後日談 上 アネッサとお買い物
これは、何だ? 魚か?
さっきシェフが説明してくれていたときに、『わかっています』という顔をしていたけれど、正直何の言葉かわからなかった。
白い魚の切り身のようなものに、緑のソースがかかっている大きな皿に乗った無駄に小さな料理を、不器用にナイフで切り分けてフォークで刺して口に入れる。
「魔王様。お口に合いますか?」
「うん、魚だ。美味しいよ」
テーブルマナーなど身についていない私のために、貸し切られた豪華レストラン。そして目の前には今日も綺麗なドレスと宝石で着飾った美女――人族領で一番豊かな西州を支配しているアネッサ・ガールベルグ。
恐らく、目の前のこの料理にはもっと複雑な感想を出さなければならないのだと思うけれど、私にはこれが限界だ。このソースが何かはさっぱりわからないけれど、ほのかな塩味が効いていて美味しいです。
最後のデザートを食べ終わって、ほっとしていると、紅茶のお代わりが出てきた。相変わらず私の好みは徹底的にリサーチ済みだ。
ゆっくり紅茶のカップを置いてから、私のことをしげしげと観察している目の前の美女と目を合わせる。
「ねぇ、アネッサ。頼みがあるんだ」
「何でしょうか?」
期待されている。すごくすごく期待されている。
やっぱり止めたと言いたいけれど、私には他に貴族の女性の知り合いはいない。しばらく膝の上に置いた自分の手を見つめてから、気合いを入れて顔を上げた。
「アネッサ。あの……貴族用の寝間着を売っている店を紹介して欲しいんだ」
「寝間着ですか……?」
アネッサが困ったように首を傾けている。寝間着という言葉では通じないのかもしれない。
「寝間着――夜、寝るときに着る服だ。魔族はあまりそういうの気にしないから、私は装飾なんてないただの綿の服で寝るんだけど、人族の女性はちゃんと可愛い服を着るんだよね? だから、そういう服が売っている店を教えて欲しくて……」
アネッサは笑顔だ。もう怖いくらいの笑顔だ。
「聖女様のためにですか?」
そんなアネッサから目を逸らして、自分の手を見つめながら頷いた。
「……うん」
「魔王様。ご都合はいつがよろしいですか?」
その声に顔を上げる。
「えっと、予定とか気にする相手はアネッサぐらいだから、私はいつでもいいよ」
「では、3日後でよろしいですか?」
「えっ? うん」
まさかこんなに早くだとは思っていなくて驚いていると、アネッサが立ち上がった。そして手を2回叩いて執事を呼びつけたあと、矢継ぎ早に何か指示を出している。
「魔王様。店は王都にあるのですが、呼びつけますか?」
呼びつける?
「えっ、いやいいよ。お店の人に悪いから私が向かうよ」
私の言葉にアネッサがしばらく悩む様子で考え込む。
「魔王様。わたくしを王都までご一緒にお連れ頂くことはできますか?」
「アネッサが案内してくれるの?」
「はい」
一人でも行くつもりだったけれど、詳しい人が付いてきてくれる方が心強い。だけど、アネッサは人族領で一番と言っていいくらい多忙な女性だ。今回のランチも2ヶ月前くらいから日程を押さえていた。
「アネッサ、忙しくはない? 大丈夫?」
「魔王様。西州では、皆が、わたくしの予定に合わせるのです」
西州の王に、「はい。よろしくお願いします」と私は素直に頭を下げた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「魔王様。ごきげんよう」
「あ、うん。おはよう」
3日後、西州領主邸に行くと、着飾ったアネッサが私のことを待っていた。
「アネッサ。私、この服でいいかな?」
魔王の黒のローブは今日は着ていないけれど、アネッサと並ぶとひどく見劣りする。アネッサはそんな私を上から下まで、じっくりと品定めした。
「魔王様、本日も店は貸し切りです。馬車で乗り付けるので、民に見られる心配はないのですが、着替えられますか?」
うーん、だったら着替えは持っていないし、いいかな?
