蟻蜘蛛
最近は受験シーズンでしょうか。それとも行事は終わり、卒業式に向けて胸を躍らせる頃でしょうか。
最近は忙しかったので悶々としており、同じように悶々としている方のためにこんなものを書いてみました。
この前書きを読んでなにか危険な臭いを察知したあなた。それは正解ですので、読まないことを推奨いたします。
性的表現がありますのでそこのところをどうか。
今日この日、孝子は会社に来なかった。
なんのことはない、二日酔いだのなんだので会社を休んだのだと先輩から聞かされた。あまりにも具合が悪そうだからと、その先輩が孝子に代わって上司に連絡を入れていた。
おかしいと思った、孝子がお酒を飲むなんて。
孝子と私は大学生のときに知り合った友人である。学生のときも、また社会人になってからも、孝子がまともにお酒を飲んだ姿なんて見たことがない。そのためいつもハンドルキーパーとなっている、それほど孝子はお酒が嫌いだったのだ。
なにか、あったのだろうか。
お酒を飲まない孝子、その孝子が二日酔いということは余程のことがあったのではないかと思わせる。私たちの上司も、あの孝子が二日酔いかと驚いていたくらいだ。私は彼女のことが心配になってきた。
私はおそらく孝子とお酒を飲んでいたであろう先輩を尋ねた。この先輩は人当たりが良くて同僚からも人気の人だ。
「孝子ちゃんに、なにか変わったことがなかったかって?」
丸っこい目を大きく開き、私の問いに先輩は思案するように上を見上げた。もちろん、あるのはただの照明や空調設備やらがあるだけで、至って変わったものはない。これは単にこの人の癖なんだけれど、お客さんを相手にしているときもよくやるので本人は直したいようだ。それでも気づかずにやる辺り、癖と言うのだろう。
私がとりあえず指摘すると、先輩は驚いたように笑ってお礼を言った。
「お酒を飲んだのは二人っきりで、色々と愚痴は聞いたよ。けど、変わったことと言えば孝子ちゃんがお酒を飲んだってぐらいで、それ以外は気づかなかったなぁ」
それが十分、変だったからね。
悪戯っぽく笑って指を立てた先輩に、私も釣られて愛想笑いを浮かべた。
後は今日中にまとめなきゃいけない書類があるからと、先輩に追いやられて、私も自分の席に戻った。
私のほうは先輩と違ってのんびりとしたものだ。課せられたノルマなんて早々に片付いて暇になるため、いつも中断して合間には上司や他の先輩方のご機嫌取り。まあ、正確に言えば暇潰し程度の世間話だろうか、他の同僚も同じようなものだから、会話にもよく華が咲く。
そんな私が自分の席に戻ったのは昼食時間を終えてからだった。料理の下手な私はいつも売店で済ませているから、大抵はお喋りした後に同じ購買組みと弁当を買う。最近はツナと卵がセットになったサンドイッチがお気に入りだ。
嫌いな上司の陰口で盛り上がってしまったが目立つほどの遅れでもない。それに、ノルマ自体は簡単に片付くことなのだ。遅れてオフィスに入った私たちを溜息で迎え入れた上司に、心の中で言い訳する。
ノートパソコンを開いた私の目に飛び込んできたのは新着メールだった。社内メール、例の孝子と一緒にお酒を飲んでいた先輩からだった。今日にでも孝子のように二人っきりでお酒でも飲まないかというお誘いである。
明日は休みだ。付き合う程度ならいいかと考えて気づく。この先輩とまともに話し合ったのは今日が初めてだったかも知れない、と。
いつも同僚での打ち上げだったり新年会やら忘年会やら、仕事上の付き合いやら。そんなもので軽い挨拶程度しかしていないのではないだろうか。孝子や他の私の友達はこの先輩ともよく会話しているのは知っているが。
かと言って、私は先輩が嫌いなわけではない。むしろ好きだ。これを機にもう少し親密になれたら、こういう場を作ってくれた面倒見のいい先輩に改めて感謝しながら了解の返事を送った。
先輩とはその後も会話はなかったが、帰宅時間になり仕事を終えた途端に肩を叩かれた。驚いて振り返れば、悪戯っぽい笑みを浮かべた先輩がこちらを見下ろしている。さっきはなんとも思わなかったが、愛嬌のある、子供のような笑顔で可愛らしかった。
