第2話 隠樹峡の戦い
エアドールの山間を縫う細い山道、村人たちが『隠樹峡』と呼ぶその道は、切り立った岩肌と不気味なほど密生した樹木に囲まれていた。湿った土の匂いが鼻につき、崖上から滴る水滴が、死者の指先が墓石を叩くかのように重く湿った音を響かせる。昼間でも陽光は届かず、薄い藍色の光が辛うじて谷間を照らすばかり。この場所は、人間が踏み入ることを拒絶しているかのようだった。
こここそが、カルアが選んだ決戦の地だった。
彼は、この地形を地図で見た瞬間、脳裏に一つの計略を思い描いた。それは『孫子の兵法』や『三国志』の英雄たちが活かした『地の利』。彼にとって、兵法書や歴史書は過去の成功例を学ぶ手立てに過ぎない。重要なのは、その知識をいかに現実に応用するか、だった。
「カルア、本当に奴らはここを通るのか?」
ラフロイグが槍を握りしめ、不安げに問う。その声は微かに震えていた。初陣を前にした、少年らしい怯えが滲み出ている。だが、ラフロイグは目を逸らさなかった。カルアは静かに頷いた。内心では胸の奥が締め付けられるようだったが、その表情は冷静そのものだった。
「ああ、間違いない。敵は斥候部隊だ。村への最短ルートを取るなら、必ずこの隠樹峡を通る。奴らは俺たちを、ただの掃き溜めに潜むネズミだと思っている。だから、この道が罠だなどとは、考えもしないだろう」
「だが、この道は狭すぎて、大人数は動きにくい。俺たちにも不利じゃないか?」
ラフロイグの不安はもっともだった。もし失敗すれば、この村は、この仲間たちは……。カルアの脳裏に、三年前の血と炎の記憶がフラッシュバックする。あの絶望を、二度と繰り返してはならない。
「その『動きにくさ』がいいんだ」
カルアは不安を振り払うように不敵な笑みを浮かべた。その笑みは、絶望の淵から這い上がってきた者だけが持つ、痛みを乗り越えた強さの表れだった。
「地の利は、我らにありだ。この狭い谷間は、大軍にとっては進路を阻む枷となる。だが我々にとっては、敵の動きを封じる檻となる。そして、その檻の中で、我々は敵を屠る」
彼の言葉に、バルバトスは何も言わず、ただ重々しく頷いた。その目は、かつてヴェイルウッド王国の戦場で幾度となく敵を屠ってきた猛将のそれだった。
「まずカリラ、君は天馬で上空に待機してくれ。敵が道の中央まで来たら、背後を奇襲する」
「了解。任せて、カルア」
天馬に跨ったカリラは、小さく微笑んだ。カルアが自分を頼ってくれた。その信頼に応えたい。真っ白な翼が風を捉えると、彼女は音もなく山の峰を越えて姿を消した。
「ボウモア、君は崖の上から射掛けろ。だが、敵を倒す必要はない。敵を混乱させ、隊列を崩すことだけを意識してくれ」
「ああ、任せてくれ。動揺させることならお手の物だ。なにせ、俺の弓は……」
ボウモアは意味深に呟くと、小柄な体に似合わぬ巨大な弓を軽々と担ぎ、すぐに崖上へ消えた。その自信に満ちた背中からは、ただならぬ気迫が感じられた。
「バルバトスとラフロイグは俺と共に前方で敵を引きつける。無理に戦わず、敵がこちらに集中したら合図を出す。その時に、一気に挟撃を仕掛ける」
ラフロイグは槍を握る手が震えるのを感じた。しかし、隣に立つカルアの静かな瞳を見ると、不思議と心は落ち着きを取り戻した。
(俺は、弱いままじゃいられない。この人を、この村を守るんだ)
固い決意を胸に、ラフロイグは震える手を抑え込んだ。
数刻後。
深い霧のような沈黙を破り、金属が擦れる音と馬蹄の響きが近づいてきた。アガベ帝国の小隊だ。敵はおよそ二十名。指揮官は鬚面で眼光鋭い男だった。甲冑が鈍く光り、尖った槍を揃えた兵士が、油断なく進んでいる。彼らは、自らが罠に嵌められようとしていることなど、夢にも思っていないだろう。それが、この世で最も恐ろしいことの一つなのだ。
