甲賀越え
武田征伐の労いの名目で信長に呼び出された家康は本田忠勝や石川数正、服部正成ら重臣と、任務を終えた才蔵らの伊賀者、才蔵らに協力した甲賀者と共に堺から京に向かっていた。そして思惑通り明智光秀が謀反を起こし、あとは用意していた経路で駿府に帰るところであった。
そこへ京の豪商、茶屋四郎次郎がやってきた。
「家康様!一大事でございます!なんとあの明智光秀が謀反を起こし、信長様を自害に追いやったとのこと。信長様に通じていた我らも命を狙われるかと・・・。」
「なんと!それはまさに一大事ですな。一刻も早く京を脱しましょう!」
「某もご一緒させても・・・・。」
“この男に罪はないし、これまでのよしみじゃ。うまく芝居をしないとな。”
「もちろんじゃ。どうやって駿府まで帰ろうか、困ったもんじゃ。」
家康らは信長の討伐後、甲賀を通る経路で駿府まで逃げ帰るつもりであったが、あまりに迅速な行動を取ると茶屋四郎次郎に謀反を事前に知っていたと疑われることを考慮し、悩む演技をしていた。
家康の演技を察した重臣らも演技を始めた。
「殿!ここは我ら服部家と縁のある伊賀を通るのがよろしいかと。伊賀者であれば・・・。」
服部半蔵が意見を述べた。
「いやいや、信長様が伊賀攻めをしたばかり。信長様と同盟を結んでいた我らは敵と見なされます。伊賀は危険。」
石川数正が否定すると、今度は本田忠勝が意見を述べた。
「関所や街道を通れば明智の手勢に見つかるのは必至。伊賀も危険であれば甲賀はいかがか。甲賀を通れば高低差の少ない山中を通れる上、信長様に敵対していた甲賀衆が味方になるやも知れません。」
それを聞いた家康は刮目し、茶屋四郎次郎に向けて話し出した。
「茶屋殿。我らは甲賀を抜けて船で三河へ渡ろうと思う。三河まで行けば、我が領内。安心して駿府まで戻れますぞ。」
「皆さまのご意見であれば、某は何も不満はありません。」
「では決まった。猶予はない。今すぐ準備して出発するぞ!」
そこへ甲賀者の勘助が家康に小声で話しかける。
「では我らは手はず通り、先行し、異常があれば狼煙でお知らせ致します。」
家康は無言で頷いた。
こうして家康一行は甲賀に向かった。協力してくれる甲賀者には謝礼を出して道案内を頼み、味方ではない地元の山賊らは人質を出す代わりに戦を避けて道を急いだ。
用意してあった経路とはいえ、山中を進んでいた一行は厳しい獣道に悪戦苦闘していた。
「半蔵。ここまで険しい道とは聞いておらんぞ。」
家康が不満を服部半蔵にこぼす。
「街道を堂々と通り、宿場町で食事をして宿に泊まりながら三河に帰ったら、信長討伐に関わったことが疑われるから山中で帰ろう、と評定で決まったことでございます。」
半蔵が淡々と返す。
「それはそうじゃが、野宿とはな・・・。食事もまともにないし、本当に山賊にも襲われたぞ。」
「ははは。ここまでの剣路で帰れば誰も殿が明智殿と組んで信長を討ったとは思いませんぞ。」
「・・・。何か飯はないか?」
「わずかながら米がございます。」
「竈もないし、どう炊くのじゃ?」
「このような山越えは我ら伊賀者は慣れたもの。ご馳走を用意いたしますぞ。」
半蔵はそう言うと、才蔵らの方を見て目で合図した。
「才蔵。殿に食事を用意しろ。」
「兄上、承知しました。」
才蔵はそう言うと、手ぬぐいに持っていた米を出して竹筒に入れていた水を掛けた。
そして苦無で土を掘り、その穴の中に米を包んだ手ぬぐいを入れた。
その上に土を掛け、更に枯れ木や枯れ葉を掛けて焚火をした。
才蔵は周囲を見渡し、手ごろな枝を苦無で削り、箸を作り、竹を見つけると鋸で切り、皿を作った。
そして待つこと一刻。
才蔵は土を掘り起こし、手ぬぐいを取り出して竹の皿に蒸された米を乗せ、箸と共に家康に差し出した。
「ほほう。慣れたもんじゃ。しかし、ちゃんと蒸されておるのか?」
感謝しつつも家康は食べ物に気を遣う武将であったため、やや戸惑っていた。
その様子を見た半蔵が家康に話しかけた。
「殿。このような状況で贅沢は出来ません。食せるものは何でも食して生き長らえなくてはなりません。才蔵も何度もこのように米を蒸しております。どうぞ召し上がってくだされ。」
「そうじゃな。すまなかったな、才蔵。有難く頂くぞ。」
「はは。有難きお言葉。」
家康は才蔵の蒸した米を一口食べると、「美味い!」と言うと、一気に食べ終えた。
「才蔵。美味かったぞ。」
家康は感謝し、伊賀者らの日常の苦労を想像した。
“敵陣に忍べば、いつ殺されてもおかしくない状況に置かれ、一大事があれば過酷な道中も厭わず山中も走り、いざ合戦になれば城に忍び込み、敵がどこにいるか分からない状況でも詮索する伊賀者。儂が天下を取ったなら必ず報いるぞ。”
家康は改めて伊賀者の苦労を感じ取り、感謝をし、その苦労に報いる決意をした。
家康ら一行が山中を進み続けていたある夜。狼の遠吠えと梟の鳴き声だけが聞こえていた。
行き先の方向の空を確認していた才蔵が狼煙に気付いた。
「一大事ですぞ!甲賀者の狼煙が上がっております!
