ラブホテルに入って、セックスはしていないとはいえ同意の上で虐待という形式での性行為をしたこともある。
それを賢人やあの女が知っていたかどうかは分からないけど、先に相手を裏切ったのは私の方ではなかったか。
仮に知っていたとしても私を問い詰めもせず浮気をしていい理由にはならないし、私がパパ活をしていたのは学生時代は生活費を稼ぐため、研修医になってからは母に毎月仕送りをしつつ賢人との交際費を確保するためだ。
それはある意味で正論かも知れないけど、私は客観的に見て一方的に賢人を断罪できる立場にあるのだろうか。
自分がこれまでしてきたことを見つめ直さずに、私とはあくまで契約関係で高額のお金をくれていた先輩に会って、私は一体何がしたいのか。
次から次に考えが頭の中に沸き上がってきて、私は阪急皆月市駅前の路上で咄嗟にスマートフォンを取り出した。
ワンコールで電話に出た先輩は軽く息を切らしていて、おそらくは私が突然来ると聞いて早足で自宅に戻っていたのだろう。
『日比谷先生……』
私からの再びの通話にどう話せばよいか分からず戸惑っている先輩に、私は両目から涙を流しながら一気にまくし立てる。
「先輩、先ほどはごめんなさい。ちょっとショックなことがあって混乱してました。家に行くとか言ったのは忘れてください」
『……そうですか』
「私の問題は、私で解決します。明日から職場で会っても普通に接してください」
『分かりました』
緊張しつつも冷静に答えた先輩に、私は心から申し訳なさを感じながら通話を切った。
その日はそのまま下宿に帰って、まだ19時前なのにお風呂に入ってカップラーメンで夕食を済ませた。
歯を磨いていつもよりずっと早く布団に入り、私がもし今精神科に通院していたら処方された睡眠薬を一気飲みしたい気分だと思った。
そんな戯言を考えている間もなく疲れ切っていた私は寝入ってしまって、翌朝は驚くほど落ち着いた気分で目覚めていつも通り仕事に向かった。
それから1週間は本当に何事もなく過ぎていった。
嶋田先輩とは病院内で何度か顔を合わせたけど会釈されるだけで会話はなくて、こちらからラインをブロックして電話番号も着信拒否したままの賢人はまるでこれまでの私の人生に存在しなかったかのように再び私の前に現れることはなかった。
私の人生はこれでリセットされたのだろうかと思いながら日々を無為に過ごしていると、仕事終わりに見知らぬ番号から着信があった。
医者には研修医相手でもよくセールスの電話がかかってくるからと以前指導医に勧められてスマホにインストールしていた迷惑電話通知サービスもその番号には無反応で、私はそのことに不吉な予感を覚えながら電話に出た。
「はい……?」
『ごめんなさい、館山先輩の山岳部の後輩の有村です』
「ああ……」
かけてきた相手は、ある程度私の予想通りだった。
『日比谷さん、今日って当直ですか?』
「違うけど、何の用?」
『今、駅前の廻船屋にいます。お話したいことがあるので仕事終わったら来てください。来なかったらあなたを傷害罪で警察に通報します』
「分かりました」
行きますとも言わず、相手の返事も待たずに私は電話を切った。
自業自得で殴られて口の中が切れたぐらいでと思いながらも、相手にも何か考えがあるのだろうと思って私は阪急皆月市駅前にあるパフェが美味しいチェーンの喫茶店へと徒歩で向かった。
レトロだがいつもお洒落な店内に入って有村という名前を伝えると、店長らしいスーツを着た中年男性は私を丁寧に一番奥の座席へと案内した。
そこには見るからに不機嫌そうな新人看護師の有村が座っていて、彼女は一番安いパフェを食べ終えて無料の水をストローですすりながら私を待っていた。
会釈もせず相手を睨みつけることもなく向かい側の座席に腰掛けると、有村は一体何が入るのかよく分からない小さなバッグから茶色い封筒を取り出した。
「それ何?」
「黙って見ててください。これに見覚えは、いえ身に覚えはありますよね?」
「……」
有村が差し出したのは私が大阪市内のレストランで中年男性と食事をしている姿や、中年どころか高齢の男性と肩を並べてカラオケボックスに入ろうとしている姿を盗撮した写真だった。
「これに身に覚えは?」
「あるけど、それがどうかしたの?」
「パパ活は浮気にならないとか思ってます?」
「思ってる。私はあなたと違って医者だけど実家は貧乏だから」
「そうですよね、私はお小遣いで探偵を雇えるぐらいには裕福な家庭の娘です」
「羨ましい。でも岡山県にある私立医大に合格できる学力もなかったってことね。歯学部とか薬学部も無理だったの?」
「っ……。まあそんなことはどうでもいいです。私、別に最初から日比谷さんを陥れたくてこんなこと頼んだ訳じゃないんですよ。館山先輩に最近彼女の様子がおかしいって相談されたんです」
「だから賢人とセックスしたの?」
もはや目の前の顔だけは綺麗な女とまともに話すつもりはなかったけど、賢人が私のしていたことにどこまで気づいていたのかは気になった。
「ええ、弱みにつけこんだら簡単でしたよ。私どうしてこんなゴミみたいな男を寝取って喜んでるんだろうって思いました」
「どうぞ好きにしてやってちょうだい。私にとって賢人はもう過去の人だから」
「そうですよね、日比谷さんは前から職場の先輩とよろしくやってますもんね」
「はあっ……!?」
「図星でした? 最初から全部見せなくてよかったです」
先ほど有村が見せてきた写真には、私が嶋田先輩のいるラブホテルに入っていく所の写真はなかった。だから油断していた。
次に有村が差し出した写真には私が先輩より先にラブホテルから出てくる所が写っていて、それだけでなく精算を済ませてラブホテルから出てきた先輩を撮影した写真まであった。
ここまで証拠を押さえられて、何もなかったと抗弁する方が無理がある。
「私が頼んだ探偵さんすっごく優秀なんです。そんなこと頼んでないのに、私だってびっくりしたんですよ」
「……知り合いをパパ活の相手にしちゃいけないって理由でもあるの?」
「本当にパパ活ならいいんですけどね。でも場所が場所でしたから。ラブホテルって何する所かご存知ですよね?」
できることなら、目の前で減らず口を叩くこの下劣な看護師の首を絞めて殺してやりたいと思った。
そんなことが本当にできるなら、今の今までこんなに苦労していない。
「私はあの人とセックスなんてしてないから。……賢人に話したいなら、好きに話せば」
「あんなゴミ男、こっちから願い下げですよ。でも私嬉しいです。あんなに憎かった日比谷さんの、こんな一面を知れたんですから」
「死んじゃえばいいのに……」
有村に対してというよりはこの世の全てに対しての呪詛を口にして、私は何も注文しないまま席を立って喫茶店を出た。
これ以上の屈辱があるだろうか。
私の人生できっと最初で最後の、完全な敗走だった。




