第9話 銀蒼の名を冠して
夕闇が迫る「黒牙砦」の中庭。日が山々の向こうに沈み、空は燃えるような緋色から、静謐な藍色へとその色を変えていく。一日を締めくくる安らぎが、香ばしい煮込み料理の匂いと共に砦全体を包み込んでいた。
「ねえ、カルア。ずっと思ってたんだけどさ――」
カリラがぽつりと口を開いた。カルアは、傍らの薪に火をくべながら、視線だけを彼女に向けた。
「“黒牙砦”って名前、変えたくない?」
唐突な提案に、カルアは薪をくべる手を止め、きょとんとした顔でカリラを見つめた。
「変えるって……?」
「だってさ、“黒牙”なんて、いかにもアガベ帝国がつけそうな、おどろおどろしくて物騒な名前じゃない? 砦はもう、私たちのものなんだし、私たちに相応しい名前にしようよ」
カリラの言葉は、鳥のさえずりのように軽やかでありながら、カルアの心に深く響いた。彼は顎に手を当てて考え込んだ。
「ふむ……言われてみれば、確かに。あの名前は……呪いのような響きすらある」
隣で腕組みをしていたラフロイグが、静かに頷いた。
「せっかく希望を胸に集まってきてくれる人たちに、帝国の名残を感じさせるのは本意ではない。ここは、彼らの故郷となる場所なのだから」
ボウモアが低く、しかし確固たる声で問う。
「ならば、新しい名は、どうする?」
カリラはにんまりと微笑み、夕焼けの残照が滲む空を指差した。
「“銀蒼の砦”って、どう? あの日、私たちがこの場所で見た、まるで光を秘めたかのような、真っ青な空の色。希望の砦、って感じがするでしょ?」
その言葉に、それまで沈黙していたカルアは、ゆっくりと、しかし確かな喜びを込めて微笑んだ。
「……いい名前だ、カリラ。『銀蒼の砦』。俺たちの旗に相応しい」
その夜、カルアは砦の広場に人々を集め、夜空に響く力強い声で宣言した。
「この砦は、もはや帝国のものではない。我ら、ここに集いし者の故郷である! これからは――“銀蒼の砦”と名乗る!」
瞬間、広場は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。皆が涙を浮かべながら、固く拳を握りしめた。単なる石の塊にすぎなかった砦が、人々の魂の拠り所となり、その名を得た瞬間であった。
数日後、銀蒼の砦に緊張が走った。戦況を見据えるための軍議が、バルバトスを中心に開かれたのだ。戦力は徐々に整いつつあるものの、未だアガベ帝国と正面から衝突するにはあまりに脆弱である。砦を守り抜くためには、まず後背の安全を固め、同盟勢力を得る必要があった。
「殿下、ここから南東へ八十リーグ。かつてヴェイルウッドと盟を結びし国、水の都グレンリヴェットがございます」
バルバトスの低く、重厚な声が広間に響き渡る。
「“水の都”か……。確かに、帝国からは遠く、いまだ独立を保っているはずですね」
「はい。地勢上、帝国の進軍が難しく、いまだ侵攻を受けておりません。かつての誼を信じるならば、同盟の道はあるかと」
バルバトスの言葉に、ヒューガルデルもゆっくりと頷いた。
「グレンリヴェットは貿易で栄える都。武力よりも理で動く連中だ。話し合いの余地はあるだろうな。ただし、奴らは強欲だ。相応の対価がなければ、首を縦には振るまい」
ヒューガルデルの忠告に、カルアは静かに頷く。
「なら、俺が行く」
カルアの声は、広間の空気を一瞬にして引き締めた。
「ここに来てくれた人たちを裏切りたくはない。だが、ただ守るだけでは帝国に押し潰される。だから――この砦を守るため、そしてここに集まってくれた人々の希望を守るため、俺たちの力を広げる」
その言葉に、誰もが頷いた。
バルバトスは砦に留まり、なおも集まってくる民と兵を迎え入れ、来るべき戦に備える。一方、カルアは選抜された騎馬隊二十騎を引き連れ、ラフロイグ、カリラ、ボウモア、そしてヒューガルデルと共に、遠く水の都グレンリヴェットを目指すこととなった。
旅立ちの朝。銀蒼の砦には、まだ薄い朝霧がかかっていた。遠くに見える山並みは、まるで水墨画のように淡い色合いを帯びている。カルアは馬上で一度、砦の門を振り返った。新たな名を得たその砦は、もはや単なる石の塊ではない。それは人々の希望の象徴、彼らの心の光となって、そこに堂々と佇んでいるように思えた。
門の前では、バルバトスが無言で彼を見つめていた。
「頼んだぞ、バルバトス」
「殿下こそ、決して無理をなされぬよう」
その言葉に、ボウモアがぼそりと呟く。
「……言っても無駄ですよ。あの男の辞書に、『無理』という言葉はない」
カリラが軽く笑う。その笑い声は、朝の冷たい空気を温めるようだった。
「ねえ、ヒューガルデル。水の都って、やっぱり水が綺麗なのかな?」
「うるさい。馬の上で喋るな。口を動かす暇があったら、馬と対話でもしてみろ。それとも、魔力を蓄えるかだ」
「ひどーい!」
子供のように軽口を叩き合う仲間たちを、カルアは穏やかな目で見つめた。そして、再び前を向く。
(希望の砦を守るには、希望の仲間が必要だ。たとえ困難が待っていようとも、俺は、この足で道を拓く)
「進め!」
カルアの声が、静かな朝の空気に響き渡った。二十数騎の馬が、一斉に大地を蹴る。蒼い空の下、銀蒼の砦から放たれた旅路は、静かに、しかし確かに、世界を動かそうとしていた。
それは、カルアの知略が、再び新たな試練に晒される旅路であった。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
いいね、ハート、応援、コメント、ブックマーク等貰えると凄く嬉しいです。




