第7話 空城の計
朝霧がまだ砦の周囲を覆い尽くしている頃、カルアは静かに策を告げた。
「砦の門を全て開け放て」
誰もが息をのんだ。バルバトスは眉間の皺を深め、周囲の兵士たちは当惑の色を隠しきれない。
「カルア殿、本当に良いのですか? 砦には一人も守備兵を置かないと?」
バルバトスの問いかけに、カルアは静かに頷いた。その瞳には、すでに勝利の光が見えているかのようであった。
「ああ、敵は智将マッカランだ。こちらが万全の態勢で待ち構えていては、正面から攻略されるかもしれない。だが、こちらが無防備だと見せれば――」
「……逆に疑い、躊躇うというわけか」
ヒューガルデルが興味深げに頷いた。老いた顔に、楽しげな笑みが浮かぶ。
「これぞまさに空城の計、か」
カルアは軽く微笑んで続けた。
「ヒューガルデル殿とカリラ、そして戦えない人たちは事前に裏手から砦を出てもらう。残った戦力は両側の森に伏兵として配置する。敵が砦を避けて退却を決断した瞬間、挟撃する」
「見事な策ですな」
バルバトスは感心したように唸った。だが、彼には一つの不安があった。
「万が一策が破れた時は――」
カルアの顔から、微笑みが消えた。代わりに、固い決意に満ちた表情になる。
「その時は俺が残って時間を稼ぐ。みんなはすぐに撤退しろ」
その言葉に、誰もそれ以上反対はしなかった。
やがて、砦は完全に静まり返った。城門は開け放たれ、見張り兵一人いない。その異様な光景に、砦へ接近してきたマッカラン軍の兵士たちは困惑した。開け放たれた門の奥から、乾いた砂の匂いだけが漂ってくる。人の気配も、鬨の声もない。まるで、数百年前に打ち捨てられた廃墟のようだった。
「将軍、これはどういうことでしょう? 城門が開け放たれ、守備兵も見えません」
「……」
マッカラン将軍は静かに馬上で眉を顰めた。彼は武勇に優れると同時に、用心深く狡猾な智将でもある。眼前の奇妙な光景を、すぐに理解した。
これは、罠だ。
マッカランは腹の底から湧き上がる屈辱と怒りを押し殺し、苦渋の表情で決断を下した。
「違う。これは敵の誘いだ。あのヴェイルウッドの小僧が、また策を弄している」
「将軍! 敵は恐れて逃げ出したのです! 今こそ突入しましょう!」
「……やむを得ん。全軍、退却だ!」
マッカランの命令に、兵士たちは狼狽しつつも素直に従った。彼らは隊列を整え、背後の森へと退却を始める。だが、その時すでにマッカラン軍の運命は決していた。
退却路となる森の中には、カルア軍の兵士が密かに潜んでいたのだ。バルバトス率いる騎馬隊、ラフロイグの槍隊、ボウモアの弓隊が、それぞれ森の両側に伏兵として配置されている。
先頭のマッカラン軍が森に差し掛かった瞬間、カルアが鋭く号令をかけた。
「今だ! 挟撃せよ!」
瞬間、鬱蒼とした森そのものが牙を剥いたかのように、左右から怒涛のようにカルア軍が現れた。
「敵襲だ! 伏兵がいたぞ!」
狼狽し慌てふためくマッカラン軍に向け、ボウモア隊の矢が容赦なく降り注ぐ。空を覆いつくすほどの矢が、黒い雨のように帝国兵の頭上に降り注ぐ。次に、バルバトス率いる騎馬隊が疾風のように敵の側面を突き破り、ラフロイグの槍隊が隊列の乱れた敵兵を次々と討ち取っていった。
「くそっ、罠か!」
マッカランは激しく動揺したが、すぐに冷静さを取り戻し指示を飛ばした。
「落ち着け! 隊列を整えろ、乱れるな!」
だが、森の中で突然挟撃され、隊列を立て直すことは不可能だった。戦況は一方的なものとなり、マッカラン軍は瞬く間に混乱に陥った。
戦場の只中、血と鉄の匂いがむせ返るように漂う中、ラフロイグは槍を構えたまま、馬上の巨躯を睨みつけた。
「これが――ヴェイルウッドの意地だ! 受けてみろ、帝国の狗め!」
マッカランは激昂し、地を揺らすほどの怒声で応じた。
「ほざけ、小僧! このマッカラン将軍を討てるものか!」