才蔵の声を聞いて服部半蔵が尋ねる。
「敵襲か?!」
「そのようでございます。先行した甲賀者が敵を発見した模様。我らは動かず茂みに隠れましょう。」
「分かった。儂は殿と重臣方を起こし、身の安全を確保する。」
「よろしくお頼み申す。」
半蔵は家康と供回り衆を起こし、周囲を見渡せる尾根に連れて行き、周囲を警戒した。
前方から松明を左右に揺らしながら向かってくる一人の男が近づいてきた。
才蔵が物陰からその男を確認すると先行した勘助の部下、半兵衛であった。
「申し上げます。この先にはまだ我らに敵対する集落があります。勘助殿が説得しておりますので、続報が来るまでお待ちいただきたい。」
半兵衛が勘助の伝言を伝えると、才蔵が対応した。
「承知した家康殿の下知が出るまで、暫し待て。」
そう言うと才蔵は家康に報告し、指示を仰いだ。
「お主ら忍びのことは信頼しておる。ここで待つとしよう。先行した忍びらには労いの言葉を掛けてやれ。」
家康はこんな逃避行で、忍び自信も疲れた状態で自分のために命を惜しまず任務を全うする忍び達に心から感謝した。
「ははっ!」
才蔵は家康の心中を察し、忍びの任務に全うすることを改めて誓った。
「ところで才蔵。ここで夜を明かすことになりそうじゃが、お主らはどのように寝ておるのじゃ?」
「刀と予備の小袖、糸があれば十分でございます。」
「ふむ。快適でないのはわかった。実際に手本を見せて説明してくれ。」
「承知しました。」
そう応えると才蔵は刀を地面に刺し、鍔の回りに糸を巻き付け、近くの枝に巻き付けた。
そしてもう一度糸を刀の鍔から別の枝に巻き付け、一刀から2本の糸をそれぞれの枝へと結んだ。
刀と枝に支えられ、宙に浮いた糸に小袖を掛けて簡易な屋根を作り出した。
付近の葉を集め、屋根の下に撒いて家康の方を見た。
「なるほど。何もないよりマシ、・・・か。」
「我らは交代で周囲を警戒します。その更に外側には鈴を付けた糸を張り、獣や人が近付いた際に音が出るように罠を仕掛けます。殿はご安心してお休みなされ。」
「わかった。よろしく頼んだぞ。」
伊賀者は交代で見張り番をして夜を明かした。
翌日。
勘助らの向かった方向に狼煙が上がった。
「おお、勘助たちが上手くやったようじゃ。」
狼煙を確認した才蔵は半蔵と家康に報告した。
家康ら一行は歩みを進め、道中の寺などで休息を取りながら進んだ。
「ここまで何とか襲われることなく、来れましたな。」
茶屋四郎次郎は家康に話しかけた。
「左様でございますな。しかし、油断は出来ませぬ。話の通じない相手もおりましょう。」
「おっしゃる通りでございますな。家康様の資金もだいぶお使いになられました。次、金品が必要な時は某の金を使ってくだされ。」
「それはかたじけない。」
こうして家康一行は時に金、時に武力をちらつかせながら山中を進み、無事に三河にたどり着き、茶屋四郎次郎とは別れた。
三河の岡崎城にたどり着くと今後の展開を話し合うため、重臣らを集めていた。
「皆の者、ご苦労であった。無事に信長も謀反で討ち倒し、我らも領内に帰ってこられた。」
「ここまでは我らの謀ったとおりでございますな。あとは羽柴殿と明智殿がどう出るか。織田家の後継者もまだ読めませんな。信長、信忠親子が討たれたことを知れば、他の勢力も動きましょう。」
家康の言葉を聞いた本田正信が続いた。
「ここは一旦、様子を見るのがよろしいかと。下手に動いて不利な状況に陥るより、情勢が見えてから動くのが無難。」
石川数正が意見を述べた。
「そうじゃなぁ。秀吉殿は明智殿を倒すと約束はしてくれておるが、倒すとは限らんし、儂らとの約束を反故にするかも知れんな。信忠亡き今、信雄も信孝も無能故、他の家臣がどう動くか全く読めん。ここは兵力を蓄えるのが良さそうじゃ。」
その後の方針を固めた家康は駿府に戻り、軍備の増強と他の勢力の情報収集に努めた。
