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カルア戦記  作者: MKT
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第8話 追憶の空の下で

 昼下がりの陽光は、黒牙砦の石畳に斑模様を描き出していた。中庭からは新兵たちの朗々たる掛け声が響き、剣と剣とがぶつかり合う鈍い音が、勝利への希望に満ちた熱気を運んでくる。だが、その喧騒から遠く離れた城壁の上で、カルアはひとり静かに空を見上げていた。隣には、物言わぬ岩のように静かに佇むバルバトスがいる。

 

「バルバトス……こうして空を見上げると、ふと思い出すのです」

 

 バルバトスは目を細め、遥か彼方の空の果てに視線を投げかける。

 

「――あの日のことか」

 

 二人の間に、言葉はなかった。

 

「はい。三年前、ヴェイルウッドが……すべてを失った、あの日です」


 あの夜、ヴェイルウッド王都は業火に包まれた。城壁を駆け上がった炎は、まるで天を焼く巨大な竜のようだった。玉座の間で、父王が最期に託した紋章を握りしめたカルアの手は、紋章の熱とは裏腹に冷たい絶望に震えていた。バルバトスに半ば引きずられるようにして、燃え盛る城を後にした。あの時、カルアの心には、王国の崩壊という悲劇と、何もできずに逃げ惑う自分の不甲斐なさしかなかった。

 

 そこからの逃走は、文字どおり命懸けだった。帝国軍の追撃は、まるで飢えた狼の群れのように執拗だった。道なき道を彷徨い、いくつもの国境を越えた。ヴェイルウッドの山岳国境を抜け、隣国リスタールに辿り着いたが、そこでもアガベ帝国の諜報網が張り巡らされており、安息の地は遥か遠かった。飲まず食わずの数日が続き、カルアは何度も意識を失いかけた。

 

「殿下、しっかりなさい! ここで死なれては、すべてが水の泡です!」

 

 バルバトスの怒声と共に、無理やり水を口に押し込まれたのを、カルアは朦朧とした意識の中でぼんやりと覚えている。応えるだけの気力も、体力も残されていなかった。

 

 そして――ようやく辿り着いたのが、さらに南、国境を二つ越えた辺境の国、エアドールだった。山々に抱かれた緑深いその地には、幸いなことにアガベ帝国の手はまだ届いておらず、小さな村がひっそりと息づいていた。

 

 村の入り口に足を踏み入れたそのとき、最初に気づいたのが、一人の少女だった。金色の髪は陽光を受けて黄金色に輝き、空色の瞳は澄んだ湖のように美しかった。その顔に浮かんだ、驚きと警戒と、そしてすぐに浮かんだ慈悲にも似た優しさが入り混じった表情を、カルアは今でも忘れられない。

 

「あなたたち……大丈夫?」

 

 それが、カリラとの最初の出会いだった。彼女の案内で村長の家に招かれ、バルバトスがすべてを語った。王都の陥落、王家の壊滅、そして命からがらの逃亡。村長はしばらくの間、黙って話を聞いていたが、やがて静かに言った。

 

「この村にいる限り、誰もあなたを王子とは呼ばぬ。ただの若者として、ここで生きよ」

 

 それからの三年間、カルアとバルバトスは村の片隅の納屋を借り、身を潜めて暮らすこととなった。

 

 カリラ、ラフロイグ、ボウモア――。その村には、後にかけがえのない仲間となる三人の若者がいた。

 

 ラフロイグは、村の唯一の守衛の息子だった。誰よりも正義感が強く、不器用なほどに真っ直ぐな青年だった。ボウモアは、口数の少ない狩人の息子。冷静で判断力に優れ、仲間の命を第一に考える寡黙な少年だった。そしてカリラは、村長の一人娘。天馬と共に空を翔ける気性の強い少女で、誰よりも行動が早く、誰よりも人を助けようとする熱い心を持っていた。

 

 カルアが毎日、バルバトスから剣の基礎を叩き込まれているのを見て、最初に弟子入りを願い出たのはラフロイグだった。

 

「俺も強くなりたい。誰かを守れる男になりたいんだ!」

 

 そのひたむきな一言が、すべてを変えるきっかけとなった。次いでカリラが加わり、ボウモアも無言のまま木製の弓を手にし、訓練場に立った。カルアは、剣の才は凡庸であったが、バルバトスは言った。

 

「殿下、剣の才がなくとも構いません。私が知る軍略、そのすべてを殿下にお教えいたします。戦を制すは、常に知です」

 

 こうしてカルアは、三人とは異なる道――知将としての歩みを始めた。三人が汗まみれで訓練に明け暮れる間、カルアは地図と兵法書を手に、戦略と戦術を学び続けた。戦いにおける布陣、補給、心理戦、情報戦――その全てを、バルバトスは惜しみなく叩き込んだ。

 

 そして三人は、その日々の中で、カルアの正体と、彼が背負っているものの重さを自然と知ることになった。

 

「カルア……あなたが王子でも、私たちは変わらないよ」

 

 カリラはいつも通り、何の気負いもなく、あっけらかんとそう言った。

 

「戦う時が来たら、俺も一緒に行く。俺たちは仲間だ」

 

 ラフロイグは、まっすぐな瞳でそう言い切った。

 

「君は知ってる。俺たちよりも多くのことを。だから、君が道を示してくれ。俺はその通りに矢を放つ」

 

 ボウモアは、多くを語らぬまま、短くそう言った。言葉は少ないが、その瞳には強い信頼が宿っていた。そして、三人は自らの意志で、カルアと共に戦うことを選んだのだ。


「不思議なものですね、バルバトス」

 

 カルアは空を見つめたまま、独り言のように呟いた。

 

「あの日、すべてを失ったと思った。だけど今は、こうして仲間がいて、希望がある」

 

 バルバトスは、静かに頷いた。

 

「カルア。人は一人では戦えません。ですが、共に立ち上がる者がいれば、どんな絶望も乗り越えられる。私もそれを、この三年で学びました」

 

 バルバトスの言葉に、カルアは穏やかな笑みを浮かべた。

「俺もです。だから、今度こそ――俺たちの手で、未来を取り戻す」

 

 その時、遠くで風が旗を揺らす音がした。黒牙砦の天守に掲げられた旗は、かつてヴェイルウッドの城に翻っていたそれと同じ、白銀と蒼の紋章だった。失われたはずの国の誇りが、今、再び空に舞っていた。


 だが、その誓いを嘲笑うかのように、遠い帝都から、不気味な黒い影が迫っていた。それは、アードベック大将軍率いる、帝国軍の主力部隊。

 

 かつては、ただの「反乱軍の残党」と蔑んでいたアードベックの目に、もはや「残党」など映ってはいなかった。映っているのは、ただ一人、自分を二度も出し抜いた「ヴェイルウッドの小僧」の姿だけだった。その瞳には、侮蔑ではなく、静かで、しかし沸々と燃え盛る闘志が宿っていた。

ここまで読んで頂きありがとうございます。

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