7.夫の“運命の人”
自分の心臓がドクドクと五月蝿い。
このままだと動悸が起きそうで、シェラルは鎮まるよう息を吐き、自分の左胸に手を強く当てた。
(……やっぱり、“あの出来事”は本当だったんだ……。あの人は……どうして『嘘』なんか――)
「……ん? え……? ――あっ」
すると、受付の女性が怪訝に眉を顰め、ハッとしたように声を上げた。
「? どうされましたか?」
「あ……い、いいえ、大変失礼致しました。『離婚届』は今のところ受理されたままですので」
女性は慌てて取り繕うように言葉を紡いだが、自分の失言には気付いていないようだった。
(“今のところ”……? え、どういう意味だろう……? 確認したいけれど、私に教えてくれないという事は、訊いても答えてくれないに違いないわ。個人の情報とか、そういうのに人一倍厳しいから……役所は)
「分かりました……。お忙しいところ、調べて頂きありがとうございました」
「いえ、また何か御座いましたらお尋ね下さいませ」
受付の女性に礼をし、役所を出て馬車へと戻る。
「……お待たせしました。お城に向かいましょう」
「畏まりました」
護衛が無表情で頷く。ディクスと一緒にいる所を何度か見た事があるが、彼はいつもそれが通常なのだ。
動き出した馬車の揺れを感じながら、シェラルはそっと目を閉じる。
(疑問が残ったけれど、確かなのは、『離婚届』は出されていたという事……私の“悪夢”じゃ無かった、という事よ。あの人、やっぱり浮気していたんだわ! ……でも、あの人はあれからも毎晩私と一緒にいて、いつものように愛の言葉も沢山言ってくる……。一刻も早く“運命の人”と一緒になりたいんじゃなかったの? 何で今も私といるの? ――うぅっ、あの人の考えている事がさっぱり分からないわ……)
グルグルと頭を悩ませていると、いつの間にか城の前に到着していた。
二人は馬車を降りると城の門番に事情を説明し、中に通して貰う。
(あの人のいる場所は、きっと『騎士団長室』ね。いなかったら、同じ騎士団の人に書類を渡してすぐに退散しましょう。今はあの人に会いたくないし……。どうか留守でありますように)
シェラルが祈りながら護衛と共に歩いていると、前から煌びやかで豪華なドレスを着た女性が侍女を数人引き連れて歩いてきた。
(……あの方は……)
エルモア・ニナ・テラアレル。
この国、テラアレル王国の第二王女だ。金色のフワフワした長い髪と青色の瞳を持ち、年齢は二十歳で、誰からも愛されそうな可愛らしい顔立ちをしている。
シェラルはすぐに立ち止まり、緊張しつつエルモアに向かってカーテシーをした。
「エ……エルモア・ニナ・テラアレル王女殿下に御挨拶申し上げます」
「……あら? あなたはディクス様の奥様……でしたかしら……? ここには何の用で?」
エルモアはこてんと小首を傾げながらシェラルに尋ねる。
男なら鼻の下を伸ばしそうな可愛らしい仕草だ。
シェラルはチラリと護衛を見ると、彼はいつも通りの無表情だった。
(美形のあの人の顔をいつも見ているから、これ位じゃ動じないのかしら?)
シェラルがエルモアに視線を戻すと、彼女は扇子を口に当て、目を細めてシェラルを見ていた。
「その……主人が忘れ物をしたので、それを届けに参りました」
「あらそう。ディクス様にはいつも護って頂いて感謝していますわ。彼は本当に素敵で……。わたしにいつも優しい微笑みを向けてくれますの」
ディクスは、騎士団長と併任でエルモアの護衛もしているのだ。
「その微笑みが、わたしに対して“特別”のように感じていて……。そう……まるで“運命の人”に出会ったかのような眼差しでわたしを見てきますのよ。わたしを熱い視線でじっと見つめて――」
(“運命の人”……!?)
その単語にシェラルは目を見開き、エルモアを凝視してしまった。
シェラルの反応に、エルモアは満足そうに目を細めると、ゆっくりと歩き出した。
「わたしも彼を“運命の人”だと感じておりますわ。だって、お互いに強く想い合ってるんですもの。わたしを抱きしめる腕が、見掛けによらずとても逞しくて――あぁ、ごめんなさいね? これはあなたにする話ではなかったですわね」
クスクスと笑いながら、エルモアは侍女と共に去っていった。
「……奥様……」
護衛が気遣わしげにシェラルを見る。
「……あっ。――す、すみません、私は大丈夫です。えっと……旦那様の所に行きましょうか」
シェラルはハッと我に返り、護衛に向かって安心させるように微笑むと、足を動かし始める。
(エルモア様が、あの人の“運命の人”……? でも確かに合点がいくわ……。あの人は護衛でエルモア様のお傍にいる事が多いし、エルモア様は可愛いし、お姫様を命を懸けて護る騎士団長のあの人とお似合いだわ……)
考えていく程グングンと沈んでいく心を、無理矢理奮い立たせる。
(――ううん……そうよ。私達は離婚してるんだから、もう終わった事じゃない。あの人とエルモア様が結ばれたって、私にはもう……関係の無い事だわ……)
ズキズキとする胸を押さえながら歩いていると、前方から呼び掛けられ、シェリルは顔を上げた。
「……ヘラザード侯爵夫人?」
そこには、テラアレル王国魔法士団長であるセリュード・マーティが、目を軽く瞠りシェラルを見つめ立っていた。
「あ……セリュード様。その、先日の事故で、私を家まで送って下さったと聞きました。お忙しいのに、本当にありがとうございました。本来は私の護衛の役目ですのに……」
シェラルが頭を下げ礼をすると、セリュードは首を軽く横に振った。
「君の護衛も、君を庇おうとして少し頭を打ったようだったので、念の為に町医者の所へ行って貰ったんだ。こちらこそ、俺が乗っていた馬車が迷惑を掛けてしまい、大変申し訳無かった」
「え……そんな、セリュード様の所為ではありません! どうか謝らないで下さい」
シェラルが慌てて胸の前で両手を振ると、セリュードは小さく笑い、彼女の側まで歩いて来た。
そして、徐ろに身を屈め、シェラルの顔を覗き込む。
「あれから体調は大丈夫か? どこか痛む所は?」
「だ、大丈夫です。御心配下さり、ありがとうございます」
シェラルはセリュードの近い距離にドキドキしながら笑みを返すと、彼はフッと笑って頷いた。
「何かあれば相談に乗ろう。些細な事でもいい、何でも言ってくれ」
「……っ」
セリュードの優しく染み込む言葉に、心が弱っていたシェラルの瞳が思わず大きく揺らいだ。
「ありがとうございます、セリュード様……」
「…………夫人」
セリュードが、下を向き目を潤ませるシェラルを真顔で見つめ、彼女に手を伸ばそうとした、その時。
「――僕の妻に触らないで頂けますか」
シェラルの身体が温かいものに包まれたと同時に、怒りを含んだ声音が頭上から聞こえてきた。
シェラルが顔を上げると、彼女の身体を片手で抱きしめたディクスが、眉間に皺を寄せセリュードを睨んでいたのであった。