「村は近いな。殿下が言っていた少年――ヴェイルウッドの残党とやらも、所詮は田舎の掃き溜めに潜むネズミよ。一思いに踏み潰してやれ!」
気勢を上げる敵兵たち。その時、カルアは崖上のわずかな動きを見逃さなかった。ボウモアが矢を番えたのだ。
鋭い風切り音と共に、一本の矢が指揮官の兜をかすめた。矢羽がかすかに兜を掠め、金属音が響く。その音は、まるで鋭利な刃物で薄いガラスを叩いたかのように、冷たく澄んでいた。
「なっ……何者だ!?」
崖上を見上げ、叫ぶ指揮官。直後、再び数本の矢が兵士たちの足元や甲冑に降り注いだ。矢には鈍い金属音が鳴り響く。だが、誰一人として倒れていない。ボウモアは敵兵を殺すのではなく、ただ恐怖を植え付けることに徹していた。
「敵襲か!? 伏兵だ!」
混乱が広がり、兵たちは右往左往する。指揮官が声を荒らげたその瞬間、道を塞ぐように現れたのがバルバトスだった。その後ろにはラフロイグ、そしてカルアが静かに立っている。
「お前たちが探している少年は私の後ろにいるぞ。欲しければ、このバルバトスを倒してからにしろ」
バルバトスの姿を認め、敵指揮官の顔色がにわかに変わる。
「……バルバトスだと? ヴェイルウッドの亡霊めが!」
指揮官は怯えと怒りで顔を赤く染め、兵士たちに突撃を命じた。
「今だ!」
カルアが短く角笛で合図を送った瞬間、背後から天馬に乗ったカリラが猛烈な勢いで敵兵の後方に降り立った。鋭い剣が空を切り裂き、兵士数名がたちまち悲鳴を上げる。同時に天馬の鋭い爪が、敵の盾を弾き飛ばした。
同時に、崖上から再び矢が降り注ぎ、敵の隊列は完全に崩れた。道が狭いため、兵士たちは逃げ場を失い、混乱の極みとなる。敵の動揺を見たバルバトスが、まるで竜巻のように飛び込み、巨大な剣を振るう。その一撃で数名の兵士が吹き飛び、隊列は更に崩壊していく。ラフロイグも震える手を奮い立たせ、敵兵の槍を巧みに払い、脇腹を一突きした。
(やった……! 俺でも、やれるんだ!)
小さな達成感が、少年の心を熱く燃え上がらせた。
「退け! 一旦退け!」
混乱した敵指揮官は必死に叫び、兵を引き連れて逃げ始めた。道の狭さゆえに互いが邪魔となり、撤退は無様な潰走に変わる。
それを見届けたカルアは、ようやく安堵の息を吐いた。
「勝った……初陣だ。これが俺たちの、最初の勝利だ」
バルバトスがカルアの肩を叩き、黙って頷いた。その目は、どこか遠い故郷の空を見ていた。
「だが、気を抜くな。アードベックの奴は……こんな手ぬるい男じゃない」
バルバトスの言葉に、カルアは再び気を引き締める。この小さな勝利が、反撃の狼煙になる。
「ああ、分かってる」
カルアは胸元の紋章を握りしめ、曇り空を見上げた。反撃の狼煙は上がった。だが、この小さな火種を、すべてを焼き尽くす炎に変えるには……。
カルアの脳裏に、『三国志』の英雄たちが示した思慮深さが蘇る。それは、勝利の後にこそ、次の一手を冷静に考えるべきだという教訓だった。
(まだだ。この程度の勝利では、アードベック大将軍の足元にも及ばない。これはまだ、奴の注意を引くための、ほんの挨拶に過ぎない)
彼は、この勝利が、更なる強敵との戦いの始まりであることを、すでに予感していた。そして、その予感は、この後すぐに現実のものとなるのだった。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
いいね、ハート、応援、コメント、ブックマーク等貰えると凄く嬉しいです。