リーゼル・ヘリングは今日もため息
信じられない、というのが女の第一声だった。
大事な勝負をかけた、期末試験の返却日。女は紙に記された席次を眺め、“二番”という文字を唖然としながら眺めていた。生徒でごった返す講堂からそそくさと這い出て、気持ちを落ち着かせるために中庭でがっくりとうな垂れた。
(二番。二番ですって? この私が?)
奥歯をぎりりと噛み締めて、手にした成績表をぐしゃりと握りつぶす。この学院において、彼女はトップの成績を二年間修め続けてきた。だというのに、三年次の一番初めのテストでこんな屈辱的な成績を取るなんて。中庭に設置された雰囲気のよいベンチに腰掛けて、女はまず怒りに顔を赤くして――次に、恐れで顔を青くした。
そんな風に女が百面相を繰り返していることを知ってか知らずか、飄々とした様子で彼女に近づく影が一つある。オレンジに近い赤の髪を無造作にはねさせた、白衣を身にまとった男だった。裾は薬品で汚れたのか、白衣を様々な液体が彩って、ある種のファッションのようになっている。男は片手を挙げて、明るく声をかけた。
「よぉリズ! 今回の勝負、僕の勝ちみたいだけど」
ばっ、と反射的にリズ――リーゼル・ヘリングは飛び上がった。今、一番会いたくない男の方から近づかれ、声までかけられるとは。男はエメラルドのまなざしを楽しそうに細めながら、リーゼルの目の前に自分の成績表を突きつける。
ハロルド・モーズレイ。その席次は……一番。加えて今回リーゼロッテが苦戦した症候診断学においては、パーフェクト・スコア。男の成績を見た瞬間崩れ落ちそうになるのを、リーゼルは何とかベンチに寄りかかりながら堪える。
「み、認めないわよ、ハロルド!」
ハロルドの方を指差しながら、リーゼルはわなわなと体を震わせた。リーゼルの美しいマリンブルーの瞳が、怒りと羞恥でゆらゆらと揺らめいている。ハロルドはいつもの明るい笑顔ではなく、どこか翳りを帯びた眼差しで口角を釣り上げた。
「ハルでいいのに、リズ?」
「軽々しく私の名前を略さないで!」
「ええ、だって約束だぜ?」
リーゼルの体をぐい、と引き寄せる。強張るリーゼルの耳元で、ハロルドはいつにない調子で呟いた。
「――僕が一位になったら、付き合ってくれるって」
帝立魔術院は、北の大陸全土を支配するエーデリア帝国の首都に位置する。かつては戦乱に見舞われ武術を重視する風潮が強かった帝国も、近頃は安定した治世により芸術・学術を極めることの方が推奨されている。その影響を受けて数代前の皇帝が設立した学院は、北大陸に限らず数多の地方から学生を呼び集め、優秀な魔術師を輩出することを目的としているという。そしてその最たるものが“医療魔術師”の養成だった。医療魔術師コース三学年目の優秀生として載せられている写真には、リーゼルの姿が写っていた。ブルネットの髪をきつくひっつめて、綺麗なマリンブルーの目の下には隈ができている。周囲の生徒たちのように外見に気を配らないため、本来の年齢よりも5つは老けて見られているだろう。しかし実際、リーゼルはまだ二十歳を迎えたばかりだった。
帝立魔術院医療魔術師コースは、一言で言えばこの世の辛苦をかき集めて、煮詰めに煮詰めた地獄である。難易度の高い術を多く扱わなければならないし、魔術の失敗が人命を左右しやすい。治療を行ったり、呪いを解いたり。流行り病に対処したり、大怪我を負った人を救わなければならない。それが故、通常の魔術師よりも学ぶことが多く、普通の魔術師になるよりも金銭的に負担が大きい。もっとも、働き始めれば通常の魔術師よりもずっとずっと稼ぎはよいのだが。
リーゼルは医療魔術師の家系に生まれたために、自分がそれになることを当たり前だと思っていた。魔術師は、基本的に家長の魔術系統を代々受け継ぐのがしきたりだ。一緒に入学した同期たちも金銭面的に恵まれていて、才にも外見にも恵まれた学生たちの集まりだ。
しかし、そんな彼らにも、課題は次から次へと襲い来る。パスしなければならない試験の山、体力的に厳しい実習、患者のための接遇マナー。学ぶべきことは星の数ほどある。ゆえに、大半が学年を上がる間に精神的・肉体的に不調を来たし、途中でコースを変えてしまうのだ。そんな中で生き残ってきたリーゼルは自分のことを優秀だと思っていたし、周囲に侮られないよう己を天才型と偽って、同じコースの学生と接して来た。
リーゼルは決して天才ではない。彼女は自分を厳しく律し、真面目にこつこつ勉学に励む秀才型である。朝に目が覚めてから、夜に眠りに目を閉じるまで、ずっと勉強のことを考えるくらいに、彼女は余裕のない日々を過ごしていた。しかし、それがどうだ。ハロルド・モーズレイに成績を追い抜かされるとは。
ハロルド・モーズレイは、一言で言えばポンコツ野郎だ。リーゼルはそう思っていたし、リーゼル以外の同期たちも、彼をそういう風に思っていた。授業は聞かないし、実習はいつの間にか抜け出して猫と戯れていたりする。試験の成績だってよくないから、いつもいつも最下位で――でも、この学年までついてきている。ふつうなら再試験に通らずに振り落とされて留年するのだが、ポンコツの癖に要領がいいらしい。
もっとも、実習などで時折同じ班になったときのハロルドは、リーゼルに協力を要請して比較的真面目な態度をとることが多かった。実験に必要とされる手技――薬液の混和、薬草のすりつぶしなどはむしろ、ハロルドの方が器用で、リーゼルは口では彼を罵倒しつつも、内心舌を巻いたものだった。
『リーゼル、リーゼル。君、頭がいいんだろう。なにかあったら僕にいろいろ教えてほしいな』
そんな風に、少なくとも二年生まではしっぽをふってこちらに媚を売っていたはずなのに。何の脅威でもない、ただの阿呆だと思っていたのに。三年に進級すると同時に、彼は私に勝負を持ちかけてきて。それから。
――どうして、彼と私が付き合うだなんて話になるのだ!
