6.『離婚届』の行方
マーサにも二日前の夜の出来事を話したのだが、
「旦那様がそんな事を……? あの旦那様に限って絶対に有り得ないですよ、奥様。旦那様の仰る通り、“悪夢”でも見たんですよ」
と、全く信じて貰えなかった。
(本当なのに……)
しかし、これ以上何を言っても聞いて貰えないと感じたシェラルは、渋々と口を閉ざしたのだった。
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侯爵夫人の仕事が休みとなり、外にも出れず、何もする事が無いシェラルは、書斎に行き読書をする事にした。
(こんな形で『一日中読書をする』って願いが叶っても嬉しくないわ……)
溜め息をつきつつそう思うも、本を読む事は好きなので、気になる本を手に取り、ソファに座って読み始める。
「――やっぱりここにいましたね。ただいま、シェラ」
書斎の扉から馴染みのある声が聞こえ、シェラルが顔を上げると、そこにはディクスが微笑みながら立っていた。
「あ……おかえりなさい、ディー」
咄嗟に立ち上がり、無意識にいつもの挨拶をするシェラル。
書斎で、マーサが持ってきてくれた昼食を食べた記憶があるが、読書に没頭して時間を忘れていた。
「え、あら……? 今何時かしら……?」
「夕方過ぎですよ。貴女は本当に本を読むのが好きなんですね。明日も好きなだけ読んで構いませんよ」
シェラルが自分の事を愛称で呼び、普通に挨拶をしてくれた事が嬉しく、ディクスは表情を緩めながら彼女に近付くと、片頬に手を添え、いつもの『ただいまのキス』を反対側の頬にした。
シェラルは何の抵抗もせずにそれを受け入れる。
これも結婚当初から、ディクスが出掛けた時と帰ってきた時に欠かさずしてきた挨拶なので、彼女にとって至極当たり前のものとなっているのだ。
「何の本を読んでいたのですか?」
「冒険の本よ。主人公の男の子が苦難と困難を乗り越え父を探して旅をする物語で、男の子の勇敢さがとても素敵で」
「へぇ……それは面白そうですね」
顔を輝かせながら説明をするシェラルを愛おしそうに眺めていたディクスは、彼女の顔がハッと気付いたように強張ったのを見て、眉尻を下げて微笑んだ。
「貴女の好きなお菓子を買ってきたんです。一緒に食べましょう?」
「……いらないわ……」
「そんな事言わずに。折角の美味しいお菓子が無駄になっては勿体無いでしょう?」
「…………」
「さぁ、僕の部屋にいきましょう」
いつもと変わらないディクスに、シェラルは戸惑いながらも彼に手を取られ付いていったのだった。
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次の日も、その次の日も、ディクスは朝早くに出掛け、シェラルの好きな花やお菓子を買ってきて夕方過ぎに帰宅し、今までと変わらない態度で――否、それ以上に優しく真摯な態度で彼女と接してきた。
シェラルの頭は混乱し、あの日の夜の出来事は、本当に“悪夢”だったのかと思うようになってしまっていた。
「……駄目よ……。このままでは良くないわ。“あの出来事”が有耶無耶になってしまう……。あの人だって、またいつ豹変するか分からない……。そんなのもう嫌よ……あんな思いはもう……。何か、何か“証拠”があれば――」
自分の部屋のソファに身体を沈み込ませていたシェラルは、うんうんと唸りながら考え、“ある事”に思い至った。
「……そうよ、『離婚届』! それが受理されていたら、あの夜の出来事は“本当の事”だったと証明されるわ! 役所に訊きに行けば……!」
シェラルは思わず立ち上がり、自分の名案にグッと握り拳を作る。
「……あぁ……だけど、外出が出来ない今、役所に行くのは難しいわ……。一体どうしたらいいの――」
シェラルはすぐに力無く拳を下ろしてソファに座り直し、深い溜め息を吐いたのだった……。
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――しかしそんなある日、彼女に絶好の機会が訪れる。
ディクスが、仕事で提出する緊急の書類を自分の部屋に忘れていったのだ。
真面目でしっかり者な彼にしては珍しい事だった。
シェラルはそれにすぐに食いついた。
早速この屋敷の執事のもとへと向かい、話をする。
「私が旦那様に書類を届けてきます」
「しかし、旦那様の許可がございませんと、奥様の外出は緊急時以外は禁止だと言われておりますので……」
年配で穏やかな執事は主に忠実で、シェラルのお願いに首を横に振ったが、彼女は折れなかった。
「今、手が空いているのは私しかいないでしょう? もうお昼過ぎですし、大事な書類を忘れてしまって、旦那様、すごく困っている筈です。今が緊急の時だと私は思うんです! お城に行って用事を済ませたら、すぐに戻ってきますから……! 旦那様には、私がどうしても行きたいって駄々を捏ねたって伝えて、絶対に貴方に非が無いようにします。だから、どうかお願いします……!」
顔の前で両手を合わせ、頭を下げるシェラルに、慌てて執事は言葉を出した。
「分かりました。分かりましたから、どうか頭をお上げ下さい。そんな事を奥様にさせたと知れたら、わたくしが旦那様に怒られてしまいます」
シェラルは執事の返答に、心の中でニッコリと笑みを浮かべたのだった。
執事の選んだ優秀な護衛を一人連れ、シェラルは馬車に乗り込んだ。
「あ……あの、お城に行く前に役所に用事があるんです。すぐに終わりますから、役所の前で馬車を止めて待っていてくれますか? 護衛を連れて入ったら注目を浴びてしまうでしょう? その、あまり目立ちたくないんです……。役所の中は警備兵も沢山いるし、安全だから大丈夫ですよ」
人見知りで引っ込み思案なシェラルの性格を知っていた護衛は、彼女の言葉に素直に頷いた。
この護衛は、ディクスとシェラルの事情を知らないのだ。シェラルは心の中で握り拳を振り上げた。
役所の前で馬車を止めて貰い、中に入ると真っ直ぐに受付へと急ぐ。
緊張で震える唇を一度舐め、シェラルは思い切って口を開いた。
「す、すみません。私、シェラル・へラザード……旧姓はシェラル・マーネリアと申しますが、私と夫であるディクス・へラザードとの『離婚届』が提出されているか確認をしたいのです」
「シェラル様ですね? 身分を証明する物を御提示お願いします」
シェラルは自分の名前が入った『通行証』を提示すると、それに一通り目を通した受付の女性は、
「確認致しました、ありがとうございます。少々お待ち下さいませ」
と頷き、シェラルに『通行証』を返すと調べ始めた。
「……お待たせ致しました。シェラル様とディクス様の『離婚届』ですが、確かに受理されております」
女性のその言葉に、シェラルは一気に冷水を浴びせられたかのように、身体が急速に冷えていったのだった――