北浜邸奇譚〜食堂の真空管ラジオ
草深い前庭を足を抜き差ししながらかき分けて進むと、木々の鬱蒼とした枝葉に守られるようにいまにも朽ち落ちそうな遙か大正時代の遺物、北浜氏の別邸がひっそりと尖塔屋根を恥じるように建っていた。
中塚裕治は汗を拭いながらバッグから鍵を取り出し、厳めしい扉の前に立った。漸く鳴き始めた蝉の声に励まされる思いで鍵をまわした。扉を開けるのがためらわれたのだ。まるで誰かが後ろ髪をぐいと引いているような気がして、上体をのけぞらせてノブをつかんで引いた。
「ぎ。ぐあ」
蝶番が嫌な音で軋んだ。
「ぐ。が。ぐあん」
扉が抵抗しながら開くと室内から空気が風となって中塚に襲いかかった。腐臭だ。おそらくネズミかなにかが死んで、腐敗したガスが行き場がないまま滞留していたのだろう。中塚はドアノブを握りしめて棒立ちになる。気味が悪い、入る義理はない、帰ろうと思った。元々オカルトとか幽霊とかお化けとかは相手にするのは本意ではない。
最初からわけのわからない依頼だった。序破急の経験談を起承転結くっきりと客観的に記述できるライター求むとのネット求人広告に応募し、サンプル送付やリモート面談を経て採用されたのだが、求められるままに口座情報を渡すと破格の前金が速やかに振り込まれた。なにか胡散臭いスピード感だった。
「いやなに、そんなに難しいことじゃないんです。さる邸宅に滞在してもらって起きる出来事を体験談として書いてもらうだけですから。中塚さんほどの筆力の持ち主なら朝飯前ですよ。ただ」
と気になることを担当者は口にした。
「危ないと思ったら途中で放棄してもらっても一向に構いません。滞在は三日でお願いしますが、初日でも危険を感じたら中断してください」
「それはどういうことでしょうか。なにか事故でも」
担当者はモニターの向こうで首を振った。
「事故は起きてません。ただトラウマになる人が」
北浜邸は俗に言うパワースポットだというのだ。この世ならぬ力がはたらいている。その結果として、ありもしないなにかが見えたり聞こえたり触れたりし、時間や空間が歪み、異なる次元が開示されたりする。その現象の現われ方が人によってちがう。明らかに性別や年齢、血液型、生年月日、個性などによって、見えるもの聞こえるもの感じるものが異なる。
「感性の違いで受け取り方が異なるということでしょうか」
「同じ力が働いていればそうですが、人によって働く力も異なるかもしれません」
「人によって対応を変えているんですか。その館が」
「さあ、そこまでは言えないかもしれませんが、ほんとに人さまざまです。これまでの体験談をいくつか送りますので参考に目を通しておいてください」
補足説明によると、邸内に監視カメラはあるが映像はおかしなものはなにも写っていない。極めて主観的な経験なのでその人の脳裏にしか刻まれない、残らないという。だから語るか書いて客観性を担保するしかないのだという。実話アンソロジーとしてシリーズ化し、ドラマ化の話もすでに具体化している。
「映像化も前提にしっかりした構成でお願いします」
リモート面談を終えると結構な分量のPDF原稿が送られてきた。画像や音声もはめ込まれている。なんの変哲もない室内風景や自然音にしか聞こえない音が、いくぶん誇張気味の文章に添えられていた。見え方や聞こえ方に個人差があるということだろうか。しかしだれが見てもありふれた光景、よく耳にする音声にすぎないのだ。それは中塚も複数の知り合いに確認してもらった。
『うーん、暗示かな』
なにかが起こる、そう吹き込まれて先入観をもって現場に臨めば、バイアスが主観を惑わすのはあり得ることだ。それを狙ってこんなことをやらせているのだろうか。だとすればずいぶん物好きなことだ。
それとも実は科学的な研究目的があるとか。それもありえないことではないと中塚は思った。東欧では早くからSFでなくとも超常現象に少なからぬ関心を寄せ、客観性を担保した研究が重ねられてきたし、アメリカでもかのイラク戦争の折、超能力部隊が編成されたくらいだ。だから遅ればせながら本邦でも情報の収集に乗り出し、それらしい現場、パワースポットの究明に道を開き始めても決しておかしくはない。
「とにかく引き受けたのだからやれるだけはやろう」
体験談を読み進めてさほどの危険性は感じなかった。命を危うくするような事象は起きていない。せいぜいお化けだか妖怪みたいなのが脅かすだけで実害が及んだ記録はない。
「よし」と覚悟を決めて管理会社に寄って鍵を受け取り、北浜邸への道を中塚は辿った。そしていま、開けた扉の前に立ち尽くし、鼻を襲う腐臭に足が竦んでいるのだった。
「ここで引き返しても前払い金は返さなくてもよい契約だ。しかしここまで来て手ぶらで帰るのも惜しい。ふつうではなかなか入れないお屋敷だし」
などと考えているうちに人心地がもどってきて好奇心が湧いた。危険を感じるわけでもないので勇を鼓して足を邸内へ踏み入れた。
「失礼しま~す」
