第6話 砦に満ちる決意
黒牙砦が奪還されたという報せは、冬の終わりを告げる春の使者のように、瞬く間に大陸中へ広まっていった。その知らせを耳にした者たちは、まるで磁石に引き寄せられるように続々と砦へと集結した。彼らが砦内へと招き入れられ、アガベ帝国軍が奪い、溜め込んでいた大量の兵糧が分け与えられ、熱いスープがその身を温めると、彼らの顔に徐々に生気が戻り始めた。
「本来、これは皆のものだ。帝国が盗み、囲い込んでいたに過ぎん」
カルアの言葉は、熱いスープのように人々の凍りついた心を溶かしていった。彼らは深く頷き、中にはすすり泣く者さえいた。砦内には、これまでにない温かな空気が満ちていった。
しかし、感傷に浸っている時間は、誰にも許されていなかった。アガベ帝国軍という巨大な鉄槌が、刻一刻と迫りつつあるのだ。
「殿下、時間がありません。今すぐ、この者どもを兵士に仕立て上げます」
バルバトスが前に進み出た。その老いた体躯は、しかし、かつての大将軍としての威厳を失っていなかった。鋭く輝く瞳には、再び剣を振るうことのできる喜色が宿っていた。
「頼む、バルバトス。みんなの命がかかっている」
カルアの声には、言葉以上の信頼が込められていた。
「承知いたしました。このバルバトス、鬼となって鍛え上げましょう」
バルバトスはそう告げると、即座に行動を開始した。
彼の采配は、無駄がなかった。兵士として戦える者たちは瞬く間に編成され、その技能に応じて各隊に振り分けられていく。馬術に心得のある者や、かつて兵士の経験を持つ者は、バルバトス自身が率いる精鋭の騎馬隊へと。若く頑強な男たちは、ラフロイグが率いる槍を主体とした歩兵隊へ。そして、狩猟や弓術に長けた者は、ボウモアが指揮する弓隊へとそれぞれ割り振られた。
カリラは、この時代に稀有な天馬騎士である。その機動力と、空から戦況を把握する能力は、偵察や奇襲といった重要な役割を単独で担うに足るものであった。また、ヒューガルデルはその卓越した魔力を最大限に発揮するため、精鋭からなる専属の護衛隊がつけられた。そして、カルアは各隊を統率し、来るべき戦いに備えて作戦を練る、総司令官となった。
砦の訓練場には、怒号にも似たバルバトスの声が響き渡っていた。
「貴様ら、それでも兵士か! 槍を持ったら身体の一部だと思え! 貴様たちの命は、その手にした槍にかかっているのだ!」
老将の指導は苛烈を極めた。かつては烏合の衆でしかなかった新兵たちの動きが、見る見るうちに統率され、一つの巨大な意志へと変わっていく。
「おい、ラフロイグ! 部下の士気が下がってるぞ、しっかり鼓舞しろ! 貴様は隊長だろうが!」
バルバトスの檄に、初めて隊を指揮する重圧に押し潰されそうになりながらも、ラフロイグは震える手で槍を高く掲げた。
「俺たちは弱者なんかじゃない! アガベ帝国の暴虐に屈した臆病者なんかじゃない! 俺たちは、自由を掴むために戦う戦士だ!」
その言葉に、若者たちは、自分たちの境遇への憤り、そして未来への確かな希望を込めた雄叫びを上げ、手にした槍を空へと突き上げた。その眼差しは、飢えた狼のように、獲物を狙う鋭さに満ちていた。
一方、ボウモアは、寡黙に、しかし確実に弓隊に技術を叩き込んでいた。彼の言葉は少ない。
「弓を引くのは力じゃない。狙い澄ました一射が、敵の指揮官を射抜けば、それだけで勝負は決まる。無駄な力を抜け。精度を上げろ!」
兵士たちは、彼の冷静な言葉に揺るぎない信頼を置き、着実に腕を上げていった。
その夜、カルアは砦の城壁に立ち、夜空に瞬く星々を見上げていた。吹き付ける夜風は、まだ冬の残り香を運んでくる。そこへ、ヒューガルデルが静かに歩み寄った。
「どうした、小僧。不安か?」
ヒューガルデルの言葉に、カルアは小さく息を吐いた。
「不安です。俺の一言で、みんなが命を懸けるんですから」
それは、指導者となる若者が必ず抱える、孤独と重圧であった。
「当然だ。指導者とはそういうものだ。だが、皆はお前の知恵と心に惹かれている。自信を持つがいい」
ヒューガルデルの優しい言葉に、カルアの心は少し軽くなった。
「ありがとうございます、ヒューガルデル殿」
「ふん、礼などいらん。――だが忘れるなよ。敵のマッカラン将軍は強敵だ。必ず奇策を準備しておけ。お前と同じ、頭脳で戦う男だ」
新たな敵の名を聞き、カルアは深く頷いた。
「はい」
翌朝も、砦には兵士たちの力強い掛け声が響き渡った。訓練を始めてからわずか数日。しかし、彼らの動きは驚くほど統率され、すでに一つの軍隊としての体裁を整えつつあった。彼らの顔には、もはや不安や怯えの色はなかった。そこにあったのは、己の未来を自らの手で切り拓く、強い意志の輝きであった。
砦を見渡すカルアの横で、カリラが小さく呟いた。
「カルア、砦の雰囲気、すっかり変わったね。数日前までは、ただの難民の集まりだったのに」
カルアは、優しく微笑んだ。
「みんな、守りたいものがあるからだ。俺も同じだよ」
そして数日後――。
丘の上から早馬が駆け下り、砦の門へと走り込んだ。その馬のいななきが、静まり返った砦内に緊張をもたらす。
「報告! マッカラン将軍率いるアガベ帝国軍、三千の兵がまもなくここに到達します!」
その報告を聞いた砦内には、再び張り詰めた空気が満ちた。しかし、誰一人として怯える者はいなかった。皆が静かに、だが確かな決意を胸に、カルアの命令を待つ。
カルアは、ゆっくりと深呼吸を一つすると、胸に秘めたヴェイルウッドの紋章を強く握りしめた。
「来たか」
カルアは、集まった全ての兵士たちに向かって、力強く告げた。
「ここからが、本当の戦いだ! 皆、俺に力を貸してくれ!」
砦に集まった兵士たちは、一斉に雄叫びを上げ、槍や弓を高く掲げた。それは、自由を求める、魂の叫びであった。一つの小さな希望の火種は、今、ついに帝国を揺るがす大きな炎となり、燃え盛ろうとしていた。
遠く、地平線の向こうから立ち上がる土煙が見え始めた。それは、三千の兵を率いて進軍する、アガベ帝国軍の姿に他ならない。
いよいよ、カルアの知略と、マッカランの知謀が、激突する時が来たのだ。
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