エピローグ 朝食は卵かけご飯(終)
手早く荷造りをして、夜明けと共に宿を出た。
途中寄った村で、保存食と野営に必要なものを手に入れる。あとは、地図だけを頼りに、何も考えずに黙々と魔族領との境まで向かった。
そのまま、魔族領へと続く森に入ったとき、
「こんにちは」
ふと森の陰から落ち着いた雰囲気の女性が現れた。
俺から少し距離を取って、笑顔でこちらを見上げている。
「今からどういったご用件で魔族領に向かわれるのですか?」
そう優しく聞く女性は、こんなところで一人で居ては危ないだろうと注意したくなるようなただの人間の女性にしか見えない。けれども――
『ジョブ: 魔人族族長』
それに続く圧倒的なステータス。恐怖で、俺は自然に微笑んでいた。
「魔王城を見に――」
「魔王城を見るだけですか?」
女性はじっと、すべてを覆うような笑顔でこちらを見つめている。はぐらかして、この女性がそれに気づけば俺は勝てない。威を決して笑顔の女性を見つめた。
「魔王様にお会いしたいのですが」
女性はうーんと可愛く考えている。
「魔王様は、頼めば気分良くお会いなさると思います。ですが、どうして私たちが、魔王様を危険な目に遭わせて、そんなことを――」
「おいアザルイ! 勝手に何かすると、まーた魔王様に怒られるぞ」
野太い声と共に、森の陰から角の生えた大きな鬼が現れた。女性はその鬼を見て「はぁー」と見せつけるように大きなため息を吐いた。
「はいはい、わかりましたよ。どうぞお進みください」
「ゴブリンは大丈夫だと思うが、魔獣には気ぃ付けろよ」
もう行けと、二人の雰囲気がそう言っていて俺はおずおずと足を進める。
しばらく進んでから振り返ると、二人はもういなくなっていた。
ゴブリンを斬って斬ってひたすら斬って、森を抜ける。ゴブリンのあの嫌な声が聞こえなくなってやっと、丘に腰掛けて一息つきながら水を飲んだ。
「あれ、何かある……」
平原の遠くの方に何か看板のようなものが立っているのが見える。ちょうどいい。今日はあそこを目的地にしよう。
広い平原をただ看板に向かってまっすぐ歩く。見えているのに、看板は大きかったようで到着するのにずいぶん時間がかかってしまった。日が沈むぎりぎりで看板と向かい合う。
『この先、魔族領』
すでにここは魔族領だと思うが、これはまだわかる。だけど、その下の文字は不可解だった。
『美女 注意!』
魂が込められたかのような、力強い殴り書きの、男の字。
しばらく考え込むようにその文字を見つめる。
この注意書きは、こんな大きな看板に大きな字で書くほど、重要なことなのだろうか?
そもそも美女に注意せよとはどういうことだ? 俺は、女性には散々な目にあったけれど、彼女たちが美女かと聞かれると別にそこまでではない。美女だったら何をしても許せると言うつもりはないが、美女なら、まだいいだろう……? これを書いた人は、美女にもっと悲惨な目に遭わされたということだろうか?