だれもいないと承知しつつもつい言葉がでる。そのとたんパッと灯りがついた。
「わ」と中塚は一歩退いて大きな扉に背中をぶつけた。意外な衝撃音がして邸内に響く。緊張したがもちろん反応はない。そこは大きなエントランスホールだった。センサーが作動してホールの灯りが点いたのだ。
奥へと通じる両側の壁には分厚そうなドアがいくつもならんでいた。ドアの上部にはステンドグラスが配され、それぞれの部屋の内側からの光で色彩豊かな意匠を浮かび上がらせるのだろう。
ホール中央あたり右手に階段があった。配置図によると奥にもあるはずだったが先に現れたほうを使うことにした。指定された寝室は二階だった。階段も廊下もアンティークの照明が黄色い光を投げていた。納戸や浴室、トイレなどのドアが並び、くいと曲がった先に目差す部屋はあった。
ドアを明けると真っ暗だった。手前の壁を手探るとスイッチに触れた。
「カチリ」と旧式な音がして部屋が明るくなる。天井が高い。廊下も高かったがもっと高い。足を踏み入れて靴を脱ぐ。スリッパで絨毯の上をそっと歩いてみる。リュックをどこに置いたものだろう。中身は着替えなどだからベッドのところへ思うのだが、ここにはない。ドアが二つあって一つは物置、もう一つがベッドルームだった。
「腹が減ったな」と作り付けのベッドに腰掛けながら思った。食事は用意されていると担当者から聞いていた。だからたいして気にもかけず、食料は何も買い込んでこなかった。しかしこの部屋にはキッチンらしいものはない。
「そうか。食堂があると言ってたな」
中塚は靴をはき直して廊下へ戻った。来た方角とは反対方向へ進んでみる。食堂のスペースがあるはずだ。
奥の突き当たりにあった。そこにはドアや扉はなく、歩き進むとテーブルの列になった。さらに奥に厨房がある。冷凍庫や冷蔵庫が並んでいる。開けると肉や野菜類が詰まっていて、飲み物もビールはもちろんお茶やソーダ水などソフトドリンクも用意されていた。念のため賞味期限をたしかめてみたが、どれも最近購入されたものばかりだった。
「自炊ってわけだ」
タッパーに入れてある調理済みのものをレンジで解凍してオードブル代わりにし、肉をてきとうに焼いて食べる。パンも米も用意してあったがめんどうなので手をつけなかった。ビールをあけて一人酒盛りをやっているとふと人の気配がした。おや、と振り返ると人がいた。
「うまそうな匂いがするな」
白色光の下、一つ措いたテーブルに人が座っていた。あ
「父さん!」
中塚はフォークを持ったまま凍り付いた。
短く刈り込んだ白髪頭がゆらりと揺れ、垂れた眉の下で見開いた目が空しく光っていた。父だと中塚はあらためて見定めた。他界してから五年以上、そうだ、もう七年が経つ。その父がここにこうして現れたということは… これが、この館のパワーによる主観的な体験というやつなのだろう。
「いい香りだ。食欲が刺激される」
父はこんなに明け透けに喋ったことがあったかなと訝りつつ、中塚は立って父の傍らへ急いだ。いまにも消えてしまいそうに思えたからだ。しかし父は依然としてそこに、椅子にちんまり腰掛けていつものように顔を傾げて目をきょろきょろさせていた。
「父さん」
中塚はこんどは父に向かって父の耳に口を寄せて呼びかけた。元より父の目はなにも見えていない。幼少期に葡萄膜炎から盲目になった父は小学校に上がる年齢になっても家のなかでひとり、ラジオに耳を傾ける毎日を送っていた。後にある人の忠言によって盲学校の寄宿舎に入ることになり、ひととおりの教育を受けることができた。盲学校卒後は按摩や鍼灸を生業とし母と結婚したのを機に独立して自宅で看板を掲げた。
「裕治。裕治なのか。そこに居るのは」
中塚は父の手を取った。温かかったのでかえってぎょっとした。
「そうだよ。僕だよ、父さん」
「やっと来たのか。前回からもうずいぶんになる」
父は入院するまで特養ホームに入居していたから、そのときの記憶のままなのかもしれない。病院では意識を取り戻すことなく死んでしまったから。では、まだ死んだことを知らないのか。
「父さん。ここは『合歓の郷』じゃないんだ」
「うん? じゃ、どこだ。うちじゃないんだろう」
「家はとっくに売ったからね」
「では病院か療養所か」
「いや。なんて言えばいいんだろう。よそのお宅なんだ」
「よその家?」
父はますます首を傾げて懸命に合点の行く解釈を考えようとしているようだ。
「そうか。おまえの知り合いの医者かなんかの」
「ふつうの古いお屋敷だよ。普通といっても今じゃ稀少だけど」
「おまえが借りてるのか」
「まあ。短期だけど事情があってここに居るんだ」
「わしはどうしてここに居る?」
「父さんよく聞いて。父さんは死んだんだ」
「なに!それが親に言うことか!」
「合歓の郷で気管支炎をこじらせて入院し、肺炎で死んだんだよ」
「合歓の郷で眠っていたのは覚えている。気持ちよくずっと」
「そのまま入院して眠りつづけ、意識が回復せず亡くなったのさ」