彼女に促されて立ち上がり、私たちは近くの居酒屋に寄った。そこはいつも私たちの同僚が集まるお店で、会社に近いこと、お酒が割合安く飲めることとで好評の場所だ。料理については、普通程度だろうけど。
早速、陽も沈まぬ内からお酒を飲んでいた私たちは、好きなタレントの話で盛り上がっていた。
数分も前までの話、だけど。
無言で水割りされた焼酎を口につけながら、隣の席でへらへらと笑う先輩を見る。顔も真っ赤に染めて、カウンターの席にへばりついている先輩に頭痛がした。こんなにお酒が弱かったのかと、もしかしたら私に合わせて飲んでいたのかも知れない。私もそこまで強い口じゃあないけれど、先輩として見栄でも張ったのだろうか。
酔っ払ってしまえばそんなのもないだろうに。
心配そうにカウンターの奥からこちらを見る店長の視線が辛くなってきて、早々に切り上げて帰ることにした。先輩はまだ飲みたいと駄々をこねていたが、会話もまともにできないのにこれ以上、お酒を飲ませるわけにはいかないのだ。
私よりも背の高い先輩を外に引きずり出すのは大変だった。店長さんは手伝おうとしたけれど、会社上がりで居酒屋にも客が増え、見るからに忙しそうだったので丁重にお断りした。
タクシーを呼んで先輩を乗せる頃には疲れてしまって、先輩を私のマンションに連れて行くことにした。まだ時間も早いし、酔いがさめれば自分で帰れるだろうし。もし、そうでなかったとしても明日は休み。ゆっくりしていればいいのだ。
そう言えば、台所の片付けって終わってたっけ。
ささやかな不安が生まれるのと、先輩が私に抱きついてきたのは同時だった。驚く私を抱き寄せて、上機嫌に鼻歌をしている。子守唄、のような静かなメロディーだった。
酔った勢いで抱きつくのも抱きつかれるのも慣れているも、暑っ苦しいことこの上ない。ここで突き放し不機嫌になりでもしたら大変だ。先輩の酒癖は知らないけど、暴れられると困るのでそのままにした。
タクシーが私の住むマンションに着いたときも、先輩はまだ酔っ払っていた。私の部屋は三階にあるので運ぶのも一苦労だ。肩を組み、ふらふらと頼りない足取りの先輩を部屋の前まで誘導する。鍵を開けるときはさすがに邪魔だったが、先輩が離れようとしないので思わず溜息をついた。
密着してくる先輩の体を割いて、ようやく部屋の鍵を取り出した私がそれを差し込んだとき、熱い息吹が耳に注がれて思わず顔をそらす。
「ねえ、アリグモって知ってる?」
びくりと体が震える。あまりにも艶のある声で驚いた。最初はなにを言っているかわからなかったが、頭の中で単語を繰り返してもぴんとくる答えが浮かばない。
アリグモ、アリグモ、蟻と蜘蛛のお話だろうか。童話には登場人物の名前をつなげた題名があった気もする。
答えられないでいると先輩は含み笑いをしながら私の顔に自分の顔を乗せてきた。枕にされたというか、体重を預けられたというか。頬擦りされているのだと気づいたのは、先輩の腕が私の肩から腰に回されたときだった。
「アリグモっていうのはね、アリさんに良く似たクモなの。ほら、擬態ってあるでしょう? 木の葉に似たチョウチョとか、花に似たカマキリとか、あんな感じ」
先輩の長い髪が顔中に触れてこそばゆい。私は気の抜けた返事をしながら、ドアを開けようとした。酔っ払いの相手をするのは疲れるだけだし、あまり意味のない会話だろうと思ったからだ。
鍵を捻ろうとしたその手に、先輩の手が乗った。とても優しい置き方で即座に振り払う気にもなれなかった。相手は年上でもあるし、私は先輩の顔を空いた手で押し戻しながら苦笑する。早く部屋に入ろうと言った私の手を絡め取って、先輩が再び顔を近づけてきた。
その表情に笑みはなかった。ただ、毒々しいまでに彩られた艶やかさがあった。普段の先輩がしないような虚ろな瞳の中に私を収めて、絡め取った私の手を自分の唇に押し付ける。触れた瞬間は暖かいと思っただけだったけれど、引き離された手と唇の間に糸が伝ったのを見たとき火をつけられたように熱く感じられた。