よく分からなかったが、ちょうど風を遮ってくれる看板の前で、今日は野宿をすることにした。
たき火を作って、小鍋で簡単なスープを作り、鍋にそのままスプーンを突っ込んで口を付ける。ぽかぽかと温かくなった体で空を見上げると、夜空に信じられないくらいの数の星々と、大きな月が見えた。
この世界には月が3つある。その中でも一番明るいあの白い月は、地球の月の倍くらいの大きさがあるように見える。世界を照らすその優しい月の光をぼんやりと眺めているうちに、俺は眠りに落ちた。
「いい朝だ」
火を絶やさなかったのが良かったのか、魔獣にも襲われなかった。魔法で出した水で顔を洗って、簡単な朝食をとってから、広げていたものをリュックにしまって、歩き出す。
この辺はだだっ広い平原だ。俺以外――そうアウシア教の奴らなんていやしない。俺はすがすがしい気持ちで、青い空の下を進んだ。
時折小型の魔獣と出会う以外は誰にも会わずに3日が過ぎた。
「あった、あった」
『上 魔王城』
なぜか平原を過ぎた辺りから魔王城の位置を案内する看板が立ち始めた。その看板が示す方に視線を向ければ、遠くの方にまた次の看板が立っているのが見える。
「行こう」
罠かもしれない――だけど、魔族領の大自然がそうさせるのだろうか。なぜか嫌な感じはしなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『左 この先鬼が出ます。絡み酒注意』
『上 魔王城』
平原に一本だけぽつりとある大きな木の横にあった看板の前で立ち止まる。子どもの字でほのぼのと書かれたその看板の前でしばらく考えてから、まっすぐ前に進む。もう看板で道を確認しなくとも、目的の建物は遠くの方に見えてきた。
まがまがしく佇む魔王城。魔獣には何度も遭遇したけれど、結局魔族には一度も会わなかった。
もう次の看板はない。大きく深呼吸してから、俺は俺の旅の目的地である魔王城に向かった。
大きな門の前――
『ご用のある方は、隣のベルを引いてください』
唾を飲んで、木の板に書かれたその文字に従って、ベルを引いた。ゴロン、ゴロンと思いの外重いベルの音が鳴る。響き渡るような大きな音ではないけれど、これでいいのだろうか――
「あー! こんにちは! ようこそ魔王城へ!」
その明るい声に顔を上げると、天使がいた。天使が門の上を飛んで乗り越えて、俺の目の前に着地する。
「旅人さんですか?」
天使に少し緊張感の漂う笑顔でそう聞かれて俺は頷いた。
「私はフローラです。新人なんですけど、よろしくお願いします!」
天使の胸には、『研修生 フローラ』と書かれた名札が付いていた。
フローラさんは、村から降りてきてまだ50年の新人らしい。これまで3人の旅人しか世話をしたことがなく、俺が10年振りのお客さんだと言うことで緊張しているそうだ。何か粗相をしたらごめんなさいと先に謝られてしまった。
「こちらがお部屋です!」
豪華な部屋に、綺麗なベッドメイキング。これで、俺が今までに泊まったどの宿屋より安いのだから信じられない。
「ありがとうございます。綺麗なお部屋ですね」
「そうですか……? この絨毯、実は私が教えてもらって作ったんです」
フローラさんのたどたどしい声に、床に目を向けると、紺色の幾何学模様の絨毯があった。
「これをですか? すごいお上手ですね」
いくらで売れるんだろうと考えた俺はダメな奴なんだろう。フローラさんは俺の言葉に素直に喜んでいた。
夕食は、豪華な肉のステーキに米だ。しかも玄米ではなく白米だ。
「普段は玄米の方が、びたみん? が取れていいのですよ。だけど今日は特別です」
「ありがとうございます。美味しいです」
そして、美味い飯には、美味い酒。
「このお酒も最高ですね。どこのお酒ですか?」
喉を鳴らしてから、瓶を回してラベルを見る。
「『幻の酒』……」
「この近くで作っているんですよ。作ったそばから全部飲み干しちゃうので、この辺りでしか飲めない貴重なものです」
地元の人しか飲めない貴重な地酒か。ラベルの右下に、小さな字で『王家謹製』と書いてあるのが目に入った。そんなことはないとは思うが、このお酒は魔王が作ったのだろうか?