才蔵ら伊賀者も領内に戻り、次の任務に備えた。
◆◆◆駿府城◆◆◆
家康が服部半蔵を呼び出していた。
「半蔵、また一つ頼みがある。」
「はっ!」
「またお主の伊賀者に敵の情勢を探ってもらいたい。」
「どちらへ?」
「羽柴秀吉と明智光秀、織田信雄、織田信孝じゃ。」
「御意。」
「どの忍びをどこへ向かわせるかは、お主に任せる。」
「はっ!」
虎丸は織田信長に仕えた時に織田家の武将とは面識があったので出番なし。
才蔵は本能寺の変の際、光秀に姿を見られたことを考慮し、秀吉の下へ。
かつて才蔵に恨みを持っていたが、今では互いに認め合う存在の天兵衛は光秀の下へ。
才蔵と共に織田家に潜入していたが裏で情報収集していた足助は信雄の下へ。
弥右衛門は信孝の下へ向かうことになった。
故郷の里を滅ぼされた伊賀者は、信長に対して逆襲を果たし、次なる任務である家康の天下統一へと邁進することとなった。
◆◆◆備中、秀吉の陣地◆◆◆
この頃、羽柴秀吉は信長の下知を受けて中国地方の毛利家に猛攻を仕掛けていた。
毛利方の前線を守るのは、毛利家中でも信頼の厚い清水宗治。そして籠っていた城は周囲を湿地帯に囲まれた難攻不落の備中高松城であった。秀吉は宗治に対して降伏すれば備中、備後の二か国を与えるという破格の条件を約束した信長からの誓詞を宗治に送っていたが、宗治は軍門に下ることなく、信長からの誓詞を主君の毛利輝元に届けていた。
そんな中、秀吉の警戒網に明智方の使者が引っ掛かった。
明智光秀は信長、信忠親子を討ち果たした後、全国の有力大名に協力を要請するため、使者を送っていた。
明智軍は毛利輝元にも協力を要請するため、藤田伝八郎、原平内らを毛利方へ派遣していた。
1人の使者では何かあった際に連絡が途絶えてしまうため、明智方は複数人の使者を様々な経路で送っていたが、そのうちの一人である藤田が秀吉の陣中に入り込んでしまい、捕まったのだ。
「申し上げます!明智方が放った使者を捕えました。懐には密書らしきものも。」
「なんと?!密書には何と?」
「明智光秀殿が信長様と信忠様を討ち、毛利に対して明智へ協力を要請する内容でございます。そして、この者は明智が放った使者で、明智の伝言を毛利へ伝えるために向かっていたと申しております。」
「信じられぬ。官兵衛、どう考える?」
「明智殿が信長様を討つ理由が判明しませんが、信長様の護衛が少なく、明智殿は我らの援軍のために大軍を動かせる状況であったので、あながち虚報とも言えません。真相は分かりませぬが、真実だった場合、我らは毛利と争っている場合ではないやも知れませぬな。」
「真実なら、毛利と和睦したいが、毛利が信長様の死を知った場合、和睦には応じないだろうのう。」
「この者を捕えたのは我らに運気が回ってきた証拠。秀吉殿、明智と毛利の連絡を遮断するために警戒網を強化いたしましょう。」
「うむ。それと真実だった場合のことも考えておくか。この者は閉じ込めておけ。」
こうして秀吉は今後の方針を練るため、弟の秀長、官兵衛ら重臣を集め、戦略を練り直した。
すると翌日、秀吉と親睦のある京の商人、長谷川宗仁から使者が秀吉の陣を訪れた。
使者は秀吉の面前に出るなり、密書を手渡した。
「ふむ。・・・・。」
宗仁の密書にも信長、信忠親子が明智光秀に討たれたこと、本能寺の近くに住んでいた宗仁が本能寺の火事を目撃したことなどが書かれていた。
秀吉は訃報が真実と分かり、泣き崩れ、使者の面前にも関わらず嗚咽を漏らした。
身分の低い時から信長に拾われ、身分制度が厳しい世の中であったにも関わらず信長に認めてもらって出世してきた秀吉は過去を思い出し、悲しみに打ちひしがれていた。
秀吉の参謀、黒田官兵衛が宗仁の使者に近づいた。
「報告ご苦労である。殿はご覧の状態。あちらの陣所で休まれよ。」
「ははっ。」
使者が秀吉の面前から立ち去ると、官兵衛は秀吉の耳元で囁いた。
「ご武運が開けましたな。」
