9.夫の“好きな人”
シェラルが目を開けると、そこはヘラザード邸の自分の部屋で、ベッドの上で横たわり毛布を掛けられていた。
「……あら……? 私……、どうしたんだっけ……?」
ゆっくりと上半身を起こし、頭を軽く振り、今までの事を思い返してみる。
「……あ! そうだ、私……騎士団長室で――」
シェラルの顔がみるみると真っ赤に染まっていく。
「ディ……ディーの馬鹿っ! あ、あんな事を騎士団長室で……! 誰か来たらどうしてたのよ! 場所を考えなさいよ! もう本当信じられないっ!!」
フカフカの枕を両手でポフポフと叩き、怒りを発散する。
今はもう夜だろうか。部屋の外が静かだ。
眠りに陥った自分を、ディクスが抱きかかえて馬車に乗せて、屋敷まで連れてきてくれたのだろう。
「もう少し話したかったのに……。あの人、また私を強制的に寝させて――」
ディクスの所為で習慣化してしまった、彼に抱かれて愛の言葉と頭撫でで寝てしまう習性をどうにかしないといけないと、シェラルは強く思ったのだった。
「……はぁ……。でもあの人、私の話を全然聞いてくれなかった……。話そうとしても途中で止められて……。後ろめたいから誤魔化したの……? ――ううん、きっと違うわ……。あの人は“嘘”を言っていない気がする……」
酷く切なそうな顔で愛の言葉を囁くディクスは、“嘘”ではなく“本気”の想いに聞こえた。
あの表情も、『作り物』の顔じゃない。
あれがわざと作ったものだったら、演劇の大舞台の主役を張れるだろう。
「……うん。もう一度、あの人と話をしてみよう。今度は冷静に、ちゃんとあの人と向き合うのよ。それでまた誤魔化されたら、そこでもう終わり。荷物をまとめてさっさとこの屋敷を出るわ。――今、あの人は自分の部屋にいるかしら……。眠ってる可能性もあるけど、一応行ってみよう」
シェラルはベッドから起き上がると、そっと扉を開けて部屋を出る。
やはり時間は夜のようだ。廊下の窓の外は真っ暗で、辺りはシンと静まり返っている。夜も深まっているのだろう。
シェラルは何となく足音を立てないようにそぉっと歩き、そのままディクスの部屋の前まで来た。
何度も息を整え、意を決してノックをしようとした時、不意に中から話し声が聞こえた。
(え? 独り言? それとも先客かしら? でもこんな遅い時間に……?)
「…………」
シェラルはいけないと思いつつも己の好奇心に負け、ゆっくりと扉に耳を近付け澄ましてみた。
「……久し振りですね。僕達の結婚式以来ですか? 元気にしていました? ――あぁ、それは良かったです」
ディクスの声しか聞こえないが、誰かと話をしているようだった。
シェラルはそこで思い当たった。
(『音声通話機器』で誰かと話しているのかしら?)
『音声通話機器』は、魔力を使って、その機器を持っている者と通話が出来る代物だ。
貴族以上の者は屋敷に一つは持っていて、ディクスも例外無くそれを自分の部屋に持っていた。
相手の魔力の波長を機器に合わせれば、遠く離れていても通話が出来る優れ物だ。
暫くは他愛も無い雑談が続き、その会話の内容から、彼の幼少時からの幼馴染だという事が分かった。
――そして、その会話は突然に来た。
「……えぇ……。ちょっと最近、色々とありまして……。はい、そうです。無性に“彼女”に会いたくて堪らなくなって……。――はい、今も好きですよ、“彼女”の事を。……えぇ。このままでは良くないと、一時は諦めたのですが……。駄目だと分かっていても、やっぱり心の奥では忘れられないんです。“彼女”を諦められないんです――」
(え……)
その内容に言葉を失っているシェラルの耳に、ディクスの声が容赦無く入ってくる。
「今、会いたくて仕方ないんです、“彼女”に……。――えぇ、はい、そうです。話をしました。早速明日、会ってきます。夕方、城下町の衣料品店の前で待ち合わせをしていて。……はい、どうしても明日しか駄目らしくて……。――えぇ、すごく楽しみですよ」
(――――)
心做しか弾むようなディクスの声音に、シェラルの心が急速に冷えていく。
「えぇ、……はい、妻にはまだ……。――はい……分かっています。――えぇ、そうですね……はい……。それでも僕は、“彼女”を……。――はい、いずれは……えぇ。……はい、ではまた」
会話が終わりそうな予感に、シェラルは慌てながらも音を立てないよう、静かにその場から離れた。
急いで自分の部屋に入り、扉をそっと閉めると大きく息を吐く。
いつの間にか、気付かず息を止めていたようだ。
心臓がバクバクと高鳴り、耳もキンキンと鳴り五月蝿い。
落ち着かせる為、何度も息を吸い、吐くを繰り返す。
胸を両手で押さえながら、シェラルはポスンとベッドに身を投げ出した。
「……あの、会話は……。あの人に、他に好きな人がいたって事……よね……? 内容からして、エルモア様じゃないようだった……。エルモア様ならお城に行けばいつでも会えるもの。彼女の護衛だってしてるんだから。勿論、私でも無いわ。だって明日、あの人と城下町の衣料品店の前で待ち合わせなんて約束していないもの。――エルモア様は“運命の人”じゃなかった……? 彼女とは別に、あの人に好きな人がいた……? じゃあ今まで私に言ってきた愛の言葉は嘘だったって事……? ううん、でも、そんな風には……。……あぁもう――何が何だか分からないわっ!!」
最後の方は叫び、行き場の無い思いをポフポフと枕を叩いて紛らわせる。
「――あぁ、ごめんね枕さん……。いつも八つ当たりしちゃって……。あなたは何も悪くないのに……。そう……悪いのは全てあの人……諸悪の根源はあの人よっ!!」
枕にギュウッと顔を押し付け、シェラルは再び大声で叫ぶ。
しかし、その声は枕に吸い込まれ、くぐもった音となって消えていった。
――すると、部屋の外から、微かにコツコツと足音が聞こえた。
(……え? 足音……? 段々とこの部屋に近付いてくる? やだ、こんな時間に誰……? まさか――)
嫌な予感がしたシェラルは、急いで仰向けになり、毛布を首まで被って寝た振りをする。
それと同時に扉がカチャリと開く音が聞こえ、誰かがベッドに歩いてくる気配を感じた。
「……まだ、眠っている……か……」
その声は案の定、つい先程聞いていた、ディクスの声だった。