そして、夕食のあと大浴場に案内されて、半年ぶりにゆっくりと風呂に入った。
ふかふかのベッドで熟睡して、朝はもちろん卵かけご飯に味噌汁だ。
「すみません。ここで暮らしたいのですが、仕事はありますか? 事務系の仕事の方が得意ですが、何でもします」
熱意を込めた言葉にフローラさんは戸惑っていたけれど、そのくらい快適だった。
「魔王様にお聞きしてみますね」
「お願いします」
魔王? そう言えば俺は魔王に会いに来たのか。目的地に到着することで忘れていた。
フローラさんは魔王様に会いに行ってくるとのことで空に飛び上がってしまった。その場で待つべきなのかもしれないけれど、今更緊張してきて、自由に見ていていいと言われた1階を探索する。
『壁画の間』
開け放たれた大きな扉の上にそんな文字を見つけて、俺はゆっくり部屋に入った。
「すごい……」
何一つものがないだだっ広い部屋の壁一面に緻密な絵が描かれている。
部屋に入って、まず目に入る真正面の壁――そこに、豪華な金色の椅子に腰掛ける黒髪の女性がいた。まっすぐ前を見つめているその女性の顔を、その右横に立った金髪の男性が優しく見つめている。
女性の足元に広がるのは赤いカーペット。女性の左奥に控えているのは、よく似た容姿のメイドと執事――この女性は偉い人だ。そして、この絵が魔王城にあるということは、王冠はないけれどこの女性は魔王だろうか?
魔王は、女性なのか? 何の疑問も持たずに男性だと思っていた。
右の壁の絵に移る。緑の広がる大地に、とてつもない大きさの巨木のようなものを背景とした集合写真のような絵だ。その木の幹の中央で、一人の黒髪の男性が両手を広げて、その周りをたくさんの黒い翼を持った女性が飛び回っている。黒い翼――これが悪魔か? 楽しそうに遊んでいるようにしか見えないので、アウシア教徒たちの言っていた恐怖感はまったく伝わってこない。
その巨木の端で、一人の金髪の男性が両横に黒髪の美女を侍らせて、木の根に腰掛けて遠くを見つめている。男性が見つめる先にあるのは、一面の黄金色。俺にもなじみのあるこの景色は稲の収穫期だろうか。その黄金色の中に鎌のような農具を持った人たちがぱらぱらといて、何人かがこちらに向かって大きく手を振っていた。
あとでまたじっくりと細部まで見よう。そう決めて、今度は左側の絵を見る。
これは鬼だ。その鬼が、鬼には見えない少女を肩車している。少女は鬼の肩の上で楽しそうに足をばたつかせながら、鬼の隣に立つ女性に何か楽しそうに話しかけている。その女性が胸に抱えているのは、直径20センチくらいはありそうな白い大きな一輪の花。少女に言葉を返しているように見えるその女性の顔を、鬼は大きな笑顔で見つめていた。
種族が違うからもしかしたら違うのかもしれないが、この3人はおそらく親子だろう。そんな優しい雰囲気の絵だった。
そしてその隣には――
「ドラゴン!?」
左の壁を埋め尽くすくらいの大きさの赤いドラゴンだ。まさかこの世界にはドラゴンまでいるのか? 翼を広げたその赤いドラゴンの前で、同じポーズの白い小さなドラゴンがいる。子どもだろうか? 小動物的な可愛さだ。
そして、その足元にいるのはたくさんの魔族。クーゲルアさんと同じ竜人族や、エルフと見られる女性、人族領で見た猫のような種族や、羊のような角の生えた種族など俺がまだ見たことのない魔族もたくさんいた。
左の壁の最後に現れたのは色とりどりのシャボン玉? これは何だろう。シャボン玉を追うように、後ろを向いて背後の壁を見る。
背後の壁の中央。扉の上に描かれているのは、手を振るように片手を上げた白い服の金髪の子ども――
「こんにちは。勇者」
突然真後ろから子どもの声が聞こえて、慌てて振り向こうとしたとき、視界がぶれた。
俺の目に広がるのは、青空と大平原。
「えっ?」
自分の体を確認するが特におかしなところはない。
再び後ろから子ども声が聞こえた。
