第10話 閉ざされた水門と流れの兆し
グレンリヴェットの街並みは、銀蒼の砦を発ったカルアたちの目に、まるで異世界のように映った。石畳の道は端正に敷かれ、白壁の建物が水路の両脇に並んでいる。家々の窓辺には色とりどりの花が飾られ、どこか夢の中にいるような静けさが支配していた。街の中心を流れる澄みきった運河には白鳥が優雅に泳ぎ、行き交う人々の表情に、戦火の影は微塵もなかった。
あまりに現実離れした光景に、カルアは思わず自身の手に宿る古びた紋章を握りしめた。冷たい金属の感触が、彼が戦いの渦中にいることを思い出させる。
「……この平和を壊したくないという気持ちも、わからなくはないな」
ヒューガルデルが、憮然とした顔で呟いた。だが、それは現実から目を背ける理由にはならない。この平和が、どれほどの犠牲の上に成り立っているかを、カルアは知っていた。彼は強く拳を握りしめた。
王族との会見を求め、王宮の門前で交渉を試みたが、城の門番は取り付く島もなく冷たかった。分厚い鉄扉の隙間から聞こえる声は、感情を排した無機質な響きを持つ。
「申し訳ありませんが、国外の武装勢力との謁見は受け付けておりません。これは国家の方針であり、陛下のご意向です」
淡々とした声。門番の背後に立つ、痩身の男がいた。彼こそが、グレンリヴェットの宰相、デュワーズ。高く尖った鼻、薄く引き結ばれた唇、そして冷えた眼差しの奥に、打算と保身の光が揺らめいていた。
「ヒューガルデル殿。かつてはヴェイルウッドの宮廷魔導士だったと伺っております。あなたのご威光に敬意は払いますが……戦火を国内に招くことは、王家としても看過できません。どうかご理解を」
「……王家の意思、というより、貴様の判断だろうな」
ヒューガルデルの皮肉に、デュワーズは表情一つ変えず、ただ一言、冷たく返した。
「ご随意に」
それだけを告げると、宰相は音もなく門の奥へと消えた。門番は、再び扉を閉ざし、外界の喧騒を遮断した。
城下の路地裏、濃い霧のような失望が漂う中、カリラが口を開いた。
「……どうする、カルア?」
返事はなかった。誰もが、どうにもならない現実を噛み締めていた。
「……待て。誰かこちらに来るぞ」
ボウモアが身構え、ラフロイグが手を槍にかけた。だが、現れたのは鎧を身にまとった、堂々たる男だった。銀の刺繍が施された濃藍のマントを翻し、彼は迷いなくカルアの前に立つ。デュワーズが煮え切らない水ならば、この男は沸き立つ鉄のようであった。
「ヴェイルウッドの王子、カルア殿か?」
鋭いが澄んだ声。そして、その背には十数人の兵が従っていた。
「……そうですが、あなたは?」
「タリスカー・ローディア。グレンリヴェットの南方ローディアの領主にして騎士爵。王都の貴族議会では何度もアガベ帝国の脅威を訴えてきたが、門前払いばかりだった。この国を蝕む保身という病から救うため、私は離反する。お前たちに与すると決めた」
カルアは目を見開いた。
「正義と平穏が共存しえぬなら、私は正義を取る。それに……」
タリスカーは、人払いのために少し距離を取らせると、声を潜めて続けた。
「この国には、“水の姫巫女”がいる。王宮の奥に幽閉され、表には一切出されないが……彼女は未来を視るという」
「未来を……視る?」
ヒューガルデルがわずかに眉を動かす。魔法の範疇を超えた、神聖な力。老魔導師の心に、新たな好奇心が芽生えた。
「ああ。王家の直系。正統な血筋を持つ神託の巫女。その名は――ルアナ。三年前、突然表舞台から姿を消したが……私の密偵が掴んだ話では、彼女が『銀蒼の紋章を抱く少年』の夢を幾度となく語ったという」
「まさか……」
カルアの背筋に、冷たい風が通り抜けた。――紋章を抱く少年。それは、紛れもなく自分のことだった。
「彼女はおそらく、何かを“知っている”。未来だけではない、アガベ帝国の真実すらも……」
「その姫巫女に、会わせてくれるか?」
カルアの問いに、タリスカーは静かに頷いた。
「それは今、我々が成すべき“次の一手”かもしれん。王宮の裏庭へ通じる古い水路がある。三日後の新月の夜、そこから潜入する。だが、その先に待つものは……」
タリスカーはそこで言葉を切ったが、カルアにはその続きが容易に想像できた。
「どんな危険があろうとも、行くよ」
カルアの言葉に迷いはなかった。彼女が知る真実が、すべてを変えるかもしれない。グレンリヴェットを動かす鍵は、王でも宰相でもなく、囚われし「水の姫巫女」ルアナという存在だった。
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