忍び入る
◆◆◆岡崎◆◆◆
岡崎城で待っていた家康は佐助に労いの言葉とこれまでの報告に対する感謝の意を述べた。
「おお、佐助。元気か?今川領の地図、さすがじゃ。」
「有難きお言葉。本日は直接お耳に入れたい話がございます。」
「申してみよ。」
「先日、今川領において武田の忍びである透波者を見つけました。信玄は今川領内の事情や家臣内の事情も全て把握しているものと思われます。」
「やはりそうか。と言うことは、いつでも攻めることが出来るわけじゃな。」
「左様でございます。武田は甲相駿同盟のため、すぐには攻められません。しかし、軍備はいつでも整っております。こちらも準備が欠かせません。」
「分かった。早速準備を始めるとする。」
「それともう一つ。武田が透波を今川領に潜入させているということは、我らが領土にも潜入しているものと思われます。」
「すると我らが今川を攻めようとすれば、武田も早々に今川を攻めるか。」
「おそらく我らの動きは武田も掴んでおります。」
「では、攻め始めたならば一気に動かねばならんな。」
「はっ。」
◆◆◆武田領、甲斐の国◆◆◆
才蔵は米商人の手伝いをしながら情報収集をしていた。
全国行脚をする僧や行商らから話を聞いたり、町人や農民とも話をしてあらゆる情報を入手していた。
また、領内の米の収穫量や相場も気に掛け、米の買い手から事情も聴いたりしていたある日。
「米を5俵買わせてくれ。」
どこにでもいる風体の町人が米を買いに来た。
“この客、昨日も買いに来たな。”
才蔵は料金を受け取り、米を渡すと、店の在庫を整理するフリをしながら横眼で客の動きを見ていた。
客は荷車に米俵を乗せ、もう一人の男と移動を開始した。
「旦那様、腹が痛いのでちょっと厠へ。」
才蔵は米屋の主人に許可を取ると、客の後を追った。
客は武田信玄の居城である躑躅ケ崎館に入っていった。
“領主ならもっとまとめて買って、納めさせるはず。なぜ堂々と買わないんだ?信玄が米を買っているのを知られたくないのか。備蓄米なのか戦の準備か、分からないが、見られているという意識があるのだな。”
才蔵は店に戻り、手伝いを再開した。
才蔵は時間が出来ると行商のフリをして躑躅ケ崎館の観察をするようになった。
そんなある日、才蔵はある家臣に目をつけていた。
武田信玄の嫡男、義信の重臣、桐谷長安。
義信は本来武田家を継ぐはずだったが妻が今川家の出身のため、信玄の今川侵攻方針を苦々しく思っていた。そして今川との内通を疑われ、自害に追い込まれた。
その義信の重臣の長安は自らの主人である義信を自害に追い込んだ信玄に対して不信感を抱いていた。
才蔵はそこに目をつけたのだった。米屋に出仕する日を減らし剣術と学問の師として働くことを決意。
長安の屋敷から躑躅ケ崎館への途上にある下級武士の家において、武士の幼い子供に対して剣術の稽古
をするようになっていた。
長安が通る時には必ず通りから見える場所で厳しく稽古をして、声を張り上げて伊賀で鍛えた剣技を披露していた。
「空丸、まだまだだな!それでは立派な侍になれないぞ!」
それを見た雇い主である武士は才蔵を褒めたたえた。
「お主は若いのに、剣の腕前もあり、学問も修めていて素晴らしい。このようなところにいるのが惜しいくらいじゃ。」
「有難きお言葉。いつかは武田家に仕えて手柄を立てるのが夢でございます。」
「そうか。夢が叶うと良いな。それまで我が子を頼むぞ。」
「はっ!」
才蔵は一生懸命に空丸を鍛え、儒学なども教えていった。
そんなある日、義信の召使が才蔵を雇っている屋敷にやってきた。
「お主の雇っている若者を我が主が雇いたいとおっしゃっておる。どうじゃ?」
「はっ!あの若者は非常に優れたもので、我が子も懐いております。手放すのは惜しゅうございますが、才蔵のためなら快く受け入れます。ぜひ才蔵をよろしくお願いします。」
「そうか、長安様もお喜びになる。これは長安様からのほんのお礼じゃ。受け取るがよい。」
「恐れ入ります。」
「では早速、連れて行くぞ。」
「はっ。只今、才蔵を呼びまする。才蔵ー!」
すぐに才蔵はやってきて、長安の召使と主人に頭を下げた。
「才蔵、こちらは武田家家臣、桐谷長安様にお仕えするお方じゃ。長安様がお主の剣の腕前を見込んで雇いたいそうじゃ。」
「それはこの上ない名誉なこと。ご主人様がお許しになるなら・・・。」
「お主を手放すのは誠に惜しい。しかし、お主はここにとどまる男ではない。武田家に仕え、立派な武将となるがいい。」
