4.妻、悲しみ……憤る
「…………え?」
シェラルは、一瞬ディクスの言葉を理解出来なかった。だが、執務机の上に出された『離婚届』を見て、顔色がサーッと青褪める。
「僕は一刻も早く“運命の人”と一緒になりたいんです。ですので早急にこの『離婚届』に貴女の署名をお願いします」
ディクスは表情を変えず、シェラルに署名を催促する。
彼女は今の状況が信じられなかった。
(昨日まではいつものディーだったのに、この変わりようは一体何……?)
「……ディー、本当……? 本当に私と離婚するの……? その……“運命の人”を選ぶの……?」
「何度も同じ事を言わせないで下さい」
苛立ったように机を人差し指でトントン鳴らし、そう言葉を放つディクスに、シェラルはビクリと肩を揺らす。
彼に、こんな冷たい態度を今まで一度も取られた事が無かったからだ。
突然、何もかも変わってしまったディクスに、シェラルの瞳から涙が零れ出る。
「泣いても何も変わりませんよ。早く署名を」
それに対し、ディクスは顔を顰めて溜め息を吐いただけだった。
(――あぁ、ディーの気持ちはもう私には無いんだ……。その“運命の人”に全てを持っていかれてしまったんだ……。もう……私達は“終わり”なんだ――)
シェラルは涙を流しながら、震える手でペンを取り、『離婚届』に署名をする。
ディクスはそれを見て満足そうに頷くと、『離婚届』を手に持ちシェラルに背を向けた。
「これは翌日、僕が役所に提出します。――貴女にもう用は無いです。御自分の部屋に戻って、荷物の整理でもしては如何ですか」
「…………」
シェラルはディクスの言葉に逆らわず、流れる涙はそのままに、静かに部屋を出ようとした。
「――本当、子供が出来なくて良かったですよ。これで心置きなく彼女と一緒になれる」
「…………!!」
最後に投げられた胸を抉られる言葉に、思わずシェラルは扉を乱暴に開け飛び出していった。
走って自分の部屋に戻ると、フラフラとベッドの側に行き、その上にポスンと身を投げ出す。
胸が痛くて苦しくて張り裂けそうで、涙が次々と溢れて止まらなかった。
「……うっ、うぅ……っ」
シェラルは悲しみを涙に変え、一晩中枕を濡らし続けたのだった……。
********
その翌日の朝にはもう、ディクスの姿は屋敷に無かった。
きっと朝一番に役所に行って、『離婚届』を提出したのだろう。
一刻も早く“運命の人”と一緒になる為に。
(……本当に自分勝手な人だわ)
一晩思いっ切り泣き、気持ちも少し落ち着いたシェラルは、段々と無性に腹が立ってきた。
(私に『一目惚れした』とか言って、最初は無理矢理向こうから押してきたのに、今度は『“運命の人”が現れた』とか言って一方的にお別れ? 何よそれ……自分勝手にも程があるわ! いいわよ、離婚上等よ! 実家に帰って独り身を謳歌するわ! ここでは出来なかった、大好きな読書を一日中してやるんだから! フンだっ!)
離婚をしたと知ったら、きっと両親は悲しむだろうが、事情を話せばきっと一緒に怒ってくれるだろう。
人見知りで引っ込み思案な自分を大切に育ててくれた、優しい両親だから。
(そうと決まれば、さっさと荷物をまとめてこの家からおさらばよ! その前に、マーサや使用人さん達にお別れの挨拶をしなきゃ。皆には沢山良くして貰ったから、お別れは寂しいけれど……また遊びにくればいいよね。勿論あの人がいない時に!)
そこでシェラルは、今日は侯爵夫人の公務で城下町に用事があるんだったと思い出し、慌てて支度をして護衛と共に馬車に乗った。
――そして、セリュード・マーティの乗った馬車と接触し、先刻の事故が起きたのだった――
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「わたしは隣の部屋にいますので、何かあればお呼び下さい」
ナーソンが微笑みながら一礼をし、部屋を出ていくのを見送ると、シェラルはそっと息を吐いた。
「……あの人は『悪夢を見た』と言うけれど、あれは“現実”よ。あの胸の痛みと苦しみは忘れられないもの……。それに、『離婚届』に署名を書いたペンの感触だってちゃんと覚えているわ。何で嘘をつくの? 昨日の今日で、またこんな変わりよう――」
シェラルは顎に手を当て考え込むと、ハッと顔を上げた。
「……もしかして、侯爵夫人の面倒な仕事は私にやらせて、自分達は楽して二人で仲睦まじく過ごそうって、私を懐柔しようとしてる? ――そんな事はさせないわ。私はそんなにお人好しじゃないし、実家に帰って自由を満喫するんだから! もう離婚してるんだし、私の勝手にしてやるわ!」
シェラルは一人頷くと上半身を起こし、ゆっくりと立ち上がった。
立ち眩みや貧血は大丈夫そうだ。
「時間が惜しいし、早速荷物の整理よ。あの人のくれた物は勿論置いていくわ。あんな浮気最低男から貰った物なんて、こっちから願い下げよ! フンだっ!」
ブツブツと一人文句を呟きながら荷物をまとめていると――
「……何をしているんですか? シェラ」
「きゃあっ!?」
唐突に背後から低い声が投げられ、シェラルは驚いて尻餅をついてしまった。
そろそろと後ろを振り向くと、そこには表情の無いディクスが扉の前に立ち、シェラルをジッと見つめていて。
「…………っ」
その顔が、昨晩彼が離婚を告げた時の顔と重なり、シェラルの喉からヒュッと音が鳴ったのだった――