哀れな男
アレンの住む世界は我々が住む世界と違う。大陸は五つで国も大きく分けて五つだ。種族は両手で数え切れないほど存在している。そのうちに魔族という種族が世界を征服しようとして十五年前に勇者に倒されたらしい。アレンは十五年後の世界のある国で憲兵として勤続していた。
日が落ち始めたが暑さは消えず粘着質な湿気が肌に纏わりついてくる。憲兵が勤務する駐屯所を照らす灯りは錆び付いたオイルランプだけだ。アレンは鉄製のマグカップにコーヒーを淹れながら外の景色を見渡す。市街はちょうど夕暮れで赤く染まっていく、その様相は言葉で表現することすら躊躇うほどの美しさがある。その景色を見るたびにアレンの愛国心はとても刺激される。それゆえアレンは自分の憲兵という仕事への誇りを強く持っていたのだ。
「うん、いい香りだ」
コーヒーの匂いはこの豆が育った大地がどのようなものかを連想させてくれる。いつか長期休暇をとって世界中を見て周りたい。勇者が歩んだ道がどのようなものだったかを旅が教えてくれるだろう。鉄製のマグカップの持ち手は金属特有の冷たさを持っていて、それもまたアレンに落ち着きを与えてくれる。あたりも赤と紺が混ざるような暗さに沈んで行っている。週も終わりへと近づきつつあり、アレンは頭の片隅で休日をどう過ごすかを考えていた。教会で讃美歌を聴いた後に国立の大図書館で勇者と共に戦った戦士の手記の続きでも読もうか。酒場に行って町娘に声をかけるのもいいかもしれない。休日の予定を立てると仕事へのやる気も上がるような気がしてアレンはこれが癖になっているのだ。
「アレン。来い」
アレンが休日の過ごし方を考えていると後ろから声を掛けられた。そこには先輩がいた。先輩と言ってもこの先輩は自分にばっかり仕事を押し付けてくるのでアレンは気に入れずにいたのだ。だから名前も覚えずに先輩としか記憶していない。アレンは少しムッとしたが反抗とすると面倒なことになってしまうので大人しく返事をする。
「どうしたんですか。先輩」
先輩は頬のニキビを人差し指で触りながら、めんどくさそうに返事をする。それが人に任せる態度かとアレンはさらにムッとなるがそれを押さえて要件を聞いた。
「自分は殺人犯だとかいう男がいるから取り調べをしといてくれ」
分かってはいたが先輩は仕事を押し付けようとしてくる。したくないという気持ちはあるのだがやはり受け入れるしかないだろう。アレンはしぶしぶ了承して男が拘束されている部屋へと向かった。
男を含めた憲兵に捕まった人間は駐屯所の別室に拘束されて、その後に起訴か不起訴かを決められる。起訴された場合は教会が持つ裁判所で有罪か無罪かを判断され、有罪だった場合はなんらかの刑罰が下されることになっている。アレンの仕事は拘束された人間とその人間から直接的または間接的に被害を被った者から事情聴取を行う。そして、起訴するか不起訴にするかを決めるのだ。つまり、己自身の判断で人一人の人生を潰してしまう可能性がある。だから、アレンは事情聴取があまり好きな業務ではないのだ。
「…憲兵さん。俺を死刑にしてくれ」
アレンが男が拘束されている部屋の前に立つと中からは酷くしわ枯れた男の声が聞こえてきた。その男の声はどこか酷く憔悴し疲れきっていた。一定の間隔で足音がアレンの方に近づいてくる。そして、骸骨のように肉が落ちきった皮と骨だけの手が鉄格子を掴んだ。その男は薄暗い部屋から鉄格子でアレンに顔を見せたのだった。
「俺は殺したんだ。数えきれないほどの数を」
その男の見た目は市街から外れたスラム街の浮浪者達に酷似していた。髪の毛はべっとりと乾いた汗に砂がついており、髭は無造作に伸びきってしまっている。肌は踏み潰された蛾の羽のようにしわくちゃで同じ人間の姿には見えなかった。また、腕を見るからわかるようにボロ雑巾のような布で覆い隠された体はその上からでもわかるくらいには痩せこけた貧弱な様相をしていた。こんなドブネズミのような姿をした男が人殺せるなんてアレンは考えられなかった。あまりにも男の体が臭うのでアレンはまず男の身なりをどうにかしようと思い駐屯所の中の浴室で男に体を洗えと命令した。男は虚ろな目でアレンを見ながらその命令を承諾してアレンと共に浴室へ向かった。男は十分もかからないほどの時間で浴室から上がった。男の足から上半身までをざっとアレンは見た。男は猫背であり小刻みに震えている。足はなぜ立つことができるのかと思うほど細かった。
「髭を剃れ」
アレンはそう言ってカミソリを男に渡す。一応は刃物なので反撃などがないかを警戒するがそのようなそぶりはない。男は震えた手を片方の手で押さえながら髭を剃っていく。鏡をみながら意外にもその作業は手慣れたよう見えてすぐに終わった。次は男はカミソリで伸びきった髪の毛を切り始めた。こちらは少し手間取っていたがそれでも常人の何倍かは早かった。
