エピローグ 朝食は卵かけご飯(1)
『世界の狭間へようこそ!』
缶ビール片手にしばらくその文字を眺めたあと、ビールに口を付けて「やっぱ、連休最後のビールは最高だ!」と独り言を言ってから、再び前を向く。
『世界の狭間へようこそ!』
明日は5日ぶりの仕事だ。もちろん俺は行きたくないが、でもまぁ、誰だってそうだろう? 地面に寝転がって、「いやだ、いやだ」と子どものように泣き叫べば行かずに済むのだったら俺はそうする。課長の前でだってやってやろう。
いつも連休最後の日はそう思う。だけど、会社に行けば、午後には嫌々ながらも俺は真面目に仕事をしているのだ。
発注先に電話を掛けて、時には設計部門に修正を依頼して――双方に板挟みにされながらも、一円でも安く製品を作れるようにするのが俺の仕事だ。この仕事を続けてもう5年。簡単な契約だったら俺一人で国外でも海外にでも行って、先方と契約を取り付けて帰ってこられるくらいには俺も成長した。
確かに俺は、仕事が嫌だとは思っているけれど、でも嫌ながらも、どこか馴染んでいる自分もいる。だから何度も言うが、嫌だけれども、ここまで嫌がっているわけではないはずだ。
『能力を選んでください。』
その文字のあとに現れた膨大なリストに軽く目を通して頭を押さえた。
俺はどうやら、トランクスとバスタオルと缶ビール片手に、ゲームの世界に紛れ込んだらしい。もう、寝よう……と思っても、俺のベッドがない。それどころか、周囲にはこの目の前の透明なボード以外は何もない。
透明なボードに背を向けて、地面に座って残りのビールを飲む。目に写るのは見渡す限り真っ白な世界。
ここはどこだろう……
いや、まさか……! そう思いながら固い地面の感触を確かめる。
俺は2ヶ月前、大学時代から付き合っていた彼女に、「別の人と結婚することになりました」と突然言われてフラれた。確かに最近疎遠だったし、倦怠期かなとは思っていたけれど、でもこの終わり方はあんまりだろうと俺は人生初めて号泣しながら友人と浴びるほど酒は飲んだ。
あの頃は俺も確かにぼろぼろだったけど、この頃は落ち着いていたはずだ。自殺するほど心を痛めていたわけではないはずだ。
そうだったはずだ。
ビールもなくなって、少し寒くなってバスタオルを肩にかけて立ち上がる。
『能力を選んでください。』
どうやらこの夢は、ここで何かアクションを取らないと進まないらしい。
「わかったよ」
俺は少し苛立ちながら、目の前のボードに指示される通りに能力を選択した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「勇者様。どうかこの世界をお救いください!」
まぶしい光の中、その声にゆっくり目を開くと、真っ白の服を着た若い女性が真剣にこちらを見上げていた。そして――
「いやっ、キャーっ!!!」
俺は平手打ちをくらった。
俺がトランクス一丁なのは、仕方がないことでそうしたかった訳ではないことを説明するけれど女性はこちらを見てはくれない。このままではただの露出狂だと俺が焦っていると、女性の後ろに3人の男性が立っていることに気がついた。
その人たちに俺の状況を必死に説明するが、彼らは悪意の感じる目で俺を見ながら、何か相談話をしている。
一人が一歩前に出た。
「勇者様。何か服を着てください」
俺は素直に頷いた。
服を着て、寝て、起きても俺の夢は覚めなかった。
俺はなんとこの世界の勇者らしい。この世界で魔王を倒すのが俺の使命だそうだ。
俺を召喚したここの人たちは、ただそれしか繰り返さないが、俺が頑張って聞き出した情報によると、この世界は魔族領と人族領の2つに別れていて、今俺がいる場所は人族領の王都らしい。
人族領の王都。大通りや王城周辺に行けば華やかな場所もあるけれども、白い服の人たちの住処であるこのエリアは、俺が知っている言葉で言えば難民キャンプ。そんな場所だった。
そして、ここの人たちがこんな狭い場所で、肩を寄せ合って貧しく生活しているのは、すべて魔王が原因だそうだ。
俺が倒さなければいけない魔王は、魔族領にある魔王城に住んでいる。そしてその魔王は魔族領では飽き足らず、今や人族領まで手を伸ばして、人族の東州はすでに魔王の支配下であるらしい。