これを聞いた秀吉は官兵衛の意図を察した。
信長と、その後継者であった信忠が討たれた今、織田家は混乱し主導する者はいない。
生き残っている信長の次男信孝も三男信雄も信長、信忠ほどの求心力や家臣からの信頼もなく、実戦経験や武将としての力量もなかった。
そんな今、信長、信忠を討ち果たした光秀を倒せば織田家中での発言力は高まる。
一刻も早く毛利と和睦し、光秀のいる近畿地方へ戻らなければならない。
秀吉は官兵衛の冷静さと切り替えの速さに驚くと同時に、その野心に恐怖も感じた。
官兵衛は秀吉に更に耳打ちをする。
「殿、毛利方にこの情報が入る前に動きましょう。そして情報漏洩を防ぐため、明智方の使者は斬り捨てなされ。」
秀吉も悲しみに打ちひしがれている場合ではないと気付き、冷静さを取り戻した。
「うむ。そうしよう。これ、昨日捕えた明智の使者は今すぐ首を刎ねろ。」
秀吉は小姓に明智方の使者を切り捨てるように命じた。そして官兵衛が続ける。
「次に毛利との和睦ですが、我らが戦を有利に進めてきたこの状況で、相手に有利な和睦を提案すれば我らの異変に気付かれます。これまで通りの姿勢で臨まれますよう。」
「そうじゃな。よし早速毛利方の使者、安国寺恵瓊をこちらに参るよう、毛利方へ申し向けろ!」
秀吉は小姓にそう命じると、官兵衛、秀長と3人で話し合いを始めた。
「和睦の条件じゃが、先日の恵瓊の話では、毛利は備中、備後、美作、伯耆、出雲の五か国の割譲と備中高松城の城兵すべての命を助けることと言っておったな。儂は備中高松城の清水宗治の切腹と五か国の割譲で和議を進めるつもりじゃ。お主らはどう考える?」
「これまでのこちらの姿勢と変わらず、良い条件と考えます。」
官兵衛が答えると、秀長も頷いた。
そこへ恵瓊が訪れた。
「おう、恵瓊殿。和議についてだが・・・。」
「秀吉様。恐れながらこの和議をまとめるには宗治殿と備中高松城の城兵の命だけはお助けいただかなければ我が主も譲れぬものと存じます。」
「うむ。儂も城兵5,000の命だけは助けてやってもよい。しかし、宗治の命だけは譲れぬ。」
「そこをなんとか。私が説得して降伏するよう申し向けますので・・・。」
「ほう。わが軍にか?」
「はっ。」
「宗治の戦いぶりと忠義は見事なものだ。もし軍門に下るなら和議をまとめよう。しかし、そうでないなら切腹しかないぞ。」
「お任せを。」
こうして恵瓊は毛利の陣中に戻り、輝元に和議の条件を伝えた。
輝元は恵瓊に対して宗治救援が不可能なこと、これまでの宗治の忠義と功績から切腹はさせられず、秀吉に降伏するように宗治に伝えるように依頼した。その後、恵瓊は宗治の下へ向かった。
宗治と対面した恵瓊は早速、和睦の条件を伝えた。
「宗治殿。秀吉は降伏すれば宗治殿のお命と城兵の命を保証すると申しております。輝元殿も宗治殿の命だけは譲れない条件で、降伏するように、とのお言葉。ぜひ降伏なさって和議を結びましょう。」
それを聞いた宗治はゆっくりと目を閉じ、静かに語り始めた。
「輝元殿の儂へのお気持ちは大変うれしゅうございます。この上ないありがたいお言葉。しかし、儂の命で城兵5,000の命と毛利家を守れるなら安いもの。秀吉ごときの下へ行くつもりは毛頭ございませぬ。」
「しかし、これは輝元殿願い。殿のお気持ちも・・・。」
「恵瓊殿。儂の気持ちは変わりません。ここに籠っている儂の兄、弟はここで忠義を果たす。二心を持つつもりはございません。その旨を秀吉に伝えてくだされ。」
恵瓊はその後も説得を試みたが、宗治の気持ちは揺るがなかった。
「左様でございますか。これが宗治殿との今生の別れ・・・。」
「そう悲しむことはございません。毛利家のためなら切腹は名誉なこと。儂の死場所は決まりました。」
恵瓊の説得も虚しく、宗治の覚悟は揺るがなかった。
恵瓊は宗治の覚悟を輝元に伝え、秀吉の陣中に向かった。




