5.夫、怒る
シェラルの様子を見に、ディクスは寝ているかもしれない彼女に配慮し、物音を立てずにそっと部屋の中を窺ったのだろう。
シェラルは背中に一筋の汗を流しながら、ディクスに向かって小さく唇を開いた。
「あ……えっと、荷物の整理を――」
「荷物の整理? 何故今それをする必要があるのです? そんな事より、まずは身体を休めなくては。ほら、シェラ。ベッドに戻りますよ。僕に掴まって下さい」
無表情だったのは一瞬で、ディクスは心配そうな顔つきになり、シェラルのもとへと寄っていく。
そして、彼女の手を取って立ち上がらせようとした。
「――触らないで!」
シェラルは鋭く叫び、咄嗟にディクスの手を振り払った。
「シェラ――」
「その手で、貴方の“運命の人”にも触っているんでしょう!?」
「シェラ、またそんな――」
「今更優しくして、私を騙そうったってそうはいかないんだから!」
シェラルの言葉に、ディクスはパチパチと目を瞬かせる。
「え、騙す……? 一体何を――」
「私に侯爵夫人の仕事を全部やらせて、貴方達二人は楽して仲睦まじく一緒に過ごそうとしてるんでしょ? そうはいかないんだから! 離婚してるんだから、私は実家に帰るの! 貴方達の思う通りにはさせないわ!」
言いながら感極まり、シェラルの両目から涙が零れ出る。
ディクスは彼女の涙に目を剥くと、思わずその小さな両肩を掴んでしまった。
「……っ、シェラ――」
「貴方、言ったわよね!? 『子供が出来なくて良かった、心置きなく彼女と一緒になれる』って! わっ、私は、貴方との赤ちゃん、そろそろ欲しいなって考えてたのに……っ! 貴方、本心はそう思って――」
「僕がそんなフザけた事を言う筈が無いだろうッ!!」
ディクスの怒りの表情と突然の怒鳴り声に、シェラルは身体を跳ね上がらせ言葉が止まる。
こんなに怒った彼は、今まで見た事が無かったのだ。
初めてディクスに怒鳴られ、彼女の瞳からまた涙が溢れ始める。
ディクスはハッと我に返ると、自分の犯した失態に顔を歪め、ボロボロと泣くシェラルの身体をギュッと抱きしめた。
「すみません、シェラ……っ! 貴女に怒鳴ったんじゃないんです! そんな天地がひっくり返っても有り得ない言葉を言った、“悪夢”の中の僕に怒ったんです! ――本当に、信じられない位フザけた言葉でしたから……」
「……っ」
ディクスから逃れようとシェラルは懸命に身を捩るが、彼は更に彼女を抱き竦めた。
「は、離して……っ」
「嫌です。離したら貴女はここを出て行ってしまうのでしょう? そんな事は絶対にさせません。貴女は僕の妻です。“運命の人”がいるとするならば、貴女ですよ、僕の愛するシェラル」
「違う……っ。貴方は本当に――」
ディクスはシェラルを深く抱き込んで動きを封じ込め、彼女の頭を優しく撫でる。
「シェラ、貴女は今混乱しているのです。“夢”と“現実”の狭間にいるのです。だから、今日はもうおやすみなさい? 可愛い可愛い、僕の愛しいシェラル――」
耳元で、心地良く響く低音で優しく囁かれ、頭を撫でられ、シェラルは徐々に睡魔に侵されていく。
彼女は毎夜、ディクスに抱きしめられ、愛の言葉を囁かれ、頭を撫でられながら眠る習慣があるのだ。
……というか、結婚した当日から彼がそれを毎晩欠かさず続け、必然的にそういう習慣にさせたのだが。
「……だ、だめ……。まだ……寝ない……」
「貴女は何も考えないで。僕が全て解决しますから。だから何も心配しないで、おやすみなさい――」
シェラルの瞼が本人の意思関係なく閉じられ、意識が遠のいていく。
――瞼を閉じる瞬間見たものは、眉間を寄せ、厳しい目で自分を睨むディクスの姿だった――
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シェラルが目を覚ますと、丁度扉からノックの音が聞こえ、「ふぁい……」と寝惚け眼で返事をする。
「失礼致します」
入ってきたのは、シェラルの専属侍女であるマーサだった。
彼女はキビキビとした動作でシェラルのもとへ来る。
「おはようございます、奥様。よくお眠りでしたね。体調の方は大丈夫ですか? どこかおかしい所はありますか? 頭とか」
「何でそこで先に頭が出てくるのよ。私はこの通り元気よ? どうしてそんな事を訊くの?」
「何でって奥様、昨日馬車同士の事故で頭を打ったではないですか」
「…………あ!!」
グッスリ眠り過ぎてすっかり忘れてしまっていた。
「ね、マーサ。旦那様は今お屋敷にいる?」
「いえ、今日は朝早くから出掛けております。その旦那様から奥様へ言伝です。『侯爵夫人の公務は暫く休んで下さい。外出も控えて下さい。外出したい時は自分の許可を得て下さい。屋敷内で好きな事をして過ごして下さい』……との事です」
シェラルはその内容に驚き、大きく両目を剥いた。
「えっ、何それ!? それってほぼ軟禁状態じゃない!?」
「旦那様の、奥様を独り占めにしたいという情熱的な“愛”も、ついにそこまできましたね……。いずれ近い内に監禁されるんじゃないでしょうか」
「イヤよそんな変質的な“愛”はっ!?」
両目を閉じ、頬に手を当て、ほぉ……と息を吐くマーサに、思わず勢い良くツッコんでしまったシェラルなのであった。




