序章 鏡の中の私
# 碧い眼の日本人 ―サーシャ、産まれは青葉市―
## 序章 鏡の中の私
朝起きて鏡を見るたび、青葉サーシャはため息をつく。
「はぁ…今日も私、私じゃない」
鏡に映る少女は、肩まで伸びた金色の髪に、澄んだ碧い瞳。高い鼻筋に色白の肌。どこからどう見ても、西洋人形のようだった。
(でも私、日本人なんだけどな…)
サーシャは無意識に左手の小指で目尻を引っ張り、「これでちょっとは…」と呟いた。そんな彼女の背後から、
「おねえちゃん、また変な顔してる〜」
いつの間にか部屋に入ってきた弟のケンが、からかうような声を上げる。サーシャと同じく金髪碧眼のケンは、姉とは対照的に自分の外見を誇りに思っているようだった。
「うるさいわね!ノックくらいしなさいよ」
枕を投げつけると、ケンは軽々とかわしながら笑った。
「朝ごはんだよ。ママが『遅刻するわよ』って」
ケンが部屋を出ていくと、サーシャは再び鏡に向き直った。新学期が始まって一週間。高校生活にようやく慣れてきたと思ったが、今日は憂鬱だった。なにしろ今日は…
「そうか、今日は自己紹介カードの提出日か…」
担任の三浦先生が出した宿題。「あなたの家族と出身について教えてください」というテーマだった。
サーシャは机の上の用紙を手に取った。きちんと書き終えている。
```
名前:青葉 サーシャ
出身:青葉市(祖父母の代から)
家族構成:父(青葉ヤン)、母(青葉クリスティーナ)、弟(青葉ケン)
私の家族について:父方の祖父母はポーランド出身、母方の祖父母はノルウェー出身です。
でも私は生まれも育ちも日本の青葉市で、日本国籍です。
```
書きながら、どうせまた「本当に?」という顔をされるのだろうと思うと、気が重くなる。高校に入ってもう何度目だろう。幼稚園から小学校、中学校と、いつも最初にあるのは「日本人なの?」という質問だった。
「サーシャ!遅れるわよ!」
階下から母の声が響く。彼女の日本語はほぼ完璧だが、どこか可愛らしいアクセントがある。
「はーい、今行くー!」
サーシャはカードを鞄に入れ、制服の襟元を整えた。鏡の中の金髪の少女が、不安そうな表情で見返している。
「大丈夫、今日も乗り越えよう」
自分に言い聞かせるように呟いて、サーシャは部屋を出た。
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「いただきます」
朝食のテーブルを囲む青葉家。和食と洋食が混ざった食卓には、味噌汁とサーモンのオープンサンドイッチが並んでいた。
「サーシャ、今日は何か心配事でもあるの?」
父のヤンが娘の様子を心配そうに見ている。ポーランド系の祖父母を持つ彼だが、日本生まれ日本育ちで、どこか昭和の親父然とした雰囲気を持っていた。
「別に…ただ、今日は自己紹介カードの提出日なの」
「あら、それなら楽しみじゃない」母のクリスティーナが明るい声で言った。「あなたの家族の話、みんな興味を持つわよ」
「それが問題なんだよ、ママ。私、また『外国人だと思った』とか言われるのよ」
「だってそれは仕方ないじゃない。見た目は…」
「でも私、日本人なんだよ!」サーシャは思わず声を荒げた。「生まれも育ちも日本だし、パスポートだって日本のだし、日本語だって…」
「はいはい、わかったわ」クリスティーナは娘の頭をやさしく撫でた。「でも、そんなに悩まなくても大丈夫よ。あなたは日本人で、同時に色々な文化を持っている。それは素敵なことじゃない」
「おねえちゃんだけじゃないよ、僕だってよく間違われるもん」ケンが口を挟む。「でも僕は気にしないよ。むしろ得することの方が多いし」
「ケン!」父が諭すように言った。「姉さんの気持ちを考えなさい」
「でもホントだもん」ケンは肩をすくめた。「先生たちも最初から僕の名前を覚えてくれるし、友達もすぐできるし」
サーシャは黙って味噌汁をすすった。弟の言うことにも一理あると感じていた。確かに目立つことで覚えてもらいやすいし、「外国人」という先入観で得をすることもある。でも…
(でも私は、普通の日本人として見てほしい)
「そろそろ時間ね」母が立ち上がった。「私も仕事があるから、駅まで一緒に行きましょう」
サーシャは無言で頷き、食器を下げ始めた。窓の外では、春の陽光が青葉市の静かな住宅街を照らしていた。
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青葉高校は市内でも歴史のある普通科高校だ。国際色豊かな学校ではなく、むしろ伝統を重んじる校風で知られていた。そのため、サーシャのような見た目の生徒はかなり目立つ存在だった。