「じゃあ、この手の感触はなんなんだ。おまえの手を握ることもできる」
父は中塚の手を思い切りぎゅっと握った。按摩を生業としていただけあってその指の力は半端じゃない。中塚は顔をゆがめて呻いた。
「ううう。痛い! 痛いってば!」
骨を拾うとき、火葬場の係員が『故人は五指の骨が非常に発達しておられますがなにかそのようなお仕事を』と聞いてきたくらいだ。本気を出した指力はひょろい中塚には敵うはずもなかった。
「ほらみろ。これが死んだ人間にできるか!」
宙空に眼を彷徨せながら父は憤慨する。自分の死はだれでも受け容れたくないに決まっている。しかし既に荼毘に付されて遺骨もあるのだ。
「嘘をつけ!骨になった人間にこんな力はないぞ」
ますます指に力を入れてきたので音が、ギシギシと骨がきしみ、いまにも潰されそうな気持悪い痛みが感じられた。これはヤバい
「待った!参った!わかったから放して指を」
さらにもうひと押し父の指は万力のようにギリギリっと締め付けた。中塚はぐあああと情けない声を出した。
「わかった!』』死んでないよ父さんは」
自分が死んだと自覚した人間はいない。目の前に居る父が生身の体を有している以上、どのみち死とは無縁だ。
「そうだろう。でなければこんなに腹が空いているはずがない」
「ああ。ちょっと待ってて」
中塚は手を解放されたが顔を歪めながら立ち上がって厨房へ向かった。ずきずきと痛みが残る手で我慢して父の分の肉と魚を焼き、ビールとコップもトレーに載せた。
「うん。旨い」と父は目を細めて箸をつかった。ビールも中塚が勧めるままぐびぐびと飲んだ。中塚はその父の姿に生前の父の面影を重ね合わせてみた。皿を眼前に差し出せば父の箸は的確に肉や魚の小片をつかみとった。勘の鋭敏さが戻っている。施設での父は食事にも介添えを必要とし食べさせてもらっていたのだが、いまここにいる父は風貌こそ老いの姿だが箸の動きは中塚が幼かったころの父のそれだった。
「父さん、自分で食べられるんだ」
「たっぷり寝たせいか頭がはっきりした」
「杖一本をたよりにひとりで街中を歩き回ってたからね」
「なんの造作もない。いまならまた歩き回れそうだ」
父の傍らには白杖が一本、危なっかしくテーブルに引っかかっていた。中塚はその杖を手にとってみた。家には父の杖は何本もあった。自前で入手したものや、市やロータリークラブからの贈呈品が何本もあり、赤色灯が点くものもあった。しかしこれといって愛用の杖はなく、手当たり次第で引っ掴んでは往診に出たものだ。
しかし、ここにある杖はどうしたんだろう。夜光塗料が剥げかかって使い込んである。木製の軽いやつだ。昔、父が使っていたものにちがいない。父は歩いて来たのではなく唐突に降って湧いて、この席にすわっていたのだ。杖など必要じゃなかったろう。
「この杖、ついてきたの?」
父は、え、という顔をして首を傾げた。当惑しているようだ。
「父さん、ひょっとしてどうやってここへ来たか、わからない?」
「ここがどこだかわからんのに、どうやって来たもない!」
父は両の拳でもってテーブルを叩いた。跳ね上がった皿が肉片を飛ばす。中塚は父の剣幕にたじろぎ、なだめにかかる。
「いいよ。その話はまたにしよう。飲もうか。ほら、まだ魚も残って」
その夜は中塚も気を紛らせたかったのでとにかく飲み、かつ食べた。父が浪曲を唸りだしたあたりまでは記憶にあるが、目が覚めたときにはすっかり夜が明けていた。高い窓から差し込む光が白い壁を照らしていた。顔をあげると父の姿はもうなかった。杖も消えていた。幻か夢か。ただ父が平らげた皿や箸、コップは残っていた。ただこれらは中塚が自分で平らげかつ飲んだのかもしれなかった。
中塚は片付けもそこそこにふらふらと部屋へ引き揚げベッドに潜り込んだ。しかし思いが乱れて寝付けず、うとうとしては耳に父の声が響いたり、ずしっと重い指の力が蘇ったりした。夢うつつのまま昼近くなって中塚はベッドから出た。ちょうどスマホにラインが入っていた。企画担当のK氏だった。
〈どうです? でましたか〉
〈出た。父が来た七年まえに亡くなった〉
〈それは。ご愁傷さまでした〉
〈うん?どういう意味〉
〈哀悼の意です〉
〈え。あ、そ。ども〉
〈夜まではご自由にどうぞ〉
〈日のあるうちは異変はなしなの〉
〈報告はないです〉
〈そうなんだ。出かけてもいいかな〉
〈ええ。はい。日の暮れまでなら〉
〈じゃお言葉にあまえて〉
〈くれぐれも夜までに〉
〈了解〉
中塚は外出できると聞いてほっとした。頭の整理もかねて<外>から昨夜の出来事を反芻してみたかったのだ。なにか腹に収めてからと、食堂に向かった。厨房の流しにほっぽり出しておいた食器を洗って冷蔵庫を開ける。卵もベーコンもハムもあるしパンもある。パンは切らねばならなかったが、オーブンで焼いてバターとジャムをのせる。コーヒーメーカーのでかいのが鎮座していたので布フィルターを洗って、冷蔵庫にあったコーヒー粉をセットする。