「終わりました」
そう言って男はカミソリの持ち手の方をこちらに向けて返す。アレンはカミソリを受け取って男の顔をまじまじと見た。男の顔は誰かに似ていた。そして、その誰かがわかるのに時間はそう長くはかからなかった。その男は十五年前に世界を魔王の手から救った勇者だったのだ。顔はやつれていてもわかる。しかし。十五年前に描かれた肖像画の凛々しい顔ではなかった。中年になり、現実に絶望し挫折をしてしまった哀れな男の姿がそこにはあったのだ。アレンは衝撃を受けた。十五年という歳月がこの男に何を及ぼしたのか。それが何一つ一切わからなくて混乱した。
「あなたは勇者のアーサー様ですか?」
アレンは驚きを隠せずにそう聞いてしまった。その言葉は無意識的に敬語へと変化していた。しかし、男はその言葉を聞くと目を大きく開き、こちらを睨みながらこう言った。
「その言い方はやめてください。私はアーサーですが勇者じゃないんです」
仕草などから見ても男は勇者なのだろう。しかし、身なり、仕草、言動の全てに違和感があった。アーサーは彼自身が勇者と言われることを恐れている。いや、むしろ嫌がっているように見えた。普通なら大抵の人間は世界を救ったこと誇りに思い、自慢するだろう。しかし、この痩せこけた勇者はそうじゃないのだ。とにかく取り調べをせねばならないのでアレンは勇者を取り調べ室に連れて行った。
取り調べ室は拘束された人間が座る椅子と事情を聴く憲兵が座る椅子が机を一つ挟んで設けられている。取り調べ室は石造りのレンガで作られており、どこか無機質な感じがする。何より明かりが天井から吊り下げられたオイルランプだけしかないのでとても暗い。
勇者は椅子の背もたれを引いて座った。勇者が椅子に座ったことを確認してからアレンも椅子に座る。アレンは自分の前に座る勇者の顔をまじまじと見つめた。頬を痩せこけていて多少は老けていても勇者に違いないと再度認識する。幼き頃に何度も見た肖像画に描かれた顔が目の前にあるのだ。アレンは不思議でならない。
「あなたは大量殺人を犯したと言ったな。一体誰を殺したんだ?」
アレンは一応本人が自主をした理由である大量殺人についてを問いを投げる。それを聞くと勇者は表情を硬直させる。それから、両手で顔を覆いかくし天を仰いで言った。
「十五年、十五年前に魔族の子供を殺した」
アレンの頭は勇者の言葉を受け付けなかった。むしろこの男は一体何を言いたいのかとすら感じた。勇者は自分をからかおうとしてるのかさえ思った。しかし、勇者は続ける。
「子供だけじゃない。何人も殺したんだ魔族を」
勇者は泣きじゃくる子供のように自分が行った偉業を口にする。しかし、その言葉の一切に自尊や誇りは無かった。むしろ過去の自分自身を乏しているようにすら見えた。アレンには勇者がなにを言いたいのかわからない。とにかく自分が世界を救ったことを後悔しているようにしか見えなかった。けれどもなぜ後悔しているかの納得がいかない。
「あなたは自分が世界を救ったことを後悔しているのか?」
思いがけず自分が感じていたことを勇者に聞いてしまった。勇者は顔を覆い隠した手の指だけを開いてこちら見た。その目は乾いていたがオイルランプの明かりに照らされてギラついていた。勇者は手を震わせながら顔から手をどかしてガチガチと歯茎を鳴らして呟いた。
「後悔、ああ。そうだ。後悔しているさ」
勇者の言葉にはほんの少しの怒りが混じっていた。勇者ははっとしたように勇者自身の口を自分てで隠す。その後額に両手をくっつけ肘を机に突いて下を向いた。そして何かをぶつぶつ必死に呟く。
「違う、そうだ。俺が、俺がやらなきゃいけなかったんだ」
勇者は誰かに対して必死に許しを乞うているように映った。その姿は死刑台に立たされた囚人が必死に助かろうとする姿に似ていた。とても惨めで意地汚い。軽蔑することしかできない姿だ。勇者は髪を掻きむしりながら呟き続ける。
「ああ、許してくれ。お願いだ」
勇者は錯乱していてとても取り調べができる状態には見えない。次第に声は呟きから悲痛な叫びに変わり始める。勇者は何かに酷く怯えて呼吸が乱れている。目はあちらこちらに動き手は心臓がある位置で震えている。震えたてが時々胸の骨に当たる音も聞こえてくる。
「落ち着いて言ってくれないか。なにが言いたいかこちらもわからない」
勇者は脂ぎった汗をポタポタと机に垂らして深呼吸をしはじめる。荒立てられた息は獅子や虎といった猛獣のそれに近かった。ひたすら何かに怯える勇者を宥めてアレンは聞く。
「なににそんなに怯えているんだ。落ち着いて私に話してくれ」
勇者は呼吸を整えると乾ききった唇をもごもごとさせる。そして少し鼻息を立てた後に口をゆっくりと開きアレンにこういった。
「聞いてくれるか、俺の許されない罪の」
勇者はもう一度天を仰いだ。