「ひどいよ! 僕ずっと待ってたのに! ずいぶん久しぶりに来るからって、玉座で大人しく座ってずっと待っていたのに! 君フローラと楽しそうに過ごして、ちっとも来ないんだもの!」
その声に振り向いて見えるのは、白い服に金色の髪の、愛らしい顔の中学生くらいの年頃の少女。背中に羽根は見えないけれど、その少女を一目見て俺は『天使だ』と思った。
その天使が、地団駄を踏むように俺に対して憤慨している。
「す、すみません」
「イシス。危ないから下がっていろ」
思わず謝ってしまった俺の耳に、男の低い良い声が地面を伝わるように入ってきた。驚いてその声の主を探すが、姿が見当たらない。
「大丈夫だよ。アルファ」
天使が振り返った先にあるのは、背景だと思い込んでいた白い大きな塊。その塊がほどけて、姿を見せたのは――
その辺の一軒家よりも大きな真っ白なドラゴン。
そのドラゴンはくーっと背伸びをしてから、まっすぐ俺を見下ろした。
「勇者など、オレがひと飲みしてやろう」
鼻息が掛かるくらいの距離でドラゴンの深紅の瞳に見つめられて、俺は逃げ出すこともできずに、ただその場で呆然と見上げることしかできない。
俺はゴクリと唾を飲んだ。
「ねぇ……イシス。美味しそうなの」
今度は女性の声に、ドラゴンから慌てて目を降ろす。
天使の両隣にいつの間にか黒髪と、金髪の美女がいた。二人の背に広がるのは共に黒い翼――悪魔だ。
短めの黒い槍を抱えた黒髪の美女が、天使に何かを頼んでいる。
「だめ?」
「ダメって……僕に聞かずに本人に聞いてよ。サクラ、ちゃんと了承を取ってからにするんだよ」
「はぁい」
こちらを見た美女と目が合って、本能的になぜか俺は大きく一歩下がった。
美女から少し視線をずらすと、天使はじーっと俺の顔を覗いていた。
「あのー、お兄さん。ほっぺにご飯粒付いてるよ」
天使の声に慌てて頬を叩く。
俺は朝から今までご飯粒を付けたまま歩いていたのか……? いい年して恥ずかしすぎるだろう。取れたかと何度も手を確認するが何も付かない。
「ごめん、どこ?」
申し訳なくも天使に確認すると、天使は「面白い」と笑顔で頷いた。
お、面白い?
「さっきから気になっていたんだけど、お兄さんはやはり僕たちの言葉が分かるようだね。しかも魔族語だけではなくドワーフ語までもだ! と言うことは、勇者である黒髪のお兄さんはこの世界に来るときに与えられた5ポイントのうち、数ポイントを使ってまで、僕たちと対話すること選んだ訳だ。面白い人だね。気に入ったよ!」
なぜこの天使がそのことを知っている。まさかこの天使も転生者なのかと、天使の言葉に驚いていると、突然天使が俺の目の前に現れた。
「イシス! 危険です!」
天使のもとに駆け寄ってくるのは、簡素な鎧を身にまとい、腰に剣を差した金髪碧眼の悪魔。天使はその美女に「リディア。大丈夫だって」とひらひらと手を振ってから、こちらに振り返る。
黄金色の髪に、吸い込まれるような緑の瞳の美少女が、俺を見上げてにっこりと微笑んだ。
「僕は魔王イシス」
名前: イシス
種族: 魔神族
ジョブ: 魔王
スキル: 転移+,魔耐性Lv 99,魔魔法Lv 63,四属耐性Lv 58,▼
循環の女神リュシュリートへの誓約: 僕が僕自身に自慢できるような人生にする!
HP: 4128
MP: 12983
攻撃: 5249
防御: 6332
魔法攻撃: 5899
魔法防御: 4721
「お兄さんの名前を教えて」
「俺は、西川――」
「ニシカワだね」
天使にしか見えない魔王は微笑みながら、こちらに向かって手を伸ばした。
「勇者ニシカワ。よかったら魔王城で働かない?」
俺に向かってまっすぐに伸ばされるその手――
俺はこの日、白い服の人たちを裏切った。
Fin.
最後までお読み頂きましてありがとうございます。
魔王エーネの物語はこれで終了ですが、少しおまけの後日談があります。