「着替え、持ってないからいいや」
「ご用意はしております」
アネッサはなぜか笑顔でそう言ってから、2回手を叩いた。
「ご案内を」
アネッサの笑顔の圧力に追いやられるように、私はメイドさんのあとに付いていった。
目の前のマネキンにわざわざ飾られているのは、かわいらしい白のワンピース。
肌触りが違うから、すごく高い服なのはわかる。
「始めましょう」
「はい」
「待っ――」
メイド長のその声と共にメイド4人掛かりで着替えさせられた。
鏡に映る自分のその姿を見ると、違和感が半端ない。私の隣に居るラウリィもじっと私のことを見つめている。
「あの、私にこの色は――」
「よくお似合いですよ。魔王様」
アネッサ付きのベテランメイドの笑顔の圧力に私は勝てなかった。
「魔王様、目をつぶってください」
薄く化粧までされたあと、囚人のように引きずられてアネッサのところまで戻った。
「あらぁ! お可愛いですわ、魔王様!」
「ありがとうございます……」
アネッサは喜んでいる。だから今日はこれでいいんだ。
「その服は差し上げますわ。聖女様にもお見せくださいませ」
曖昧に微笑んでから、アネッサとラウリィの手を掴んで、王都まで転移した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
王都のアネッサの別邸から、馬車で目的のお店まで向かう。
「エーネ様。お手を」
執事さんに手を引かれて馬車を降りて、入ったのは無駄に広い店だ。店の端の方に、色とりどり服が並んでいるのは見えるけれど、この店、遊ばせている面積が広すぎるだろう。
「ようこそお越しくださいました、アネッサ様!」
『え? 何この人』と言いたくなるような奇抜な服を着てすごい化粧をした女性が、馬車から降りたアネッサのもとに駆け寄った。
「今日はわたくしではなく、わたくしのご友人のものを買いに来ました。失礼のないように」
「かしこまりました」
見られている。私の正体が知りたくて知りたくてたまらないと言った顔だ。
「本日はどのようなものをお探しでしょうか」
そう問いかける店員さんの距離はあまりに近い。服を買うのはただでさえ苦手なのに、こう謎の満面の笑顔には戸惑ってしまう。
私がのろのろとしていると、私の代わりにアネッサが説明してくれた。
「この方にネグリジェを。夫に見せるものですが、あまり派手ではないものを」
『夫』。ユーリスと、その言葉がなんだかちっとも結びつかないけれど、対外的に見ればそうなのか……
夫か――
「エーネ様?」
少し先でこちらを振り返るアネッサに、私は慌ててついて行った。
すごい。もはや服なのだろうかと聞きたくなるような服がたくさん掛かっている。
店員さんが立ち止まったので、キョロキョロとさせていた顔を前に向けた。
「こちらはいかがでしょうか」
振り向いた私の目に、店員さんが取り出してくれたものが入る。
「派手ではないもの……?」
「はい。こちらの形の方がよろしいですか?」
店員さんがもう一つの服を手にとって見せてくれるが、問題は形ではない――
派手ではない。ふりふりしているだけで、派手ではないのかもしれない。
それに、ちゃんと覆うべきところに布はある。紐ではない。
だけど、何だ。何なんだこの服は!! 透けすぎだろう!