中塚がテーブルに就いてトーストを手にハムエッグを突っつきだしたそのとき、背後で聞き覚えのある声がした。
「うまそうな匂いがする」
中塚はフォークを持ったまま、またも凍り付くのだった。
「父さん」
恐る恐る振り返ってみると、だれもいなかった。
「空耳か」
昨夜、父が座っていた席を中心に見渡してみる。高い窓から日が差して無人の食堂は隅々まで妖しいものの気配はなかった。おや
「あれは」
中塚はコーヒーカップを手にしたままカウンターへ立って行った。そこには、なんと表現したらよいのだろう。変哲のないプラ、いやセルロイドの長方形の30㎝足らずの箱が鎮座していた。左側に小さな穴の集合する楕円があってそこがスピーカー、右には直線二段の周波数パネルに大きなダイヤルが付いている。
ラジオである。かなり古いもので中塚はふと懐かしさを覚えた。子どものころ父が聴いていたラジオを思い出したのである。ひょっとしてこれも真空管のかな。
父が聴いていたのは真空管ラジオだ。昨夜みたいに父は首を傾けて耳をスピーカに寄せ、ダイヤルを回していた。その父の姿を思い出していたら高い雑音からブーンという唸り音までが一挙に記憶によみがえった。中塚は気もそぞろにダイヤルに手を伸ばしていた。カチリと音がして小さく唸る音が箱の中から聞こえた。やがて埃くさい臭いとともに唸る音が大きくなった。中塚はチューニングのダイヤルを回してみた。感度はいいようで砂嵐のホワイトノイズの合間に声や音楽が近づいては遠ざかっていく。
「おいおい、どうしたい? 久蔵」
聞き覚えのある声音でふとダイヤルが止まった。すらすらと流れていくのは浪曲である。演目は、『紺屋高尾』だ。演者は国本武春で、どちらもが生前の折、父を連れて聞きにいったことがある。父が幼いころ聞きまくっていた落語浪曲講談は正統派というか当時のラジオで放送されたのはカタイものに決まっている。しかし国本武春は教育テレビで『うなりやベベン』として知られ、『ザ・忠臣蔵』て浪曲なんだけどロックなんじゃねとツッコミ入れられそうな演目を、父は意外にも喜んで聞いていたっけ。
「たっぷり!」「名調子!」「待ってました日本一!」
元気のいい合いの手が飛ぶ。でもこのラジオ。夕べもここにあったっけ。存在感が少なからずある筐体を、しかもカウンターのど真ん中に鎮座しているのを見逃したのか。コーヒーを飲みながら聞き流すうち、声の調子が変わった。演者が変わってこんどは落語だ。
「なんだ知らねえのか。茶の湯ってのはな」
癖のある調子は名古屋弁ぽい江戸言葉で三遊亭円丈だ。新作中心の活動だが師匠の円生は古典に期待してたとか。たしかに古典もうまかった。つづいて柳屋小三治の小言幸兵衛とつづいて、おやと思った。みな故人で父と聞きにいったことのある演者たちだ。なんなんだこのラジオは。春風亭一之輔も父と聞きに行ったがさすがに存命なので電波に乗って来ないか。と思う傍から
「ふーん。で、そいつは」
お。一之輔か。うーん。いったいなんだ、この放送は。いまどき浪曲や落語を流すのはNHKくらいのもんだ。それも深夜が相場で、こんな真っ昼間に流す放送局などあるはずがない。だが実際にこうして耳にしているのも確かだ。頭をひねっていると野球の実況中継になった。はて。ウィークデイのこの時間に野球とは。耳をかたむけてみると、実況中継らしいがなんだかアナウンサーの言葉づかいがおかしい。
「打ちました!大きな当たり!これは入るか入るか。右翼手の江島はあきらめて見上げております。ホームラン!ホームランです。王選手これで26本目のホームランであります」
え。王て。まさか。
「マウンドで悔しそうにうなだれる星野投手。木俣捕手が歩み寄って参ります」
わ、50年以上前の中日巨人戦じゃないか。録音なのか。録音を放送しているのか。なんなんだこのラジオは。
「ハバロフスクでは西北西の風、風力3、晴れ、1019ミリバール」
さらにダイヤルを回してみると高低のノイズがしばらく続いたその後のことだった。
「助さん、角さん、もういいでしょう!」
え。これはテレビドラマだろう。ラジオ版もあったかもしれないが、これはまちがいなくテレビの時代劇だ。聞き覚えのあるセリフ回し、歴代の水戸黄門役が目に浮かんでくる。おかしいだろラジオなのにテレビ番組なんて。一歩後ずさりしてラジオをつくづくと眺めた。やや大きめの筐体に灰色の古めかしい電気コードが伸びている。その先はコンセントにしっかりと差し込んである。どこもおかしいところはない。
「こちらにおわすお方をどなたと心得る!畏れ多くも先の副将軍、水戸の光圀公にあらせられるぞ!」
「一同の者、ご老公の御前である。頭が高い!控えおろう!」
中塚は鼻白む思いでラジオを見つめた。テープやCD、まさかSDカードとかのプレーヤー再生機器としての機能を備えているとか。しかし、どう贔屓目に見ても埃舞い立つ骨董品のラジオだ。