「はっ。感謝致します。」
主人と才蔵のやり取りを見ていた長安の召使が時を見計らって話し出した。
「では才蔵、長安様にお仕えしてくれるな?」
「はっ。喜んで。ご主人様、これまでお世話になりました。お元気で。」
「おう、お主も元気でな。」
こうして才蔵は武田家家臣の桐谷長安に雇われることになった。
桐谷長安の屋敷に到着すると、才蔵は召使と共に長安の面前に通された。
「おお、よくぞ参った。名は何と申す?」
「才蔵と申します。」
「才蔵か。良い名だ。才覚が蓄えられた蔵ということか。いずれ戦もあるかと思うが、それまでは儂らと武芸に励もうぞ。」
「はっ。」
長安と才蔵は他の者と共に剣や槍、水練などの武芸に励む日々を送っていた。
時には夜まで酒を飲み、親睦を深めていった。
ある日、長安は不満がにじみ出た表情で屋敷に戻った。
長安の表情を見た才蔵は話しかけた。
「長安殿、どうされましたか?」
「おう、才蔵か。人払いをせい。」
才蔵は召使に依頼し、部屋に長安と二人だけになった。
「才蔵、これから言うことは誰にも言うな。お主を信頼してるからこそ、話す。」
「承知しました。」
「信玄殿は今川家との同盟は破棄し、松平と手を組み、今川家の領土を奪うつもりじゃ。」
「なんと。同盟を。」
「そうじゃ。我が亡き主、義信様が大事にしていた今川家との関係を断ち、まだ小者に過ぎない松平と手を組むとは。儂は許せん。」
「長安様の心中、お察し致します。」
「これからどうするか決めかねておるが、この事は他言無用だぞ。」
「御意。」
その夜、才蔵は連れてきた伊賀者、時丸に内容を告げ、家康に報告するよう下命した。
才蔵本人は引き続き、武田領内と武田家の情報を収集していた。
◆◆◆岡崎◆◆◆
時丸が報告のため家康の下へ来ていた。
「才蔵から報告があるとな?」
「はっ。武田家臣、桐谷長安からの情報によりますと、信玄は今川との同盟を破棄し、近いうちに侵攻を開始。当家とは手を組み、今川領土を分け合う算段とのこと。」
「今川領へ攻め込むのは分かっていたが、我らと手を組むとは。正信、どう思う?」
「我らにも利点がある今川領分割を提案することで、我らが武田を攻めることを防ぎ、今川攻めに専念するつもりかと。我らとしては、この提案を拒否して単独で今川を攻めたところで、武田との関係が悪化するのみ。手に入るものが同じなら、信玄の提案を受け入れるべきかと。」
「そうじゃな。時丸、続報が入り次第、急ぎ報告するように才蔵に伝えよ。」
「はっ。ではこれにて。」
時丸はすぐに才蔵のいる甲斐へ戻っていった。
それから1か月後、武田信玄の使者が家康の下へやってきた。
家康の面前に通された使者に元康が話しかける。
「これはこれは。遠路ご苦労でござった。武田殿の使者とは珍しゅうございますな。」
「はっ。この度は信玄様の手紙をお持ちしました。まずはお読みくだされ。」
手紙には、先日才蔵からもたらされた通り、手を組んで今川領を攻めるとの内容が書かれていた。
そして具体的に大井川を境に東を松平、西を武田で分けるとも書かれていた。
「つまり駿河の国を武田殿、遠江の国を松平領とする、ということでございますな。」
「その通りでございます。いかが?」
「武田信玄殿のご提案なら、こちらは異論はありません。」
「では、この密約は成立でございます。そして、時期ですが我らは早々に攻め込みますが、松平殿はいかがいたしますか?」
「我らも急ぎ、戦支度を整えます。」
「左様でございますか。それでは、拙者はこれにて。」
武田の使者が帰ると、家康とその家臣らは互いに目を合わせた。
「殿も役者でございますな。既に準備はできているのに、「急ぎ戦支度を整える」とは。」
「ははは。それはそうじゃろ。『武田が攻めるのは知っていたから、既に準備は出来ている』なんて言えるか。」
「では、出陣のご用意を。」
「うむ。」
こうしてこの年、武田信玄と松平家康は時を同じくして今川領へ侵攻した。
武田信玄は駿河の国、駿府城を攻略。今川氏真は遠江の国、掛川城へ逃げ込んだ。
その後も武田信玄は順調に駿河の国を攻略し、支配した。
家康も遠江の国の城を順調に落としていったが、今川家の有力家臣、朝比奈氏の居城、掛川城を攻め落とせずにいた。
掛川城の周囲に砦をいくつも作り、猛攻を仕掛けたが朝比奈、今川軍も激しく抵抗し時が過ぎていく。
武田信玄が想定外の速さで駿河の国を攻略したため、佐助ら伊賀者も事前に潜入できず、互いに決め手がなく双方に激しい死者を出していた。