布に手をかざして、はっきりと透過する自分の指を見て、うっと目を逸らした。アネッサの顔を見ると、至って穏やかに「どうかなさいましたか」と私を見下ろしている。アネッサのこの反応。きっと、これが普通なのだろう。
これでは、下着の方がよほど隠すべきものを隠している。まさか、カケルはこのことを知っていて、私に寝間着にしろと言ったのだろうか。(※ 違います)
おのれ、勇者カケルめ!(※ 誤解です)
カケルと寝間着の話をしたときは、私も少し追い詰められていて、『手があるなら、何でもしてやろう』という覚悟だった。
だけど、だけどこれはあまりにも……
店員さんから受け取った破廉恥なネグリジェを、私はただ、じっと見ることしかできない。
左手で服を持ったまま、斜め上を見上げる。
「あの……アネッサもこういう服を着て寝るの?」
「わたくし、寝るときに服は着ませんわ」
あ、そ、そうですよね。妖艶な美女のその言葉になんだかすごく納得して、服を店員さんにそっと返した。
「すみません……少し店内を見てもいいですか?」
「はい。是非」
どうしよう、どうしようと頭の中で言葉を回しながら、よろよろとその場を離れて店内を彷徨う。もっと普通のものはないかと探したけれど、店内の中のものを見れば見るほど、先ほどのあれが一番シンプルでマシに見えてきた。
「あ、なんだか行ける気がしてきたかな?」
しばらく立ち止まって考えてみたけれど、気のせいだった。
徘徊せずにそろそろアネッサのところに戻ろうと足を止めたときに、壁に飾ってある黄色の花が目に入った。近づいてよく見てみると、造花で、後ろにピンが付いているのがわかる。これは髪飾りか。よくできている。
「どうかなさいましたか?」
振り返るとアネッサが居た。
「えっと、この花よくできているなって」
「お客様の黒の髪によくお似合いだと思われますよ」
笑顔で駆けよってきた店員さんのその言葉に、髪飾りと自分の髪を何度か見比べた。
「あの、この他にありますか? 別の花もあれば見せてもらいたいのですが」
「エーネの花ですか?」
即座に問いかけられるアネッサの言葉に、「うん」と頷いた。
店員さんの方を向いてから、恐る恐る聞いてみる。
「すみません、ありますか?」
「エーネ様。ないものは作らせるのです」
アネッサはそう宣言してから、「聞こえましたね」と店員さんに言い放った。
「いつ頃までに準備できますか」
「一ヶ月ほどかと」
「では20日です」
「かしこまりました」
私が動揺している間に、あっという間に決まってしまった。私はこの髪飾りがいくらかも知らない。
「エーネ様。ネグリジェはいかがなさいますか?」
アネッサの言葉に、その存在を思い出してしまった。ネグリジェの前に再度移動して、取り出して眺めてみる。
「お気に召しませんか?」
私が気に入るとか気に入らないとか、そういう問題ではない。
「アネッサ。ユーリス、喜ぶかな……?」
痴女じゃない? とアネッサの顔を見上げる。
「えぇ、もちろんですわ」
アネッサに力強く頷かれた。
ええぃ、行け! 行くんだ、私!
「買います!」
「お買い上げありがとうございます。お色はこちらでよろしいですか?」
ピンクはないな。
「黒はありますか……?」
「髪飾りとご一緒に、ご用意いたします」
もしかして、この店のものは全品特注なのだろうか。
「すみません。もう少し透けない素材はありますか?」
「はい。ございますよ」
あるのかよ。
私が採寸している間に、アネッサは色々と注文を追加していた。この店は、飾ってある服から色々とカスタマイズして発注する店なのだろう。もう、アネッサにすべてを任せよう。
今日一日でどっと疲れて、馬車でアネッサ邸まで戻る。
「あぁ、そう言えばアネッサ。今日のあれはいくらするのかな?」
本日、お金の話は一切出てこなかった。お会計はいつするものなのだろうか。
「魔王様、必要ありませんわ。わたくしが払います」
「えっ、いいよ! 色々世話になっているし、私だって人族の通貨はちゃんと持っている」
これ以上アネッサに借りを作るのはまずい。自分の分は自分で払うと、そう何度も言うと、アネッサが「魔王様」と私の手を掴んで、真剣な表情で私の顔を見下ろした。
「お願いがあるのですが――」
来た!
何でもない風を装って「何?」とアネッサを見上げる。転移3回? いや30回くらいかな?
アネッサは私をまっすぐ見つめて、なぜか厳かに口を開いた。
「魔王様。わたくし、いつか魔王様と聖女様の営みを見せて頂きたいのですが」
営み?
営み……
みるみるうちに、顔に熱が集中する。
「む、無理だ! 無理!」
全力で顔の前で手を振る。
そもそも、まだそんなことはしていない! 人に見せるものでもない!