『分解して中を見ればわかる』と中塚は思い当たり、そこらに工具がありはしないかと見回すが食堂のこととてそれらしいものは辺りにはない。では、どうせ外出するのだから百円ショップででも調達して来ようと、中塚はまだ黄門さまが罪状を数え挙げている途中だったが手を伸ばし、ラジオのスイッチを切った。
そそくさと外に出てみると、陰気な空は一掃され爽やかな初夏の晴れである。そよと吹く風がまた気持ちをリフレッシュさせてくれる。リセットして一から記憶をたどり直して整理しよう。ドトールかスターバックスでもあるだろうと坂を上って大通りへ出るとカフェっぽいのはいくらでもありそうなので百円ショップなり工具店をさがす。知らない名前だが百円ショップがあったので入ってドライバーのセットを買う。マイナスのもあるのであのラジオにも使えるだろう。背後のパネルを開いてみれば、からくりが判明する。
エクセルシオールに入ってカフェラテを前にスマホをテーブルの上に置く。ラインで企画担当のK氏を呼ぶ。ラジオのことを確認しておこうと思ったのだ。用件を乗っけておいたらやがて返事が来た。備品の一覧表にはそのようなものはないということだった。『仕込み』ではないかと訊くと、強力なパワースポットなのでそんな必要はないという。
〈それらしい演出なのでは〉
〈混ぜものはしていません〉
〈忘れ物とか〉
〈交代時にチェックしています〉
〈漏れたとか〉
〈ないです。あ〉
〈え〉
〈そのラジオ。現象のひとつでは〉
中塚はぎょっとした。尋常なラジオではない。言われてみればそうかと腑に落ちた。客でにぎやかな店内に目はさまよい、昼光色のなか、はっきりとした輪郭がそれぞれの人や物の姿形を象っているが、不意にあのラジオが脳裏を占領する。大きな筐体は境界をなくしてゆがみ、粒子レベルで結合が安定を失い一瞬に噴霧となって消えた。消えた跡を空気が満たし、気持ちの悪い感覚だけが残った。
中塚は店を出た。日が長くなって時間の感覚も伸びた。気分転換に散歩をしてから戻ろうと思った。この辺りは武家屋敷の跡だったところが多く、邸宅がそのまま大使館になっていたりする。緑が圧倒的でアスファルトを歩きながら奥深い山中に紛れこんだ錯覚を起こさせる。深呼吸をするとほんとうに肺が洗われるように思う。車も人も少ないし、狐狸の類がいまだに昔日の力を奮っているとしても不思議ではない。高い古めかしい土塀がつづき、湿ったアスファルトの上にミミズの先祖のような長〜い虫がのたくっていたりする。
そろそろ北浜邸に帰ろうとしたときにはお屋敷街を遥かに離れて環状線に近いところまで出て来てしまっていた。地下鉄で戻ろうと足を向けかけて止めた。そのままアパートへ帰りそうだったから。中塚は気を取り直して大股で足早に、体を無理に引きずって緑の濃い屋敷街へ下りていった。
ふたたび大きな扉の前に立ったときには日はまだ残っていたものの夕刻を過ぎていた。汗を拭いながら中塚は鍵を回す。また大げさな音が響いて扉は開き、また腐臭が流れてくる。この屋敷に染み付いた臭いなのだろう。足を邸内に踏み入れると、なんだか音がする。
『カツカツ、カーン、コツコツ、コーン』
聞いたことのある音だった。思い出すまでもなくそれは父が突く杖の音だった。木の床をさぐり、行き場所をさがして父が歩きまわっている。中塚はそう考えた。駆け足に音のするほうへ行ってみると、二階を上がってすぐの廊下に父はいた。胸を張って顔をやや斜めに上を向かせ、小刻みに杖を左右に突いていた。父のこんな姿を見るのは数十年ぶりだった。
亡くなるまでの十年は車イスだった。車イス生活に陥るきっかけになった入院までは腰こそ曲がっていたが、なにかに掴まって伝い歩きができる状態だった。それが、貧血で倒れて入院したばっかりに歩行ができなくなってしまった。無駄な長期入院のせいで足腰の筋肉が固まったのが原因だった。
「父さん!」
中塚は駆け寄って父の背後にまわって左腕の肘をささえた。
「裕治か!どこだ。ここは」
父は興奮し慌てていた。落ち着かせるために中塚は食堂へ父を連れて行った。まだ日の残る窓辺の席に父をすわらせ、コーヒーを温めて持っていく。両手で包み込むようにして父はコーヒーをすする。
「どこなんだ?ここは」
いくぶんか落ち着いた声で父は問う。どう答えたらいいのか中塚にはわからない。ありのままの事実を伝えるのが筋だろう。こうして眼の前にすわっているということはつまり、父は迷っている、この世で迷っているからにほかならないのだ。成仏してもらうにはまず現状認識から始めなければ埒が明かない。
「いいかい、父さん。よく聞いて」
中塚は一語一語を噛んで含めるように説明した。しかし昨夜と同じように父に反駁され、また手を掴まれて万力の如く締められてしまった。
「い痛ててて! わかった! わかったから放して」