なにをするんだと、怒りよりは驚きが先で飛び退こうとした私を押さえて、部屋のドアに私の体を押し付ける。手から滑り落ちた鍵の音が通路に広がった。
「アリグモはね」
身動きが取れなくなった私に顔を近づけて、囁く。熱い息吹とともに、再び顔を寄せられる。抵抗するように顔を背けても嘲るように毛髪を撫で、指ですく。
そのままうなじに顔を沈めて優しい声音で囁いた。
「普段は、まるで仲間だと言わんばかりの顔で巣を徘徊するの。そうして、隙を見つけては捕食する」
中には、巣から蛹を運び出したりもするんだって。
さも愉しそうに謳う先輩に、内心恐怖した。この人はなにが言いたいのだろう、この人はなにがしたいのだろうと。
その狭間で、心臓の音を鋭く、高く聞きながらそれを予想し、期待する自分がいた。それが、吐き気がするほど嫌だった。
そんな私の考えも知らず、いや、知っているからこそ、先輩は笑みを漏らした。熱く柔らかなものが首筋を這い回り、それが過ぎればすぐに冷えて身震いする。
先輩は言った。自分もそれと同じだと。
ここで、ようやく先輩の意図していることが、言っていることが理解できた気がする。
スーツのボタンを外して、手がゆっくりと侵入してくる。腰に回されていた手も、体の線をなぞるように衣服の上を滑り、優しく這い回った。先に入れられた手が上へと進み、下着に手が触れられたとき、私は初めて制止の言葉を投げた。それはまるで聞き入れられず、フロントホックが外される。まるで最初から知っていたと言わんばかりだった。
片方の手が防御するもののなくなったそこを捉え、もう片方の手までも服の中に入る。
恥ずかしい、耳だけが異様に熱い。ここまで良いようにされてまともに抵抗すらできない自分が悔しくてしようがない。
「ねえ。ここまで来て、ここまでされて。いいよね? 持ってっても」
耳に唇を押し付ける。歯を当てて噛り付き、這い回っていた指先が強く、体に衝きたてられる。肉を貫くように私の体に沈む指に、痛みよりも甘美な刺激を感じていたと思う。
ちゃんと言い切れないのは、意識が朦朧としていたからだ。まるで泥の中に沈んでいるようだった。ただ背中に感じる先輩の体温と、口付けされた手だけが熱かったのは確かだ。
服の中から伸びた手が首筋を撫でさすって、耳に舌が這い回ったとき、ドアの向こうから愛犬の鳴き声が聞こえた。気配はすれども、中に入ってこない私を急かすような声。それを聞いた瞬間にまるで電流が走ったように体が震えた。
反射的に身を捻る。抵抗されるとは思わなかったのか、簡単に拘束から抜け出せた私は先輩を突き飛ばした。まだつながっていたボタンも弾け飛んで、先輩は通路の壁に体を打ち付けていた。
落ちてきたブラジャーを拾いスーツを引き寄せて胸元を隠す。先輩はそれを笑いながら見ていた。
いや、口元だけだ、笑っているのは。目が笑っていない、見たことのない目だった。あの丸っこかった目が鋭く細められて、まるで蛇に睨まれているようだった。
すっかり怖気づいた私に近づき、先輩の伸ばした手が頬に震える。怖くて顔を背けるも、頬を両手に掴まれ強引に引き寄せられた。
先輩の唇が触れたとき、私は自分の唇をきつくかみ締めた。あの蛇を思わせる目、あれから連想して、私の口内に入ろうとするものが浮かんだのだ。
けれど先輩は元々それが目的じゃなかったようで、私の唇に吸い付くだけだった。音をたてて、舌でねぶり歯をたてる。
食われる。そう、頭の中に言葉が浮ぶ。先輩は髪を掴んで私を無理に反らせた。痛みに喘いだとき、それを狙って舌が入るんじゃないかと慌ててつぐむ。けど、先輩はそれをするつもりはなかったようで、満足げに自分の唇を舌で濡らしていた。
「……はぁ……なんか、ゾクゾクする」
上を向いた唇から、首筋から、胸元から。先輩は開いた手の指先で縦になぞっていく。それがあんまりにも優しくて、さっきの先輩とは別の人じゃないかと疑ってしまうほどだった。背筋に走る寒気に耐えていると、先輩は私の瞳を覗き込んだ。