リーゼルは退屈しのぎに読んでいた学院紹介のパンフレットを受付の棚に戻し、深い深い溜息をついた。学院のエントランスのソファは柔らかく、試験続きで疲れた体を柔らかく包んでくれる。セピアを基調とした待合室は居心地がよく、ついうとうととまどろんでしまいそうになる。時計は五時を指していて、もうそろそろ友人が来るだろうという頃合だ。他学部に進学した幼馴染でもある友人は、学院においてリーゼルが唯一信頼できる話し相手だった。
そうまたない間に、ばたばたばた、と足音が聞こえてくる。慌ててやってきた親友は、開口一番こうのたまった。
「ねぇリズ、ほんとなのかい!?」
「ほんとって、何が」
「ハロルド・モーズレイと付き合うって話以外になにかある!? アタシの周りじゃその噂で持ちきりだよ!」
頭が痛くなる。言い訳めいた語調になるのを自覚しながらも、リーゼルは友人に理由を語る。
「つい、売り言葉に買い言葉でね……。だって、ハロルドのやつ『リズより僕の方が頭いいけどね』とかってのたまうのよ」
「まあ、二年間一位の座を譲らなかったアンタが、万年最下位にそう言われて怒り狂う気持ちも解るけどさ? ……それで、どうして付き合うことになるんだい」
「『試験でもしもお前が一位になったら、何でも言うことを聞いてあげるわ』」
「そう言ったのかい?」
「ええ」
だって癪だったんですもの。リーゼルは頬を膨らませる。学年一位でいることは、もはやリーゼルのアイデンティティの構成要素となりつつあった。一位でなければ私じゃない。そう思いながら平穏な学院生活を過ごしていた。だというのに、あんな適当な男にそれを奪われるなんて。想像するだけではらわたが煮えくり返る思いだったから、ついカッとなってしまったのだ。
「モーズレイはなんだって?」
友人は癇癪もちのリーゼルのことをよくわかっていた。呆れた、といわんばかりの表情で、話の続きを促
す。
「『じゃあ、もし僕が学年一位になったらさ。恋人になってよ、リーゼル・ヘリング?』ですって」
わざわざ誓約書――約束を破った場合、破ったほうの魔力量が激減する呪具だ――まで持ってくる辺り、相当な嫌がらせだ。リーゼルは過去の自分を殴り飛ばしに行きたい気持ちでいっぱいだった。
「ああ……そいつはやっかいだねぇ……」
頭を抱える友人を見て、リーゼルもぎゅうと目を瞑る。頭の中に浮かぶ不平不満を友人に聞いてもらおうと、話を纏める。息を深く吸い、深く吐き出す。大丈夫だ。彼女と話していれば、きっとなんとかハロルドをやり過ごすための知恵が得られるはずだ。
「いいわ、今日はとことん付き合ってもらうから」
ぱっ、と目を開いたときには、友人の姿は影も形もなくなっていた。あれ? と首を傾げるリーゼルの背後から、暢気な声が聞こえる。
「それは光栄だ。僕の方から誘おうと思ってたんだよ」
甘やかな男の声。嫌な予感に慌てて逃げようとするところを、腕をつかまれてしまう。ハロルドは校内でいつも纏っている白衣を脱いで、きちんとした衣服に身を包んでいた。紺色のシャツに黒いスラックスが似合っている、と思わされてしまう。
「やぁ、リズ。ああ、お友達は急用を思い出して帰ったみたいだよ」
「あら、そう。そういえば……私も急用が……」
忽然と姿を消した幼馴染を恨みつつ、リーゼルはとっさに具合が悪いことを演技で訴える。が、あまりにも下手くそなその様子に、ハロルドはにたにたと笑みを深めた。
(こいつ、どうして、私の前での笑い方がいつもよりいやらしいの!)
常ならば、ハロルドはもっと好青年だ。人好きのする表情を浮かべているし、爽やかで、快活。リーゼルはハロルドのことをそういうやつだと思っていた。けれど。
「ん? さっきオズウェル教授に『今日は暇なので、たまには羽を伸ばしてきます』って言ってたよね」
にこにこ。確かに威圧を感じる。こいつ、絶対私に付きまとって迷惑させたいに違いない。どうやらハロルドは、リーゼルが思っているよりもはるかに曲者のようだ。わざわざ懇意にしてる教授との会話を持ち出してくるとは。リーゼルの怒りをわかっているのかいないのか、ぽわり、とした調子でハロルドは告げる。
「だからさ、僕とデートしよう」
リーゼルは拳をハロルドから隠すことなくぎゅうと握り締めて、思い切り睨みつけた。それから宣戦布告をするように、キツい語調で言い放つ。
「受けて立つわ」
デートとやらにかこつけて、どうしてコイツが一位を取れたのか、根掘り葉掘り聞いてやる。リーゼルがそうやって怒れば怒るほど――ハロルドのことばかりを考えるほど、目の前の男の心が満たされることを、彼女はまだ知らない。
とりあえずパッと思いついたところまで書いてみました。続きは未定です。