第21話 炎の剣、帝都へ
北の凍てついた大地を後にして、アガベ帝国軍は黒曜宮へと急行していた。大将軍アードベックの号令のもと、土埃を巻き上げながら進む一糸乱れぬ行軍は、百戦錬磨の精鋭たる威容を誇っていた。しかし、その規律正しい隊列とは裏腹に、兵士たちの心には焦燥と苛立ちが渦巻いていた。
将軍の一人、スミノフが、馬をアードベック大将軍の傍らに寄せた。
「大将軍、このまま黒曜宮に戻る必要がございましょうか」
スミノフの声は、苛立ちを抑えきれずに震えている。
「カルアの軍勢は、今やグレンリヴェットから出たばかり。追撃すれば、奴らを容易に叩けるかと。すでに双将を破った手前、我々が先手を打たねば、帝国の威信に関わります」
しかし、アードベックは振り返りもせず、ただ前方の地平線を見据えている。その背中から放たれる、氷のように冷たい威圧感に、スミノフは言葉を続けることを躊躇した。
「奴は、もはや単なるゲリラではない」
アードベックの口から出たのは、それだけだった。その静かな声には、一万の軍を破った相手に対する、侮蔑とは異なる、ある種の敬意がにじみ出ていた。
「既に一万の軍を破った相手だ。そして、奴の狙いは我々の首ではない。帝国の心臓部、黒曜宮へと兵糧を運ぶための琥珀の砦だ」
アードベックは、まるで未来を読み解くかのように言い放つ。その冷徹な声に、スミノフは思わず息をのんだ。
「砦を落とされれば、我々は補給を絶たれ、孤立する。だからこそ、奴はグレンリヴェットから動いたのだ。我々をこのまま北へ釘付けにして、悠々と砦を落とすつもりだったのだろう。だが……」
そこで一度言葉を切ると、アードベックは自嘲気味に笑った。
「私がそんな愚かな真似を、見過ごすと思っているのか」
「しかし、砦の守備は堅牢。それに、我が軍が援軍に向かえば……」
「それこそ、奴の思う壺よ」
アードベックは、ピシャリと言い放った。
「救援に向かえば、奴は我々の主力を分断し、各個撃破を狙ってくるだろう。戦の原則は、兵力の集中だ。それを自ら捨ててどうする。愚かな真似を、この私がするか」
アードベックは、冷酷なまでに合理的だった。彼は、援軍を送らず、あえて砦を捨て駒とすることで、カルアを黒曜宮へと引きずり込む策に出たのだ。
「面白い。これほどの策士、王子の血か、それとも地獄が育てたか……」
アードベックは、遠い空の彼方に目を向け、不敵に笑った。
「全軍に告ぐ。急ぎ黒曜宮へ向かえ。奴を誘い込む、最高の餌を用意するのだ」
その号令が響き渡ると、アガベ帝国軍は一刻も早く帝都へと辿り着こうと、行軍速度をさらに速めた。砂塵が舞い上がり、まるで巨大な竜が大地を這い進むようだった。
その頃、琥珀の砦では、カルア軍の進撃が始まっていた。
「孫子に曰く、『虚を攻める』。琥珀の砦は確かに堅牢だ。だが、兵糧はあっても水がなければ、士気は落ちる」
カルアは、ヒューガルデルの魔導師隊に、砦の地下水脈を操るよう命じた。水は、兵士にとって命そのもの。それが絶たれれば、いかに堅固な砦でも、内側から崩壊が始まる。
一方、ピーテッド率いる戦車隊は、轟音を響かせながら砦の周囲を巡回し、敵の偵察兵を容赦なく蹴散らしていた。見たこともない戦車に、敵兵は恐れおののき、近づくことすらできない。
ラフロイグ、ボウモア、カリラといった古参の将たちも、カルアの指示で別働隊を率い、周辺の小規模な砦を次々と陥落させていく。
別働隊から帰還したタリスカーが、カルアに訝しげな表情で尋ねる。
「カルア様。アガベ軍は援軍を送りません。これは一体……?」
「……アードベックは、琥珀の砦を囮にするつもりだ」
カルアの口調は、感情を抑えつけたように静かだった。
「我々を黒曜宮まで誘い込み、一気に叩き潰すつもりだろう。この砦の価値よりも、我々をここで叩く価値の方が、彼にとっては大きい」
カルアは、アードベックの思惑を読み解きながらも、その表情に焦りの色は一切なかった。むしろ、すべてを織り込み済みだという、確信に満ちた静かな笑みを浮かべていた。
「だが、奴の狙いは黒曜宮だ。ここを落とさねば、兵糧は尽き、我々も行き詰る。この罠に乗らぬわけにはいかぬ」
カルアは、すぐさま使者を送り、降伏を勧告。水と補給を絶たれた砦の守備隊は、もはや戦意を喪失していた。戦わずして負ける。これほど屈辱的なことはない。しかし、兵士たちは飢えと渇きに耐えかね、ついに白旗を掲げた。
数日後、琥珀の砦は、一滴の血も流さず、ついに無血開城する。
砦の門が開かれたその瞬間、夕陽に照らされたタリスカーの剣が、再び炎のように輝いた。その光は、まるで勝利を祝福するかのように、辺り一面を赤く染め上げていく。
砦の中に足を踏み入れたカルアは、その堅牢な造りに静かに舌を巻いた。
「これほどの砦を、無血で落とすとは……。カルア様。やはりあなたは、伝説の英雄です」
ディサローノが、感嘆の声を上げる。兵士たちも歓喜に沸き立ち、勝利を祝い合った。しかし、カルアの表情は冴えなかった。彼は、遠い地平線の彼方を見つめている。
「伝説など、私には関係ない。私はただ、滅びた国を再興させたいだけだ。そのために、いくつの命を犠牲にすることになるのか。いや、むしろ、それを知った上で進むしかない」
そして、彼の視線の先には、難攻不落の要塞、黒曜宮が霞んで見えていた。その巨大な影は、まるで不気味な獣が口を開けて待ち構えているかのようにも見えた。
「アードベックよ、お前の狙いはわかっている。だが、私はあえて、その罠に乗ろう。そして、その首を狩り取るのは、この私だ。あるいは、私を討ち取るのがお前かもしれぬ。どちらに転ぼうと、私はこの道を行く」
カルアの瞳が、炎のように燃え上がる。それは、亡国の王子が、自らの手で新たな時代を切り開く、新たな戦いの始まりを告げる光だった。
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