幼子を相手にしているのではないと中塚は痛感する。どうしたらいいだろう。途方に暮れて父と向き合っていると、不意に父が腹が減ったと言う。そういえばもう夕食の時間だ。中塚は立って厨房へ行き、冷蔵庫や冷凍庫を探ってみる。魚介類のセットがあったのでフライパンでさっと炒めて大皿に盛る。ビールの栓を抜いてまた父と飲む。すこし酔ってくれたほうが、また話の端緒もできそうなものだが、父は顔こそ赤らめたものの意識は明瞭ますます冴えるといった始末だった。これでは父の死のことなど話題にはできない。でも言わないと始まらない。事実から目を逸してはいけない。中塚は父から離れた場所に立って父に語りかける。
「父さんゴメン。本当に真実なんだ。父さんは七年前に死んだんだ」
「まだ言うか!」
父は中塚が距離をとっていると見てとるや、手近にあった醤油差しや箸入れを投げ始めた。それらは文字通り盲滅法に投げただけなので、どれも放物線を描いて虚しく落ちていった。
「葬式も済ませたし荼毘にも付した。まさかこんなところで迷っているとは。母さんのとこへ行ったものとばかり思っていたのに」
父は耳をふさぐ仕草をしたが、なにかが落ちたようにおとなしくなった。母のことを思い出したのかもしれない。母は父に先立つこと五年、この世から去っていた。
「初恵はどこだ」
中塚の母の名である。
「母さんはとっくに亡くなったじゃないか。もう十二年になる」
「なんと」
父は明らかにがっくり来て肩を落とした。
「おまえは儂が死んだと言う。ならなぜ初恵に会えないのだ」
「それは。父さんがこんなところに居るからだよ」
「死んだらだれでもあの世に往く。儂が死んでいるのならここはあの世だ」
「ちがうんだ。ここはパワースポットで…」
中塚は父にわかりやすいように説明したが、どうも父にとってはチンプンカンプンのようだ。
「要は霊場なんだな、ここは」
いや霊だけじゃなくて一般的な妖怪とかポルターガイストとか悪魔とか、異次元とか並行宇宙とかとにかく超常現象が起こる場なのだが、中塚の場合は死んだ父が現れているのでまあ霊場と要約しても間違いではない。
「うん。まあ。そんなようなもんだよ」
「儂はやはり死んでいると言うのだな」
「ああ、そうだよ。でも父さんがなぜ死んだ自覚がないのか。そのほうが不思議だ」
「それはやはり儂が死んでいないということじゃないのか」
いかん。また話を蒸し返すことになる。中塚はあわてて話頭を転じた。
「夕飯にしようか。腹が減っただろう。飲みながらじっくり話そうよ」
厨房にはいつの間に補充したのか刺身用のパックがいくつも並び、寿司桶も見えた。吟醸酒も何種類か中瓶が冷やしてある。『出羽桜』をひっぱり出す。
「さあ呑もう。自分で食べる?それとも手伝おうか」
父は器の位置さえ教えれば器用に箸を使ったし、ミニグラスに注いでやればぐいと飲み干した。昨夜はそれほどではなかったのに、きょうは父の酔いが早く回っている。日本酒だからかな。
「ここが霊場なら初恵も出てくればいいだろう。なぜ出てこない!」
「母さんはちゃんと成仏しているからね。こんなとこには来ないよ」
「なに?じゃ儂は成仏していないと言うのか」
中塚は席を立って父から離れた。なにが飛んでくるか知れやしない。
「だってこんなところに出てくるぐらいだからさ。この世で迷っているんだよ」
「うーむ。なにも未練はないが」
「死んでから、この七年どうしていたの」
「記憶がないな」
死んだのだから記憶がないのは当然といえば当然である。
「意識がまったくなかったって言うんだね」
死者なのだから当たり前である。
「三途の川とかさ。向こう岸へ渡ろうとしたら呼び止められたとか。ないの?」
「なにもない。死んだとしたらそれが自然だ。ちがうか」
まさにそうだ。絵物語の往生はあくまでこちら側の世界の話である。
「そうだね。死んでなにかあったとしたら逆におかしい。なにもない世界だからね」
父の言い分は至極当然な話でお互いに頷くばかりで、これも芸のない話だった。ふとラジオのことを思い出し、カウンターに目をやると大きめの筐体は昼と変わらず鎮座している。
「父さん。あのラジオ、父さんが使っていたラジオじゃないかな」
「ラジオ?ああ、施設で」
「いや、ずっと昔にさ、僕が小さかったころ聴いてた大きいラジオ」
「とっくに壊れて捨てたはずだが」
「そこの、カウンターの上にあるんだ。似てるだけかもしれないけど」
実際さわらせてみたほうが話が早い。父を立たせて手を引き、ラジオのところへ導く。手を伸ばして指をダイヤルのとこへ持って行く。
「うん? これを回すんだったな」
スイッチが入り、ホワイトノイズからアナウンサーの声やら音楽がつづく。父は目を中空にさ迷わせて昔を思い出したのか楽しげにダイヤルを回す。父はひとしきり音やノイズをけっこうな音量で流し、やがてブチッと切った。
「これは儂が使っていたラジオだ。まちがいない。音とダイヤルのキズでわかる」
「でも捨てたのが事実なら、なぜここにこのラジオがあるんだろう」
「儂が聞きたい。このラジオはどうしてここにあるんだ」
「僕に分かるはずがないだろ。きょうの昼、気づいたんだ」
「そういえばさっきまで懐かしい曲や演物を聴いていたような気がする」
