2.嘘か真か
「……は……?」
ディクスは最初、シェラルが放った言葉が理解出来なかった。
しかし、自分に今まで見た事の無い怒りの視線を向ける彼女に、漸く内容を理解したディクスは慌てて言葉を投げた。
「な……何を言ってるんですか、シェラ? 僕と貴方は離婚なんてしていませんよ? それに僕が浮気? そんな馬鹿げた事をする筈が無いじゃないですか。僕が貴女だけを愛している事は、貴女だって分かっているでしょう?」
「けど、確かに貴方は言ったわ! そして机の上に『離婚届』を出して、ここに署名しろって言って、無理矢理書かされたもの!」
「え……。そ、そんなフザけた事、僕は絶対にしていませんよ!?」
二人の会話を聞いていたセリュードは、軽蔑の目をディクスに向けた。
「……お前、最低だな。こんな美しい奥方がいるのに、そんな事をしでかしていたなんてな……」
「ちっ、違います! 完全な誤解です! 妻との仲は良好です! セリュード殿もこんな有り得ない話を信じないで下さい!」
ディクスは勢い良く捲し立てると、自分を落ち着かせるように深く息を吐いた。
「……セリュード殿、今日はもうお帰り下さい。妻を送って下さった御礼は後日必ずしますので。ありがとうございました」
「別にそんなのはいい。――夫人、無事で良かった。ゆっくりと身体を休めてくれ。では失礼する」
セリュードは手を軽く上げると、部屋から出て行った。
ディクスはすぐに床に膝をつき、シェラルと目線を合わせると、諭すように優しく声を出した。
「シェラ、貴女は頭を少し打ったみたいなので、“悪夢”と“現実”が混ざってしまったのでしょう。僕達は離婚なんてしていません。僕が他の女性と浮気をするなんて以ての外ですから。僕は今までと変わらず、貴女だけを愛しています。これは嘘偽りの無い僕の本心ですよ」
「でも! 本当に貴方は言ったのよ! “運命の人”が現れたって! そして私は『離婚届』に署名を書かされて――」
「……シェラ。それはいつの話ですか?」
ディクスの問い掛けに、シェラルは瞳を真ん丸くさせてキョトンとし、首をこてんと傾げる。
ディクスはその可愛い仕草にニヤけそうになったが、そんな顔を見せたらシェラルの機嫌が益々悪くなると思い、必死に我慢した。
「本当に覚えていないの? 昨日の夜よ。寝る前に『話がある』って言って――」
「昨晩は普通に談笑して一緒に寝ましたよ。離婚の『り』の字も出していません」
「そんなの嘘よ! だって私、確かに……っ」
尚も言い募ろうとするシェラルの手を、ディクスはそっと握った。
「……ナーソン、僕に夢遊病や虚言癖の可能性は?」
「いえ、健康状態は良好で、どれも全くございません」
「ほら、聞いたでしょう? 貴女は“悪夢”を見たんですよ。実際には絶対に起こらない最悪な“悪夢”を。だから安心して、今日はゆっくりと休養して下さい」
「違う、夢なんかじゃないわ! 私は確かに貴方から『離婚してくれ』って言われたし、『離婚届』に署名も確かに書いたもの! これは本当の事よ! 私はちゃんと覚えてる! 絶対に間違いないわ!」
必死さを滲ませながら声を荒げるシェラルに、ディクスとナーソンは真顔で顔を見合わせた。
「……シェラ、落ち着いて下さい。僕の方で『離婚届』の事は調べておきますから、貴女は何も心配せず、何も気にせずに普段通りに過ごして下さい。ね?」
「そんな事出来ないわ……。私、実家に帰らなきゃ……。だってもう離婚してるし、侯爵夫人じゃないもの……」
「シェラ。離婚なんてしていませんから、貴女は立派な侯爵夫人ですよ。そして僕の愛する妻です。これからもずっとですよ」
「…………」
「僕の愛しいシェラル。今日は何も考えないで、ゆっくりと休んで下さい。何か欲しい物はありますか?」
ディクスが優しい口調でシェラルに訊くと、まだ不服そうな表情を浮かべていた彼女だったが、小さく首を横に振った。
「……いえ、大丈夫」
「何かあればすぐに呼んで下さいね。すっ飛んできますから。ナーソン、シェラをよろしく頼みます」
ディクスはシェラルの頭をそっと撫でると、静かに部屋から出て行った。
「……奥様。もう一度頭の方を確認しますね」
「何度調べたって同じよ。本当にあれは“現実”なんだもの……」
「……奥様……」
シェラルの悲痛な面持ちに、ナーソンは何も言えず、ただ困ったように彼女を見つめたのだった。