第1話 旅立ちの日
朝靄が薄く谷間に漂い、辺境の村を乳白色のヴェールで包んでいた。夜明け前の空は深い紫色から茜色へと変わり、一日の始まりを静かに告げているようだった。
三年前のあの日から、もう三年――。
父王の最期の言葉と、血染めの紋章を手に辛くも逃げ延びた彼は、元軍団長バルバトスと共に、このエアドール辺境の、何の変哲もない村に身を寄せていた。ヴェイルウッドの王子としてではなく、ただの「カルア」という、ごく普通の村の少年として。三年の月日は、彼の内面を強靭なものへと変えていた。父を失った悲しみ、国を奪われた無力感、そして祖国を取り戻すという使命感が、彼のすべてを支配していた。
彼は来る日も来る日も剣を振り、この世界の歴史書や兵法書を読み漁る日々を過ごした。しかし彼が本当に磨き上げていたのは、この世界には存在しない、前世の知識だった。愛読した漫画『横山三国志』、そして暗記した兵法書『孫子の兵法』。一見すれば役に立ちそうもないそれらは、彼にとって唯一無二の武器となっていた。
「人生イージーモード」という甘い幻想は、彼の心にもはや微塵も残っていなかった。己の弱さを知り、そこから目を逸らさず、ただひたすらに、自分が持つ唯一の武器を研ぎ澄ませていたのだ。それは、やがて来るべき戦乱の世で生き抜くための、たった一つの鋭い爪だった。
「殿下、――いや、カルア。そろそろ時間だ」
野太く低い声が、朝の静寂を破った。振り返ると、どっしりとした体躯に、鍛え抜かれた筋肉が衣服を押し上げるような壮年の男、バルバトスが厳しい表情で立っている。三年の歳月が刻んだ幾筋もの深い皺は、まるで風霜に耐え、嵐に逆らい続けた古木のようだった。
「バルバトス、その『殿下』はやめてくれよ。……今日はもう、ただのカルアとして出発するんだ」
カルアは軽く肩をすくめ、笑ってみせた。だが、その瞳の奥には、確固たる決意の光が宿っている。それは、まるで夜明け前の空に瞬く、最後の星のような静かな輝きだった。
「確かに。だがな、俺にとってはいつまで経とうと、あの日から変わらず殿下は殿下だ。どこへ行こうとも、この命ある限りお守りいたします」
バルバトスの口調は硬い。しかし、その眼差しには深い忠誠と、まるで息子を見守るかのような親愛の情が宿っていた。照れくささを隠すように、カルアは再び視線を東へ戻した。
今日は、三年の修行を終え、この村を旅立つ日だ。敵の目を欺くためにあえて選んだ辺鄙な土地だったが、アガベ帝国の魔の手は既にこの穏やかな村にまで伸びつつあった。
「おーい、カルア! バルバトスさん! 準備できてるぜ!」
丘の麓から、若々しく、しかし以前よりも力強さを増した声が響く。ラフロイグだった。背丈が伸び、がっしりとした身体つきになった彼は、磨き上げられた木製の槍を片手に、こちらへ駆け寄ってくる。その隣には、狩人の息子ボウモアが、細い目をいっそう細め、短弓を肩にかけ穏やかに微笑んでいる。彼らの顔には、この三年間、共に汗を流し、苦楽を共にしてきた誇りが滲んでいた。
ラフロイグの元気な声に応じるように、空から鋭くも優雅な旋回を見せながら、一頭の純白の天馬が舞い降りてくる。手綱を握るのは、美しい金色の髪を靡かせた少女――村長の娘カリラだった。
「ちょっとラフロイグ、朝っぱらから騒がないでよ! カルアだってこれから色々考えなきゃいけないんだから」
天馬から軽やかに飛び降りたカリラは、つんとした口調でラフロイグを睨みつけた。三年前、彼女はカルアより小柄だったが、今ではすっかり女らしい姿となり、その勝気で華やかな雰囲気は、仕草の一つひとつにも滲み出ている。
「なんだよカリラ、俺だって今日から騎士候補として、カルア軍の槍になるんだぜ。気合入れちゃ悪いか?」
「槍っていうより、ただのお調子者にしか見えないわ。まあ、その勢いだけは認めてあげるけど」
「まあまあ、二人とも、旅立ちの朝くらい仲良くしたら?」
穏やかに言葉を挟んだボウモアに、二人はぷいと背中を向けた。
そんな微笑ましい光景に、カルアはわずかに胸が和らぐのを感じた。血統も地位も関係なく、ただ「カルア」という少年を信じてくれた、家族に等しい存在。彼らとの出会いは、この三年間で得た何よりの宝だった。
「よし、じゃあそろそろ行こう。帝国軍の斥候が村の近くまで来ている。急がないとな」
カルアの真剣な表情に、全員が引き締まった顔で頷いた。その時、彼の胸元で、父から託された紋章が僅かに輝いた。それは、まるで運命の歯車が回り始めたことを告げているかのように、カルアの鼓動と共鳴しているように感じられた。
それを視界の端に捉え、バルバトスがわずかに眉を寄せた。彼だけが、その紋章が持つ本当の意味――隠された秘密の一端を知っていたのかもしれない。しかし、今はそれを語る時ではない。
「さあ、行こうか。最初の勝負は目の前だ」
剣も魔法も大した成長は見せられなかったが、徹底的に鍛え抜かれた知略があった。この世界にはない発想から繰り出される彼の計略を、仲間たちは「カルアの奇策」と呼んでいた。それは、アガベ帝国が誇る騎士団の武力をもってしても、決して容易には打ち破れない、若い王子が持つ唯一にして最大の武器だった。
旅路の果てにある真実も、父から託された紋章の意味も、彼はまだ知らない。だが、一つだけ確信していたことがある。
(アードベック大将軍……お前が武力で全てを蹂躙するなら、俺は『横山三国志』の計略と『孫子の兵法』の知識でその武力を打ち破る。待ってろよ、必ず倒してやる)
カルアの瞳は、夜明けの陽光を受けて、強く、そして鋭く輝いた。それは、もはや単なる復讐の炎ではなかった。新しい世界で、新しい仲間と共に、新しい戦いを始める若き王子の、静かな、しかし確固たる決意の光だった。
村を背に、彼らはゆっくりと歩き始める。やがて、その背後で、静かな村の姿は、徐々に朝霧の中へと溶け込み、消えていった。
そして、その霧が晴れる時、彼らはもう、後戻りのできない戦いの渦中にいるだろう。彼らの行く手には、血と泥にまみれた戦場が待ち受けている。しかし、彼らの胸には、夜明けの光のように、希望の炎が静かに燃え始めていた。
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