そんな悪の権化の魔王と、魔王の配下にまで落ちぶれた東州領主が現在積極的に行っているのが――交易だ。
人族側は豊富な人材資源を生かして、衣類や食品などを輸出している。その代価として魔族領は刃物や宝石を贈ったり、また一部の強大な力をもつ魔族が冒険者ギルドに所属して人族領各地の魔獣退治を引き受けたりしている。
そしてなんと、魔王は900年前まで、人族と血で血を洗う悲惨な戦争を引き起こしていたそうだ。その戦争では人族側から、多くの死者が出た。その話をするとき周囲の皆はいつも泣いている。なんてひどいことをする奴なんだろうと俺は思う。
「勇者様。どうか魔王退治をお願いいたします」
「勇者様。我らに光り輝く未来を!」
俺の現在の状況を一言で説明すると、俺は怪しげな宗教団体に捕まっている。
いや、怪しいどころじゃない。完全にアレだ。
俺が何か一言でも彼らの意見を否定しようものなら、彼らはぞっとするような目で俺を見る。そして俺が間違いを認めると、今度は決まって天使のように俺に向かって微笑むんだ。
彼らはこの狭い世界にいて、どうして自分たちがこんな貧しい暮らしをしなければいけないのかを、わかっていない。なぜ東州領主が魔王と協力しているのかを考えようとしない。
だけど彼らの意見を変えようとするほど彼らに思いやりがあるわけではないので、俺は毎日社会人スマイルで宗教話をやり過ごしながら、「魔王退治に今すぐ行きたい」と積極的に主張することで、四六時中監視されている状況からできるだけ早くここを離れられるように仕向けた。
「勇者様。行ってらっしゃい!」
少年少女たちに手を振られて見送られる。白い服の人たちを裏切っても、俺はもう何も感じないけれど、これには少し心が痛む。こいつらわざとやっているのではないか。
俺に懐いてくれた少年の頭を撫でてから、俺はこの難民キャンプを出た。
俺の横には屈強なおっさんが3人と若い女性が一人。俺の監視――もとい護衛として付いてきてくれている。俺を張り手した女性は、旅の間中俺の横でひたすら延々とアウシア様の素晴らしさについて語り続けている。俺は一刻も早く人の多い都市に行ってこいつらを撒きたいのに、この女性は日中ずっと話し続けているからか、すぐに疲れて休みを取らなければならない。どうやらこの女性はアウシア教の中で偉い人らしく、配慮しなければいけないお方だそうだ。
そして、夜、ときどき俺を誘う――
己の任務だと分かっているような顔で俺を誘う。
だけど、ほいほいその話に乗ると、壺を買わされるよりも悲惨な目に遭うのは分かっているので俺は断固として拒否する。こんな環境だし、俺は女はもうごめんだ。
それに黒髪は嫌いなんだろう?
俺が断ったときの、心の底からほっとした顔。
もう――うんざりだ。
王都からのろのろと旅を続けること2ヶ月。なぜか道が少しずつ綺麗になってきた。レンガのようなもので舗装された道に、馬のいない――どうやって走っているのかわからない馬車のようなものをときどき見かける。
彼らの話を聞いていると、どうやら、悪の巣窟である東州に近づきつつあるらしい。魔族領に行くには、どうしても東州を横切らなければならない。俺の旅の連れ合いの悲壮な顔に反して、徐々に明るくなっていく村人の笑顔を見るたびに、俺も笑顔を思い出してきた。
そして、夜、宿屋で冷静を装って俺は提案する。
「魔王を確実に退治するには、勇者だと俺が早々にバレる訳にはいかない。この面子は目立つから、これからは別々に行動したい」
何度も何度も『魔王を退治するため』だという部分を強調して、集団で行動することによるデメリットを説明する。そして魔王を確実に退治するためには、俺は魔族や東州についてもよく知らなければならない。そう必死に、アウシア様の伝説まで引用したプレゼンをすることで、俺は了承を得た。
これからも変わらず監視はされるようだけれども、魔族に見つかっては意味がないので最低限だ。アウシア様のことを呪いのように毎日聞かなくて済むのだと分かって、俺は叫びたい心を抑えてゆっくりと部屋に戻った。
部屋の扉を後ろ手に閉めてから、俺は静かに踊った。




