天道
時は戦国乱世、まだ誰が天下を統一するか分からない天文21年12月26日。
穏やかな晴れたその日、山々に囲まれた伊賀国花垣村で1人の男の子が生まれた。
「おぎゃー、おぎゃー」
「元気な子だこと。」
元気な男の子を生んだことで母親の菊は安心と喜びを感じ、思わず笑顔になった。
「お菊様、元気な男の子ですね。この子は••。」
産婆が声を掛けると菊の顔から笑顔は徐々に消え、静かに話し始めた。
「保長様がこの子は忍びとして育てると•••。」
「そのためにわざわざ三河から遠い伊賀まで来たんですね。」
「ええ。父の顔を見る事も無く、ここで修行をする為に。」
「それも天道とは言え、切ないですね。」
「保長様自身も元々は忍びで、忍びは危険を伴い、報われないからと武士の道を選ばれたのに。」
「まあ。お菊様、この子のお名前は?」
「保長様が才蔵にするとおっしゃっておりました。」
「そのようなお名前でございますか。忍びに育てる覚悟が窺えるお名前ですね。」
「保長様の願う天下泰平の世の中のために・・・。」
菊は産婆との会話を終えると外を眺めた。才蔵の将来を憂う気持ちでいっぱいであったが、冬の寒さの中、温かい陽ざしを浴びてすやすやと眠る才蔵を見て、服部家の者として覚悟を決めた。
◆◆◆三河にいる服部半蔵保長の屋敷◆◆◆
「父上、伊賀に行った菊殿が男子を産んだそうですね。」
保長の次男、保正が話し掛ける。
「うむ。元気な男の子だそうじゃ。才蔵と名付けた。」
「いかにも忍びらしい名前でございますな。」
「これからは武士の時代じゃ。ワシも忍びとして生まれ育ったが、生業には不向きじゃ。将軍家、松平様と仕えてその考えは間違ってないと思っておる。しかし・・・。」
「しかし?」
「忍びは必要じゃ。我が主君、清康様、広忠様と相次いで暗殺された。誰が何を企んでおるか分からぬ。不穏な動きを察知するには敵方はもちろん、商人、町人、敵か味方かも分からぬ者まで常に情報を仕入れておく必要がある。その為には全国あらゆる場所に伊賀者を配置し、それを束ねられる頭が欠かせぬ。しかも儂の意のままに動いてくれねばならぬ。」
「才蔵をその頭にするのですな?」
「そうじゃ。忍びとしても頭としても一人前以上でなければ務まらぬ。才蔵にその才能が無ければ他の者にやらせるしか無いがのぉ。」
「師はどなたに?」
「佐助じゃ。」
「なんと!忍びの師は怪我や高齢で引退した者が務めるの常。佐助殿はまだ隠居されておりませぬが。」
「それ以上の忍びはおるまい。」
「確かに佐助殿程の忍びはおりませぬが。」
「奴も忍びの今後を憂いているようじゃ。快く受けてくれたわい。」
「恐ろしい修行が待ちうけていそうですな。」
「立派な忍びが育つじゃろう。」
◆◆◆伊賀国花垣村、服部家屋敷◆◆◆
「お菊様、佐助殿がお見えになりました。」
女中が菊に声を掛けると、菊は保長の平和への願いを思い返し、立ち上がった。
「ええ、今参ります。」
服部家屋敷の客間には年齢40才、庶民の服装である小袖を着用し見た目は忍びには見えず、畑で見かけたら農民にしか見えないごく普通の男が座っていた。
「菊殿。この度は無事に男子を出産されたとの事。大義でございました。」
「佐助殿。才蔵をよろしくお願いします。」
「承知しました。必ずや立派な忍に育て上げ、半蔵様のご期待に応えられるよう、励みます。ただ、本格的な修行は3歳になったら拙者が預かり、それから始めます。それまでは拙者がこちらの屋敷に通い、聴力や視力の訓練を致します。」
「左様でございますか。よろしくお願いしますね。」
「ええ、乳母共々、たっぷりと愛情を注いで元気な子に育ててくだされ。」
「分かりました。」
「早速この子の聴力を試してみますかな。この子が乳を欲しがって泣いたら、乳をあげる前に拙者にお知らせくだされ。」
「? ええ。」
しばらくすると昼寝をしていた才蔵がぐずりながら目を覚まし、泣き始めたので菊が佐助に声を掛ける。
「佐助殿、乳を欲しがって泣き始めました。」
「おお、ではまだあげないでくだされ。」
そう言うと佐助は才蔵の近くまで行き、その傍らに平らな石を置いた。すると一本の針を石に落とした。
チリーン、と微かに針が落ちる音がした。
「乳母の方、乳をあげてくだされ。」
「は、はい。」
「菊殿、この石と針は預けて行きますので、必ず針が落ちる音を聞かせてから乳をあげてくだされ。」
「はい、女中達と乳母にも言い聞かせておきます。」
「それと菊殿、才蔵様の機嫌が良くなる玩具や絵があれば教えてくだされ。」
「分かりました。まだ特にありませんが、見つかったらお伝えします。」
「それではまた3日後に参ります。」
第1話完
※保長=服部半蔵保長、初代服部半蔵で伊賀国出身の忍び。
徳川家康の家臣で有名な『服部半蔵』は二代目の正成の事。
正成は保長の五男(六男とも)で、今回生まれた子は弟にあたり、七男である