怒声と共に、将軍の大剣が振り下ろされる。空気を裂き、刃が雷鳴のような音を立てて迫る――だがラフロイグは半歩滑るように退き、その切っ先を槍の石突で叩き払った。火花が散る。耳をつんざく金属音が、喧騒の中でもはっきりと響いた。
次の瞬間、ラフロイグの槍先が蛇のようにしなり、将軍の兜の隙間を狙って突き出される。しかし、マッカランは豪腕で盾を振りかざし、その一撃を弾き返した。
「ぬぅ……速い!」
「お前こそ……重いな!」
互いの息遣いが荒くなる。槍が三度、四度と閃き、剣がそれを受け止める度に、地面の砂利が衝撃で跳ね上がる。背後では帝国兵とヴェイルウッド兵の叫びが交錯し、倒れた兵士の血が馬の蹄で泥に混じって飛び散った。
マッカランは馬を大きく旋回させ、一気に速度を乗せて突っ込んでくる。その巨剣が、目の前で稲妻のように振り下ろされた。ラフロイグは槍を横薙ぎに振るい、刃と刃がぶつかる瞬間、衝撃が腕の骨を震わせる。手の中の感覚が痺れ、握力が奪われそうになる――が、歯を食いしばり、踏みとどまった。
「まだだ……!」
槍を返す。足元の泥を蹴り上げ、再び将軍の脇腹を狙う鋭い突き。マッカランは剣を立てて防ごうとしたが、その動きがわずかに遅れた。槍先が鎧の継ぎ目を裂き、血しぶきが熱くラフロイグの頬を打った。
「ぐおっ……!」
巨躯が馬上から崩れ落ち、地面に叩きつけられる。それを見た帝国兵たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。武器が泥に落ちる鈍い音が、敗走の合図のように響く。
勝利の咆哮がヴェイルウッド兵から上がったが、ラフロイグはただ槍を地に突き立て、荒い呼吸の中で倒れた将軍を見下ろしていた。
砦へ戻ったカルア軍の兵士たちは、砦内に響き渡る歓喜の歓声で迎えられた。戦えない人々や避難していた仲間たちも帰還し、勝利を祝った。
「見事でしたぞ、殿下!」
バルバトスが感激した様子でカルアの肩を叩く。その眼差しは、一人の将軍として、新たな主君に対する深い敬意に満ちていた。
ヒューガルデルも満足げに髭を撫でた。
「空城の計とはな。兵法書にしか見たことがなかったが、本当に実践するとは。その胆力、老骨ながら感服いたしました」
「お見事、カルア!」
カリラも飛び跳ねて喜び、砦は笑顔と歓声に満ち溢れた。今回の勝利でカルア軍は大量の兵糧や武器、そして馬を手に入れた。それは反乱軍を支える重要な戦力となり、同時にカルアという智将の名はより一層広まった。
(まだ道のりは遠い。だが、この戦いが本当の始まりだ……)
カルアは確かな手ごたえを胸に、静かな決意を新たにしていた。その時、彼が胸に秘めたヴェイルウッドの紋章は、静かに、しかし確かに輝きを増していた。
そして、この勝利の報せは、一つの巨大な影を動かしていた。
「マッカランが、敗北……だと?」
黒曜宮の玉座で、アードベック大将軍が静かに、だが恐ろしいほどに冷たい声で呟く。その声には、怒りよりも深い、底知れぬ殺気が満ちていた。彼の顔には、一筋の笑みさえ浮かんでいなかった。ただ、感情というものを削ぎ落としたかのような、氷のような表情だけがそこにあった。
「ヴェイルウッドの小僧、貴様……私を本気にさせたな」
彼の周囲を、今までとは比べ物にならない、漆黒の殺気が満ちていく。それは、まるで巨大な黒い炎が燃え上がるようだった。ついに、カルアの前に、最強の敵が動き出そうとしていた。
かつて、この国を建国した英雄王の再来とまで称された男。彼は、若き反乱軍の王子を、蟻を踏み潰すがごとく容易く滅ぼすだろう、と誰もが信じて疑わなかった。だが、その男の顔には、もはや余裕の色はなかった。初めて真剣な眼差しで、遠い南の地を見つめている。
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