「国本武春とか円丈かい」
「そんな名だったかな。あと野球の放送、昔の」
中塚は奇妙な符号に気味悪さを感じ、しばし凍りつく。父はそんな息子にはお構いなしに再びラジオのスイッチを入れチューニングに夢中になった。波長が合った局にじっと耳を傾けている。時事放談かな。父は聴きながらさかんに頷いたり首を振ったりしている。中塚は父を手近な椅子にすわらせた。
「ちょっとトイレ」
中塚は父に言い置いてその場を離れる。
食堂の入り口近くまで来て振り返ってみると、照明をおとした淡い光のなかで父が頭を小刻みに動かしながらラジオにかがみ込んでいる。中塚が小学校から帰ってくると診察場の床に正座していつも父は正座だったが按摩修行中に身に付いたものだろう父が胡座をかいたり脚を投げ出しているのを中塚は見たことがない、頭を傾けてラジオに聞き入っていたものだ。一語一句聞き漏らすまいと集中しているのでそんなところへ声をかけようものなら癇癪を起こして怒声を上げるのが常だった。
父は生まれながらの盲目ではないが早い時期に葡萄膜炎で失明している。以来、小学校に上がることもなく、まぁ昭和初期の昔のことなのでその辺は個別の自由度が効いたというか行政の手が回らなかったというかとにかく叔父と叔母の家で、というのも本家から養子に出されているのだがその辺の事情は定かではない、ラジオを相手に落語講談浪曲三昧の生活を送っていたらしい。遊び友だちもなく隔絶した世界で、ラジオが父の時間を満たした。
「あれ。父さん?」
トイレから戻ると父の姿がない。父もトイレかなと思ったがすれ違ってもいないし、だいいち父はトイレの場所を知っているのだろうか。そういえば昨夜、父がトイレに立った記憶がない。あれだけ飲み食いしたものは何処へ。白杖は椅子に立てかけてある。
『さあ、大野との対戦となります。ツーボールワンストライクから4球め。投げました! 村上、スイング! 空振り三振です』
ラジオがつけっぱなしでナイター中継をやっている。中塚はカウンターに背をもたせかけて日本酒のコップを手にラジオに耳をかたむけた。これは現在のライブだ。ダイヤルを回してみるといろいろな声や音を拾う。語学講座から次に移ろうとしてダイヤルに指を掛けようとした瞬間だった。触れていないのにダイヤルが空回りしてホワイトノイズになり、そこに父の声が混じって聞こえた。
『初恵、初恵!』と聞き取れた。弱々しく途切れがちだが、繰り返し呼んでいた。くるくるとダイヤルが回ってブチと回路が遮断する音がした。ホワイトノイズも音も声も消えた。ONを示す赤いランプは点いていたので、スイッチを切った。蛍光灯のしらじらとした明かりに広い空間があらためて意識され、中塚はいまさらながら静寂にゾッとした。ラジオから目を転ずるとテーブル席にバッグがあり、中にはドライバーのセットが入っているはずだった。
『なにもいま開けなくても』
そう思いながらバッグを手探りしてドライバーを引っぱり出す。ドライバーセットを手にそっとラジオに近づく。こうしてスイッチを切られ沈黙しているさまは、大きめのただの古箱にすぎない。昼間に聴いた過去の放送やTV番組の放送などはなにか仕掛けがあるにちがいない。昔ならいざ知らず、現在ならUSBやSDカードなど小さな記録媒体があるし、その再生装置も極小だ。この大きめの筐体ならラクに収納できる。その仕掛けさえ明らかになれば気が済む。でも今、ことに取りかかるのは気が引ける。父がいきなり戻ってくるかもしれないからだ。どのみち帰る前に開けてみようと思っていたのだから明日でいい。いや明日になれば状況は変わって父はもちろん、ラジオも消滅しているかもしれない。そうなったら謎は永遠になる。
「いまが絶好のチャンスだ!」
中塚は自分を鼓舞するべく声に出して宣言し、筐体に手をかけた。念のためカウンターの向こうにまわってコンセントを抜いた。筐体背面を見るとやはりマイナスドライバーだった。適当な型番のドライバーを選んでネジ上部に当てる。手応えがあってネジは回った。四隅と真ん中に1本だ。ぜんぶ外したが背面パネルは癒着しているのかびくともしない。ドライバーを隙間にねじこんで抉ってみた。パネルが一部浮いた。
「うん? おや」
埃の臭いに混じってかすかに生臭いというか、いや酒の臭いか、中塚は自分の息が当たるのだろうと思ったが、やはり隙間から漂ってくる。埃や塵が接合部で塊となっていた。それをすこしずつドライバーで抉っていくと、パネルは外れた。そっと筐体から引き離してみる。蛍光灯の光がラジオの内部へ侵入する。真空管が二本見えた。その奥に暗い一隅があってなにかある。眼だ。ラジオの中に眼がある? 蛍光灯の光がそこに収斂する。光には反応していない。見えない眼だ。父の眼…
そんなはずはないとよく見ると、やはりそこに眼があった。二個。とっさに中塚は背面をパネルでふさいだ。パネルは筐体背面におさまり、ネジで止めてしまえば元どおりになる。ネジを拾い上げて手にした中塚は躊躇した。
