第5話 高まる波紋
黒牙砦を奪還したという報せは、風に乗って瞬く間に大陸中へ広まっていった。それは、抑圧され続けた人々の心の奥底に眠っていた、希望という名の火種に新たな空気を送り込むものであった。その報せは、静かな波紋を広げ、やがて巨大なうねりとなってカルアのもとに押し寄せる。
砦を奪取した翌朝から、周辺の街道には徐々に人影が増え始めた。それは、アガベに征服され、屈辱と抑圧を強いられた者たちだった。遠くの丘からは、家族と共に歩いてくる農夫の姿。その顔には、長年の重労働と不安が刻まれていた。傷ついた身体を引きずり、たった一人でやってきた元兵士。彼らの目には、死んだ仲間たちの無念が宿っていた。
「ヴェイルウッドの王子に、俺たちも続け!」
「帝国の圧政を終わらせる時が来た!」
決起の狼煙は静かな波紋を広げ、数日後には数十、数百と徐々に砦の周辺に野営のテントが並び始める。カルアたちが驚くほどの速さで、それは小さな軍勢のような光景ができあがっていった。カルアは砦の城壁から眼下を見下ろした。集まった人々の顔には、確固たる決意が浮かんでいる。その熱気が、冷たい春の空気を震わせた。
「なんだか、思ったより人が集まってきたな……」
カルアは驚きと戸惑いを抱えながら呟いた。たった一人の復讐が、いつの間にか多くの人々の運命を背負うものへと変わってしまっていたのだ。
「当然だ、殿下。皆、待っていたのですよ。アガベ帝国を倒せる英雄の登場を」
バルバトスは喜びを隠そうともせず、深い感慨と共に語った。その瞳は、故郷を蹂躙された恨みを晴らす機会を得た歓喜に満ちている。
「英雄、か……」
カルアは遠い目をする。自分には特別な力も魔法もない。頼れるのは、兵法の知識と、仲間たちの絆だけだ。それでも、人は自分を『英雄』と呼ぶ。その責任の重さに、カルアは身が引き締まるのを感じていた。彼は、この人々の希望を裏切るわけにはいかなかった。
「カルア、外の連中に顔ぐらい見せてやったらどう? みんなあなたに会いたがってるよ」
カリラの優しい声に後押しされ、カルアは意を決して砦の城門をくぐった。門の外では、人々が待ち構えていたように彼の前に道を開ける。
「カルア王子、俺たちを導いてくれ!」
「帝国を倒すまで、俺たちはあなたと共にある!」
歓声の中、一人の老いた農夫が必死に膝をつき、カルアの足元にすがった。
「王子、俺たちの村は帝国に焼かれた……妻も子も奪われたんだ。どうか、どうか仇を討ってくだされ!」
カルアは言葉もなく、その農夫に優しく手を差し伸べた。
「俺は必ずアガベ帝国を倒します。あなたたちの涙を無駄にはしません」
次々に上がる歓声にカルアの胸は熱くなった。同時に、この人々の命を預かる責任の重さが、彼の肩にずしりとのしかかる。彼の復讐は、もはや彼一人のものではなかった。これは、アガベ帝国の圧政に苦しむ、すべての人々の戦いなのだ。
(俺が背負うべきものは、思っていた以上に重いのかもしれない……)
カルアは、復讐のためではなく、この人々の未来のために戦うのだと静かに決意した。それは、ただの王子ではなく、真の指導者としての一歩を踏み出した瞬間であった。
一方その頃、アガベ帝国の中心地、黒曜宮では――。
巨大な黒曜石の玉座に腰掛けるのは皇帝ネグローニ。だが、その脇に立つ弟、アードベック大将軍こそが真の支配者だった。鋭い眼光で臣下を睨みつけるその姿に、臣下たちはまるで巨大な捕食者に睨まれた小動物のように震え上がる。
「何だと? あの黒牙砦が落ちただと?」
重臣の報告を聞いたアードベックの目には、激しい怒りが浮かんでいる。その巨躯は怒りで震え、玉座の床がミシミシと音を立てるほどの威圧感を放っていた。
「申し訳ございません! 敵は少数でしたが、計略によってまんまと我々を欺き……」
「ヴェイルウッドの残党ごときに、この私が出し抜かれるなど許せん!」
アードベックの怒声が宮殿内に響き渡り、臣下たちは顔を青ざめさせる。彼は無敗を誇る猛将であり、これまで彼に逆らった者はことごとく命を落としてきた。その絶対的な威信が、僅かな隙間から崩れかけている。その苛立ちが、彼の怒りをさらに増幅させていた。
「兄上、ただちに兵を集め、ヴェイルウッドの生き残りを根絶やしにいたします。帝国に楯突いたことを、骨身に染みるほど後悔させてやりましょう」
アードベックは低く唸るように言い、深紅のマントを翻して謁見の間を出て行った。彼の後ろ姿には、憤怒と共に抑えきれない殺気が溢れている。
黒曜宮の城門が重々しく開き、そこからは銀色の鎧を纏った騎兵や槍兵が次々に現れた。その数、三千。彼らは皆、皇帝の威光を傘に着て、これまで数々の戦場を血で染めてきた精鋭たちである。軍旗は風にはためき、全軍の士気は最高潮に達していた。その軍勢は、一つの王国を滅ぼすに十分なものであった。
数日後、砦に不穏な情報がもたらされた。
「カルア殿、帝国軍が動き出した。アードベック大将軍配下から智将で知られるマッカラン将軍が三千の兵を率いて、こちらに向かっているそうだ」
ヒューガルデルが深刻な表情で伝える。アガベ帝国の主力が動き出したことを意味していた。マッカランは、ただの将軍ではない。その知略はアードベック将軍にも劣らないと言われる、帝国の二枚看板の一人であった。
「三千……」
砦に集まった反乱軍は増えつつあるとはいえ、まだ数百にも満たない。この人数で正面からぶつかれば、確実に負ける。それは、誰もが理解している自明の理であった。
周囲の仲間たちにも不安な空気が広がる中、カリラが問いかけた。
「カルア、どうする?」
カルアはしばらく沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。その声は静かだが、鋼のような強さを持っていた。彼の瞳には、迷いの影は微塵もない。
「戦うよ。ただ、正面からぶつかることは避ける。俺たちには地の利も兵法もある。これまで通り、敵の心理を突き、翻弄して勝機を掴むんだ」
彼の目は迷いなく輝いていた。その眼差しにバルバトスもヒューガルデルも頷き、ラフロイグやボウモアたちの顔にも再び闘志が蘇る。
マッカラン将軍との決戦が迫っていた。カルアは胸に秘めたヴェイルウッドの紋章にそっと手を当て、静かに決意を固める。
(『横山三国志』で孔明が、あの司馬懿と戦ったように……俺は、この数で知将に挑んでみせる!)
かくして、ヴェイルウッド再興を掲げるカルアの軍勢と、絶対的な支配を誇るアガベ帝国アードベック大将軍――二つの勢力がついに正面からぶつかろうとしていた。それは、やがて世界を揺るがす大戦の、ほんの序曲に過ぎなかったのである。
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