「今すぐにとは言いませんわ」
「すぐとか、すぐじゃないとか、そういう問題じゃない!」
「エーネ様、わたくしの方も代わりにお見せいたしますので――わたしくしの夫は、顔と体だけで選びましたので、聖女様ほどではないかもしれませんがなかなか良いものですよ?」
雷に打たれたように一瞬体が硬直する。
いや、ない。ないぞ。
「だめだ」
どうしてもだめですか? とおねだりするような顔でこちらを見ている、出るとこはバーンと出ている背が高くてナイスバディな美女から目を逸らした。下を向いて、心を落ち着けるために何度か深呼吸する。
なぜこの人はこんなにも変態なのだろうか。
「わたくし大貴族ですから」
アネッサは私の心の声が聞こえていたかのように、そう言って妖艶に笑った。
よろよろとラウリィの手を掴んで、逃げるように魔王城の居間まで転移すると、ちょうど居間でユーリスとパメラがおやつを食べていた。のほほんと談笑している二人を見てほっとする。
「ただいま」
「エーネ様。お帰りなさいませ」
「何を食べているの?」
私の質問などまるで気づいていないように、二人の視線が私に集中する。
その視線を追うように下を向いてから思い出した。
「あっ、服」
まぁあげると言っていたし、私のサイズの服をアネッサが着られるわけがないから貰っていいのだろう。借りを作るのは怖いけれど。
「エーネ様。お可愛いです」
「ありがとうパメラ」
私を見て喜んでくれているパメラに、照れながら素直にそう答えた。
その向かいに座るユーリスは、さっきからじっと私の服を見つめている。やはり、私に白のワンピースなどというものは……そう思って転移しかけたとき、
「エーネ、待って」
ユーリスが立ち上がった。
「どうしたのその服?」
「アネッサがくれた」
「そっか……白い服を着ているのを初めて見たけど、エーネによく似合っている」
ユーリスが恥ずかしそうにそう言ってくれる様子に、少しどきっとしてから、良かったと胸をなで下ろした。
いつも魔王は黒だと、黒ばかり選んでいるけれど、たまには明るい色の服も挑戦するかと、自分の服を見下ろしていると――
「では、失礼いたします」
「夕飯の準備は、もうできておりますのでー」
なぜかラウリィとパメラは笑顔でそう言って、そそくさと順番に居間から出て行った。
「えっ? ちょっと待って、なんで――」
バタンと扉が閉まる。
「エーネ」
私を呼ぶ声に足がそちらに進みかけて――だけど、まるで私が二人を追い出してしまったような状態で行っていいのだろうかと足が止まる。どうしよう……視線が扉と自分の服とユーリスの足元を、何度も往復する。
「エーネ」
もう一度私の名を呼ぶ優しい声に顔を上げると、ユーリスは私をからかうように笑っていて――
ごめんなさい。二人にはあとで謝ろう。
「ユーリス!」
いつものように、えいっとその胸に抱きついた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
20日後、西州の領主邸で受け取ったエーネの花の髪飾りはすごく綺麗でよくできていた。
そしてネグリジェの方は、お店で見たものから金色の飾りのようなものがかなり増えていた。留め具やリボンなど、服を脱ぎ着するときに解かなければならないパーツがすべて金色なのはどういう意味かな……? 気にはなるけれど、これ自体はおしゃれで文句はない。
だけど、
「透けないって……?」
試着した自分の姿を見下ろす。お店で見たものより、確かに、そうほんの少しだけ透けない素材に変わっているのはわかる。ほんの少しだけ。
「魔王様。よくお似合いですわ!」
そしてなぜかアネッサは大興奮だ。
周りには女の人しかいないけれど、風呂に入るよりもよほど恥ずかしいその視線に、すぐに脱いで箱にしまった。
『魔王は まおうのネグリジェを てにいれた!』
実際に使われるその日まで、その箱はしばらく魔王城の隠し部屋で眠ることになる――