教室に入ると、すでに親友の町田杏が席で待っていた。
「おはよ、サーシャ!」
「おはよう、杏」
「あれ?元気ないね。どうしたの?」
杏はサーシャとは正反対の、黒髪に切れ長の目をした典型的な日本人の女の子だった。小学校からの付き合いで、サーシャの悩みをよく理解している数少ない友人だ。
「今日、自己紹介カード出すじゃん…」
「ああ、それか」杏は理解したように頷いた。「でもさ、むしろ最初に言っておいた方がいいんじゃない?『見た目は外国人風だけど、日本人です』って」
「そんなの恥ずかしいよ…」
「でもさ、黙ってたら余計に誤解されない?先生もクラスメイトも」
サーシャは机に突っ伏した。「わかってるんだけどさ…なんで毎回、自分が日本人だって説明しなきゃいけないんだろ」
杏はサーシャの背中を優しくトントンと叩いた。「大丈夫だって。それに三浦先生、いい人だし」
そのとき、教室のドアが開き、担任の三浦先生が入ってきた。四十代の国語教師で、やや古風な印象の男性だ。
「おはようございます」
「おはようございます!」クラス全員が起立して挨拶した。
「では、ホームルームを始めます。まずは皆さんに出していただいた自己紹介カードを回収します。班長さん、お願いします」
各班の班長がカードを集め始めた。サーシャの心臓がドキドキと鳴る。
(どうせまた「本当に日本人なの?」って聞かれるんだ…)
カードが集められ、三浦先生は一枚一枚目を通していった。サーシャのカードに来たとき、先生は少し表情を変えた。そしてクラス全体を見渡し、微笑んだ。
「皆さん、このクラスには様々なバックグラウンドを持つ生徒がいますね。それは素晴らしいことです。多様性は強さです」
サーシャは思わず顔を上げた。三浦先生は続けた。
「私たちの国、日本も、実は様々な文化や血が混ざり合ってできています。純粋な『日本人』なんて、本当はいないのかもしれません。大切なのは、国籍や見た目ではなく、その人自身です」
クラスは静かだった。サーシャは三浦先生の言葉に、何か温かいものを感じていた。
「さて、今日は係決めをしましょう。まず、学級委員ですが…」
ホームルームが進む間、サーシャはずっと三浦先生の言葉を反芻していた。
(多様性は強さ…か)
鏡を見るたびに感じていた違和感。それは本当に悪いことなのだろうか。
そんなことを考えていると、突然名前を呼ばれた気がした。
「え?」
「青葉さん、文化祭実行委員をお願いできますか?」三浦先生が尋ねている。
「あ、はい…大丈夫です」
なぜか断れなかった。すると隣の杏がニコニコしながら手を挙げた。
「先生、私も文化祭実行委員をやりたいです!」
「ありがとう、町田さん。では青葉さんと町田さんで」
ホームルームが終わると、杏はサーシャの肩を軽く叩いた。
「やった!一緒に委員だね。盛り上げようよ!」
「うん…」サーシャは少しだけ笑顔を見せた。この瞬間、彼女はまだ知らなかった。この文化祭実行委員という役割が、彼女の高校生活を大きく変えていくことになるとは。
廊下から聞こえてくる他クラスの騒がしい声。窓から差し込む春の光。そして目の前の親友の笑顔。
サーシャはふと思った。
(鏡の中の私は私じゃないかもしれないけど…ここにいる私は、間違いなく私なんだ)
それは小さな気づきだったが、何かが変わり始めた瞬間でもあった。
序章 和菓子コラム:どら焼き
名前:どら焼き(銅鑼焼き)
どのような菓子か:
小麦粉に卵、砂糖などを加えた生地を焼いて、中に小豆餡を挟んだ菓子。円形で平たい形状をしており、直径は通常8〜10cm程度。カステラのような風味の皮の間に、滑らかな小豆餡が詰められている。
逸話・蘊蓄:
どら焼きの名前の由来には諸説あるが、最も有名なのは銅鑼に似た形と色合いからという説。江戸時代末期に考案されたとされるが、現在の二枚の皮で餡を挟む形式は大正時代に東京・上野の菓子屋「うさぎや」で誕生したと言われている。また、水戸黄門こと徳川光圀がどら焼きを好んだという伝説も残る。昭和の時代には藤子・F・不二雄のマンガ「ドラえもん」の主人公が大好物とすることで、さらに人気が高まった。
詩歌との関係:
俳諧師・松尾芭蕉に関連する逸話がある。芭蕉が弟子の河合曾良に贈った句に「何ごとの おわすれたるや 鴻の声」(何か大切なことを忘れているようだ、雁の声を聞くと)というものがあり、これに対し曾良は「たしかなり 菓子は土産に どら焼」(確かに、お土産のどら焼きを忘れていました)と返したという。歴史的には疑問があるものの、古くからどら焼きが親しまれていたことを示す逸話として知られている。