これでもまだ、駄目なのか。
先輩の問い、答えられずに黙っていると、「そっかぁ」とさして残念そうでもなく呟いて、私から離れた。先輩が離れると同時で、ようやく動けるようになった私は鍵を拾い直す。先輩はそれを見ながら、本当に嫌なのなら仕方のないことだと笑った。
そのままこちらに背を向ける先輩を私は思わず呼び止めようとして、思いとどまる。呼び止めてどうすると言うのだろうか。
先輩は自分のことをアリグモと同じだと言っていた。さっきのことも、今のこの行動も、自分を認めさせるための演技なのではないかと、私はそう考えた。いや、実際なら多分、他の人も先輩を拒むだろう。
ドアの鍵を開けて、中に逃げ込もうとした私が振り向いたとき、寂しそうに濡れた瞳でこちらを見つめる先輩がいた。いつものように口元だけに笑みを浮かべて、先輩は手を振っていた。
自分の部屋に逃げ込んだ私はすぐさま施錠して、じゃれつく愛犬を押し留めてシャワーを浴びた。火傷しそうなほどに熱いお湯で体の隅々を洗い、寒さに震える。その後は寝床に潜り込んでもすぐには寝付けず、心配そうにこちらを見上げていた愛犬を、初めて寝床に向かい入れた。
休日の間、私は孝子と連絡を取ることはなかった。週の初め、いつもなら私が出社した時間帯には現れる孝子の姿を見ることはなく、そして空いた先輩の席を見て思わず苦笑した。
上司は孝子と先輩が無断で欠勤していることに嘆くように、周囲の同僚にも聞こえるような声で愚痴を言っていた。
もしも、あのとき愛犬の声が聞こえなければおそらくは、私も孝子のように会社を無断欠勤するはめになっていたのかも知れない。
先輩は自分のことをアリグモと同じだと言っていた。仲間を演じ、その巣に潜り込み、捕食する。もはや仲間でないと知れた以上、この巣に戻ることはないのだろう。先輩はあくまで捕食者だから。
そうして、持ってかれた孝子も、おそらくはここに帰って来ることはできないんだと思う。
上司にごまをするために、給湯室でコーヒーをつくりながら窓の外を見た。地震にも強そうなコンクリートの群生する町を強い日差しが焼いている。雲ひとつもない空の下で、今でも先輩は捕食者として、仲間を演じているのだろうか。
捕食するため、獲物に擬態する。先輩は人外の怪物なのだろうか、それともまさに捕食者である自分の特異性を例えて話したのだろうか。
どちらにせよ、いつか孝子の部屋にも誰かが踏み入るだろう。そのとき、なにが残っていて、なにが無くなっているのか。
私は愛犬のチィに感謝しながら、上司の大声で我に返った。すぐさまコーヒーを淹れてオフィスに戻る道すがらまた外を見た。もしかすると、この青い空もコンクリートの塊も、今、私がコーヒーを運ぼうとしている上司ですらも、唾液を啜る怪物なのではないかと、そう思えた。
いかがでしたでしょうか。
なんとなくえろすを書いてみたくてやりました。ストレートな表現よりも雰囲気だけのがエロエロだろう、とかなんとか考えた挙句、それがかなり難しかったので結局はストレートな表現に逃げ込みました。
うーん……エロくない。そして相変わらず書き方もまとまらない。えろすを求めた挙句に躓いた。
こんなものでも読んでくれた方に感謝いたします。ご読了ありがとうございます。
ちなみに本文に出ていたアリグモについてですが、某フリーソフト百科事典で調べたところ、実際に巣から蛹を運び出した、という事実確認はとれていないようです。擬態にも色々な種類があり、今は“攻撃されないように蟻の姿へ擬態している”というのが一般的な説だとかそうじゃないとか。
擬態方法が一番前の足を持ち上げて蟻の触覚に似せてひょこひょこ歩いているというのだからかわいらしい。
私もアリグモではないか、と思うものを実家で見たことが数回あります。蟻みたいなのが飛び跳ねていたんですから、きっと間違いないはずです。
みなさんも一匹だけの蟻を見つけたら、注意深く観察してみるといいかも知れません。擬態しているのか、それとも普通の蟻か。どちらにしろひょこひょこ歩いている姿は癒されそうです。