「眼はどうしよう」
ラジオのなかに置き去りにするのか。そもそもどうやって父の眼が筐体のなかへ入ったのか。ほんとうに父の眼なのだろうか。
「もういちど見てみよう」
中塚はパネルを支えていた手をすこしずつゆるめ、背面にまた隙間をつくった。暗くてよく見えない。すきまをじょじょに広げていく。しかし先程とちがってパネルの向こうは、びっしりとなにかが満たしている。
「なんだこれは」
パネルで蓋をしながらずらしていく。筐体は跳ねる流体で溢れた。しぶきが中塚の顔に当たる。ぬるりとした感触にぞっとして顔を引く。あわててパネルを戻そうとするが溢れる物体をとどめる術はなかった。強烈な臭いが鼻を突く。生臭さと腐臭が混ざった吐き気を催す臭いだ。
「臓物?!」
まさかと思うがたしかに内臓がはみ出てきている。筐体からはみ出すや爆発しそうに大きくなり、カウンターからテーブルの上に広がっていく。そのどぎつい色彩に圧倒され、中塚は呆然と見守るしかなかった。心臓や肺その他血管やら神経やら脳やら、筋肉や脂肪や皮膚らしきものも出てきて、さらに毛髪や爪か? そんな何やかやがテーブル上に吐き出されている。吐き出されたブツはうごめき、集合しては結合し、しかるべき位置にそれぞれが納まろうとしているようだった。
「ヒトを内部から形成しているのか」
衣服も出てきて靴下や靴も、最後に眼が飛び出てきて眼窩に収まった。まぎれもない父である。
「ううーん」
父はテーブルの上に横になって唸りながら頭をあげた。
「裕治は。裕治!」
「ここにいるよ」
「どこ行ってたんだ」
「トイレだよ。父さんこそ、どこ行ってたんだ」
「儂はずっとここにいる。ちょっと眠ってしまったようだ」
どう問いただせばいいのだろうと中塚は考え込んでしまった。眠っていたと言われればそれ以上追求のしようがない。
「なにか夢でも見たかい」
「なにも見なかったな。いや。そういえば」
「なにか見たかい」
「なにか光ってた、暗い中で」
真空管のことか。父はものの形まではわからないが光の強弱はわかる。
「それで?」
「それだけだ、見えたのは」
埒があかないので中塚は厨房へ行き、焼酎やウイスキーを手に氷のバケツをもって来た。
「飲もう。あすは帰らなくちゃならないから」
「帰る?儂は?」
「父さんは」
どう答えたらいいのだろう。この場所のパワーによって、中塚の父の記憶が物象化されたにすぎないと、そう言ったって信じられる話じゃなし。現に存在しているのだから付帯条件など意味はない。父にとっては存在している事実がすべてだ。しかしそのすべては中塚があす、ここを去れば霧消する。父の存在は存在しなくなる。元々が無だったのだからプラマイゼロである。中塚の記憶に父の思い出がまたちがった風合いで刻まれるだけだ。
「父さんもいっしょに帰るかい」
「もちろんだ。早く帰ろう。きょう、これからだって」
この館を出る瞬間に父が空間を去るのはわかっていた。元々が存在しないのだから。恩寵はここという場所に依存しているにすぎないのだ。
「じゃ早いほうがいい。行こう、父さん」
中塚は荷物を取りに行き、父をうながして立たせた。後片付けもそこそこに父の手を引く。ゆっくりと歩を進め、階段を降りる。広い廊下に父の白杖の音が響きわたる。玄関の広間に出たとき、中塚ははっとした。ホールの真ん中にぽつんと立つ影があった。そのたたずむ姿に面影があった。常夜灯の間接光に浮かび上がったのは母である。
「やっと見つけた。ずっとどこに居たの?」
母は父を見るなり詰め寄ってくる。父はぽかんとして怪訝な表情を浮かべる。
「初恵なのか。初恵は死んで…」
「あなたも死んだ。だから」
「儂も死んだ。なのに、なぜ会えなかった?」
「迎えに来てたわ、もう七年も。ずっと」
「儂は、どうなってる?」
父は助けを求めるように中塚の肘をつねった。
「痛い!ぼくにもさっぱり、あ。ラジオ…」
「そう、いつ来てもラジオが鳴ってるだけだったわ」
父はラジオの中に居たのだ。ひょんなことから息子の前に現れるまで七年にわたって。
「なんでもいいわ。さあ行きましょう」
母はつかつかと父に歩み寄って中塚から父の手をつかみ取った。
「あんたもごくろうさん。あとはわたしが」
母は中塚にそれだけ言うと、さっさと出て行こうとする。中塚はあっけに取られて二人の後ろ姿を見守っていたが、はっと気がついて言った。
「ちょっと待って。ラジオ取ってくるよ」
父の足が止まった。中塚は走って食堂へ戻った。電灯のスイッチを押すと白々とした空虚があらわれた。カウンターへ急ぐとそこにはもはやあの大きな筐体はなかった。父はもう、半ば癇癪気味の母に肘を押されて、とっとっとと上体を反らして玄関ドアから出て行ったにちがいない。どこかユーモラスなその姿を思い浮かべ、ひと段落ついたなとほっとした。
「さようなら父さん。そして母さんご苦労さん」
カウンターに置いたままだったウイスキーのグラスを手に、中塚は虚空の父に献杯した。
了