第4話 火計と風計の協奏曲
雪解けを待たず、カルアたちはエアドールを離れた。彼らの眼前に立ちはだかる最初の障害は、黒牙砦。高くそびえる城壁と鋭い見張り塔が、あたかも獰猛な牙のように空を突き刺していた。
カルアたちは砦を見下ろす丘陵地帯に陣を敷き、その攻略法を練る。春浅い風が冷たい土の匂いを運び、バルバトスが吐き出した白い息が空気へと溶けていった。
「さすがにあの砦を正面から叩くのは無謀だな……」
重苦しい沈黙が、誰もが絶望的な状況を悟るに十分であった。アガベの兵士は精強であり、その武威を支えるのは、決して崩れることのない要塞。しかし、それはあくまで常識的な戦術を用いる者たちの話に過ぎない。
カルアはゆっくりと仲間たちの顔を見渡し、静かに、しかし自信に満ちた笑みを浮かべた。
「戦いの基本は、敵を分断することだ。敵が強大ならばなおさら、分けて戦う必要がある」
ヒューガルデルは頷く。老練な魔導師は、若者の言葉に耳を傾けることを厭わなかった。
「ふむ、兵法の理にかなっておる。『敵の備えあれば、これを攻めることなかれ』か。だが、小僧よ。アガベの兵士もそれほど間抜けではあるまい。そう簡単に砦を空けたりはせんぞ」
ヒューガルデルの懸念に、カルアは不敵に笑う。
「敵が自ら砦を空けたくなる理由を作ってやればいい。火計と風計だ」
「火計と風計?」
怪訝そうに聞き返したのはラフロイグだ。カルアは地面に地図を描きながら説明を続ける。
「砦の東側に兵糧庫がある。その近くには干草と薪が大量に積まれている。ヒューガルデル殿、四元素魔法の『火』は使えますか?」
「当然だ。それが?」
ヒューガルデルはやや不機嫌な声で答えた。
「兵糧庫を『火』で攻撃して欲しいんです。ただし、本気で焼き払うわけじゃない。あくまで敵を焦らせ、狼煙を上げさせるのが狙いです」
「なるほど、狼煙というわけか」
「ええ。そして敵が火の手を見て混乱した隙に、誘導組が砦の守備兵を外に引きずり出す。そこからが本番だ」
「だが、少人数でどうやって砦の内部を押さえるつもりだ?」
ボウモアの疑問に、カルアは地面に描いた地図の扉を指差す。
「俺たちは最初からまともに戦う気はない。守備が手薄になった扉をバルバトスとラフロイグが素早く突破する。カリラは上空から見張りを奇襲する。俺とボウモアは援護に徹する」
「まさに、少数ゆえの速攻作戦だな」
ヒューガルデルはゆっくりと頷いた。その瞳に、久しく忘れていた好奇心の色が浮かび始める。
「分かった。その『火』、私が演出してやろう。ただ、火計だけでは少々心もとないな」
「そこでもう一つ、『風計』があるんですよ」
カルアが指差したのは砦の北側、広大な平原だ。そこには、吹き抜ける風が草を揺らすばかりで、何の変哲もない光景が広がっている。
「ここから敵軍が接近していると見せかけるため、『風』の魔法で砂塵を巻き上げて欲しい。火が出たとしても、砦の指揮官は慎重な男だ。罠を疑って兵を出さない可能性もある。しかし、大軍が迫っていると見せかければ……」
「火と風で敵を惑わし、砦を空にさせるわけか……なるほど、考えたな」
ヒューガルデルは初めて心から楽しそうな表情を見せた。
夜半過ぎ――。静まり返った砦の外、茂みに隠れながら、ヒューガルデルは深く息を吸い込んだ。その手のひらに、小さな太陽のように眩い炎が灯る。
「四元素の火よ、怒りの業火となりて我が敵を惑わせよ――フレア・ブラスト!」
詠唱とともに、掌の中の炎は轟音を立てて兵糧庫近くの干草へと飛んだ。炎は弾けるように燃え上がり、瞬く間に紅蓮の炎となって空を焦がした。
「敵襲だ! 兵糧庫が燃えているぞ!」
砦内で混乱が広がる。指揮官らしき男は慎重でなかなか動かない。カルアは焦りを押し殺し、ヒューガルデルにアイコンタクトを送る。
「よし、もう一押しだ。ヒューガルデル殿!」
「承知」
ヒューガルデルは今度は大きく手を広げ、もう一方の手で印を結ぶ。その動きは滑らかで、まるで長年にわたり鍛錬された舞踏のようであった。
「四元素の風よ、砂塵の軍勢となりて敵の目を欺け――ストーム・ガスト!」
突如、北の平原から猛烈な砂埃が渦を巻いて巻き起こった。月明かりの下、それはまるで無数の兵士が進軍しているかのように蠢いている。その光景は、慎重な指揮官の心を揺さぶるには十分であった。
「北から敵襲だ! 大軍だ!」
「何!? あれが本隊なのか! 火計は陽動だったのか!全軍、北へ迎え!」
指揮官の表情に焦りが浮かぶが、それは恐怖ではなく、敵が陽動を使うほどの大規模な作戦を仕掛けてきたことに対する戦意の高揚だった。彼は、自分たちが少数精鋭で本体を蹴散らせると信じていた。その自信が、彼の目を曇らせる。
「まさか、ヴェイルウッドの残党がここまでやるとはな!だが、その程度では我らを打ち破れん!」
指揮官は高らかに叫び、熱狂した兵士たちの歓声にかき消されていった。
「全軍、北へ出撃! この戦い勝利は我らのものだ!」
砦の部隊が外へ駆け出していく。その様は、まるで獣が餌を求めて飛び出すかのようであった。
「今だ、砦を突くぞ!」
カルアの合図で、バルバトスとラフロイグが猛然と突撃する。バルバトスの大剣が守備兵を蹴散らし、ラフロイグが槍で巧みに援護する。上空からはカリラが天馬と共に急降下し、見張り塔の兵士を次々に倒していった。ボウモアは遠くから巧みな狙撃で敵兵を混乱させ、カルア自身も短剣を握って敵兵の背後を回り込み、素早く砦の扉へと駆け込んだ。
その混乱はわずかな時間で鎮まり、気がつけばカルアたちは砦の中央に立っていた。アガベの旗が下ろされ、新たにヴェイルウッドの紋章を染め抜いた旗が掲げられる。外に出払った敵兵が異変に気づき戻ろうとするが、すでにカルアたちは堅固な城門を閉ざし、守りを固めていた。
「少人数で砦を落とすなんて……本当にやり遂げるとはな」
バルバトスが感慨深げに呟くと、ヒューガルデルも軽く髭を撫でて笑った。
「火計と風計の協奏曲、見事なものだった。……いや、小僧の策がなければ、わしの魔法もただの火遊びに終わっていたわ」
「いえ、あなたの魔法のおかげです」
カルアは謙虚に笑ったが、その胸の内には静かな自信が満ちていた。
(横山三国志の周瑜と孔明のように、俺もヒューガルデル殿と力を合わせれば、どんな強敵にも勝てる!)
こうして、小さな反逆の狼煙はついに巨大な炎へと姿を変え、反乱軍の存在を広く天下に示したのである。この勝利は、アガベ帝国を震撼させ、やがて来るべき巨大な嵐の前触れに過ぎなかった。そして、その嵐の渦中で、いつかカルアは宿敵と相対することになるのだった。
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